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シンプリストになりたいのです

本・『片をつける』の感想

GW、皆さまいかがお過ごしでしょうか。おでかけをしたり、お買い物にでかけたり。中には長期休暇を利用して大掃除や断捨離をされているって方も多いのではないでしょうか。

今日はそんな”お片付け”にまつわる小説を読了しましたので、感想をネタバレ交えて綴っていきたいと思います。

片をつける 物語冒頭の詳細

マンションの薄暗い廊下の突き当り、805号室が阿紗の住まい。買い物から帰宅してみると、扉の前には謎の物体が。よく見ると、巨大化したねずみのような老婆がびしょ濡れの恰好でしゃがみ込んでいたのです。老婆は突然の雨に打たれてしまったのだそう。

阿紗はその老婆と会うのは初めてでしたが、彼女が誰なのか知っていました。マンションの契約の際、管理している不動産会社の担当者が言っていたのです。

「お隣の804号室には、ばあさんがひとりで住んでるんですがね。これが相当な変わり者でして。

(P16より引用)

「世の中に対しても人に対しても、とにかくいつも怒っている。不機嫌が服着て暮らしているみたいなばあさんです。つかず離れずっていうより、つかないほうがいいですよ」

(P16より引用)

阿紗は厄介ごとに巻き込まれたくはないと思いつつも、部屋を無くしてしまって困っているという老婆を置いておくこともできません。管理会社の人がくるまで部屋にあげることにしました。

よくよく老婆の話を聞いていると、紛失した鍵はスペアで、部屋の中に本来の鍵があると言います。これ以上、老婆と関わるのは面倒だと思った阿紗は、自宅のベランダから老婆宅のベランダに移動できないかと思いつきます。老婆のベランダを見てみると窓も空いているようです。勝手に眠りこける老婆を置いて、阿紗は老婆の部屋に向かことにしました。

無事、老婆宅のベランダに足を踏み入れてみると、目の前には衝撃の光景が広がっていました。十畳ほどの部屋は足の踏み場もないほど物が散乱し、なんとも言えない臭いが部屋に充満していたのです。

なんとかその部屋に足を踏み入れ、鍵を探しますが見つかりません。老婆はチェストの引き出しの真ん中にちゃんとあると言っていたのに…です。

しばらくチェストの中やあちらこちらを探していたら突然、老婆の低い声が。鍵を開けて扉を開けているのではありませんか。どうしたのか聞いてみると、なんと首から鍵をぶら下げていたというのです。阿紗はどっと疲れてしまうのでした。

 

阿紗はもうすぐ齢40歳を迎えようとしていますが、男性との縁はありません。複雑な家庭環境に育ったため、出産も望んでいませんでした。とはいえ子どもと触れ合わずに歳をとっていくのも寂しい。そんなわけで自宅で子ども達に絵本の読み聞かせをする仕事をしています。

幸い、阿紗には、不労所得がある。

正解でそれなりに名の知られていた母の愛人、つまり阿紗の生物学上の父は、生前、母にこの都内のマンション、三部屋分の所有権を譲った。

三年前に母がなくなり、それがそのまま一人娘の阿紗の物になった。

あれほど嫌っていた男の持ち部屋を譲り受けるのは抵抗があった。だが、これは不幸な生い立ちに対する慰謝料なのだと思い直した。現金な人間だと思う。それでも女ひとり、贅沢しなければ、なんとかやっていけるくらいの保障がほしかった。そんな中で見つけた読み聞かせの仕事だった。業務委託先の会社にしっかりマージンを取られるのでスズメの涙にも満たないほどの収入だ。それでも週に二回、一時間半。近所の子供たちを集めて絵本を読むことに、それなりにやりがいを感じている。

母に絵本を読んでもらった記憶はない。だから、こんなふうに聞かせてほしかったと思うトーンで、大袈裟にならない程度に感情を込めている。

(P32-33より引用)

阿紗の母親は、愛人として我が身を飾ること以外、何もできない女でした。家事も育児もしない。週に1~2回、男が訪ねてくる日はリビングと寝室に散らばっている物全てを阿紗の部屋に押し込めるだけ。阿紗の部屋はゴミ溜めでした。母親のいらないものをすべて押し込んだその部屋で、母親からいらないと邪見にされている阿紗も同様に籠らざるを得なかったのです。

片付けの仕方を教えられることなく社会人になった阿紗ですが、職場の先輩から”片付け”の方法を教えられ、今はきれいで片付いた部屋で過ごすことができています。

 

老婆の部屋から戻り、子ども達に絵本の読み聞かせをしている最中のこと。先ほどの老婆が礼をしに、再び阿紗の部屋にやってきたのです。子ども達に招き入れられ、そのまま上がり込んだ老婆は絵本の読み聞かせが終わり、子ども達が返っても帰宅せず部屋に居座っています。老婆の名前は八重というそうです。

「まぁ、しかし。あんたにも長所はある。まぁ、この部屋を見る限り、掃除はうまい。うちと同じ間取りとは思えないね。絵本を読むより、掃除のほうがうまいんじゃないか」

褒められているのか、けなされているのか。

「それはどうも」

「その長所を見込んでだ、お願いがある」

「お願い?」

思わず身構える。

「実はね」

八重はワンピースの襟ぐりに手を突っ込み、首にかけていた鍵を取り出した。

「これ、預かってほしいんだ」

(P50より引用)

「それと、これからが本題だ。実は昼間にあんたが出ていってから、チェストの中を見たけど、いくら捜しても、あるはずの鍵がないんだ。で、見るけるの、手伝ってほしいんだよ」

不気味な笑顔でこちらもを見る。

「で、ついでに、部屋の片付けも、手伝ってほしい。さっき見ただろ。あのザマだからね。こっちもどっから手をつけていいかわからない」

ゴミ箱をひっくり返したような部屋が思い起こされる。

隣の部屋ではない。

子供時代を過ごした部屋だ。

ゴミの海に浮かぶいかだみたいなベッドの上でヘッドフォンで音楽を聴いている少女。

あの頃、自分も、どうすれば部屋が片付くのかわからなかった。どうすればこのわびしい匂いがなくなるのか、どうすればベッド以外の自分の空間が作れるのか。なんとかしたいのに、なんともできなかった。

(P51-52より引用)

「ちょっと待ってください。どういう論法なんですか、あたしまだOKしたわけじゃ――」

「論法も文法もへったくれもない。きょう、この部屋に来ておもったんだよ、やっぱり、片付いている部屋はいい。汚い部屋は汚いなりに味があるし、落ち着くなんて思っていたけど、とんだ間違いだった。やっぱり部屋はこうでなくちゃ。すっきり片付いて空気まで澄んでいる。この辺がすっとするんだよ」

八重は胸のあたりを撫でた。

「あたしの部屋だって昔はこんなだったんだ」

嘘だ、絶対に。

「だけど、どこでどう間違えたのか、気がつくとあのザマさ。明日こそ片づけよう明日こそって思ってるうちに気が付いたら…。きょうあんたに会ったのは天の思し召しだ。そろそろおもえもいい年だ、万一のときに備えて、部屋の片づけを始めろってね。何度も言うが、あたしも見かけほど若くはない。残り少ない人生、きれいな部屋で過ごしたいじゃないか。流行りの終活ってやつだよ」

(P53-54より引用)

そしてなんだかんだと阿紗は八重に言いくるめられ、半ば強制的に八重の部屋のスペアキーを預かり、マスターキーの捜索と部屋の片づけの手伝いを引き受けるのでした。

阿紗は八重の部屋の片づけを通して、少しずつ八重のことを知ることになります。ペットであるコノハズクのヨハネのこと、実は修道院で見習いをしていたが、分け合って逃げ出してきたこと…。そして同時に、阿紗自身の過去を振り返ることにもなるのでした。

感想

冒頭は少し時系列があちらこちらするので「ん?」となることがありましたが、全体的に小説として読みやすく、起承転結がしっかりしていてとても楽しく読むことができました。

お片付けの方法もわかりやすく、物語に絡めて書かれていて、その辺りも好きなポイントでした❀

何より八重さんのキャラクターがいいですね。憎まれ口をたたきながらも、どこか憎み切れないそんな人。

『殴られたからって、ののしられたからって、あんたの価値が下がるわけじゃない。逆も同じ。褒められたからって、あんたが立派になるわけじゃない。あんたはあんたのままでいい。自由気ままにおやり』

(P169より引用)

そのままでいいよって、なかなか言ってもらえることってありませんから、染みる台詞でした。

気に入ったお片付けポイント と 私の過去回想

私も今は、ミニマリスト的なシンプルな生活をしていますけれど二十代半ばくらいまでは本当に片づけることができませんでした。部屋の中に服の山や飲みかけのペットボトルなんかを放置して…というわかりやすい汚部屋を錬成していたのです。お恥ずかしや。

禅やお片付けの本と出会ったことで今はすっきりとした暮らしができていますが、出会っていなければ と思うと背中がゾワっとします…。

個人的に作中でいいなと思ったお片付けシーンをいくつかご紹介します。

「細かいゴミの分別はあとでこちらがしますから、いらない物はミネラルウォーターの箱のほうに。紙クズとか布きれはポリ袋にいれてください」

分類しすぎないのも、片づけの基本だ。最初から細かく分類しすぎると、「これはどっち?」「どうしたらいいかわからない」と仕分け自体が億劫になってしまう。

「いる、いらないを見極める基準はおまかせしますけど、取っておく物は、ひと目で把握できる数にしてください」

八重は「終活をしたい」と言っていた。人生を畳む準備をしたいのなら、物への執着は極力おさえたほうがいい。

「『これはいる』と思っても、もう一度自問してみてください。『はたしてほんとうにいるのか』と。そこまでして大切な物なら、なぜチェストの底で眠っていたのかと考えてみるといいですよ」

(P59より引用)

お片付け経験者の私としても、まさに基本中の基本であり、すっごく難しいのがここなんです。

いる・いらないの判断は今でも難しいです。意気揚々と初めても、根を詰めすぎるとあとでしんどくなってしまう。最初はざっくり、あとでしっかりの塩梅が難しいんですね。いらないとわかっていても、いまだに捨てられない物も多々…。次の引っ越しではバイバイしようかと思ってはいます。

八重の膝の上には筆記具の山ができている。一日一本のボールペンを使い切るという勉強法を聞いたことがあるが、これから医学部をめざして浪人でもしない限り、すべてを成仏させることはできない。

「ポストカード一枚にスマイルマーク600個。それを四十九枚。29249個書き終えてようやくボールペン一本の寿命が尽きるっていう実験結果を前になんかで読んだことあるんです。ボールペンのインクってそれぐらいたっぷりあるんですよ」

スマイルマークをひとつも書かないままボールペンを死蔵しているほうがよっぽど勿体ない。

(P62-63より引用)

これ、私の実家もなんですけれど、あの大量のボールペンって何なんですかね?文房具を入れいている引き出しには、それはもう山のように筆記具が入っているんです。ボールペン、鉛筆、色鉛筆、シャープペンシル蛍光ペン、マジックペン…それが各種各色ずつとかならいいんですけれど、ボールペンだけで20本、鉛筆だけで30本…ってなると、もう「なんで?」と思うんです。使わないなら処分するか、メルカリにでも出せばと言っても減らずじまい。今度、この話をしてみようかなと思います。

「ふーん、捨てる神あれば拾う神ありだねぇ」

「そうなんですよ。いらないと思った物でも、どこかで誰かが必要としている。そうしてその人がちゃんと使ってくれる。そうやって物のいのちをつないでいくほうが、捨てるより気持ちが楽ですよね。だから、家で死蔵しているくらいなら売ったほうが――」

「はいはい、わかりましたよ」

(P93より引用)

初めての私の断捨離ではゴミ袋は20袋以上を処分し、車で数回の往復が必要な量の衣類やら何やらをリサイクルショップで手放しました。これが結構な金額になりました。その何十倍も無駄遣いしたということです。

こんな無駄買いが抑えられるようになってからも、1~2年に1回くらいはリサイクルショップで物を手放しています。捨てられなかった物をやっと手放せたとか、買ってみたけれど合わなかったとか、理由はいろいろありますけれど。それでも、随分と減ってよかったと思っています。

リサイクルショップやフリマアプリは本当にありがたいものです。私は使い切ることができなかったものを使ってくれる人がいるのは、免罪符のようなそんな気持ちにもなります。ごめんね、ありがとうと。

片づけをしていると、途中で懐かしい物が出てきてしばし作業が中断する。いつまでも思い出に浸っていてはダメだと思い直して再開するが、すぐにまた別の物を見つけ記憶を手繰る。その繰り返しで片づけがなかなか進まないという話をよく聞く。

そんな時間が少し羨ましい。

十八で独り暮らしを始めたとき、荷造りは簡単だった。最低限必要な身のまわりの品と祖母からもらった鳩時計だけを段ボール箱に詰めた。その他の私物は家具以外、すべて捨てた。母と暮らした家には、手にして心が温かくなる物も、振り返りたくなるような思い出も何ひとつなかった。

(P153より引用)

思い出あること、メリットもあればデメリットもあるもの。片づけは確かに捗らないけれど、思い返すことができる思い出があるということはいいことだなと思います。

私は随分と捨ててしまいました。後悔はほとんどしていません。捨てたからこそ解放された柵もありますからね。

ただ捨てるものがないということも、メリット・デメリットあるのだなとしみじみ。

「うまく言えないんだけど、あたしは大きなものを捨てたんです。後悔はしていません。でも、捨てたあとの穴からときどき隙間風がはいってくるんです」

同じ歩幅で角を曲がる。

「だから、なんだってことでもないんですけどね」

「穴は穴さ。小手先のもんで埋めないほうがいい。いつかピタっとした穴塞ぎが見つかるかもしれないし」

(P194より引用)

今、とある大きなものを捨てたくて仕方ないんです。けれどそれを捨てることは、物理的にはできないんです。人間関係で、それはそんなに簡単に手放せる関係じゃないから。捨てることができない、だからこそ距離を置いている。臭い物に蓋をするみたいで、現実から目を背けているだけと言われればそうなのですけれど。

それでもいつか手放す日が来たとき、きっと私は後悔するだろうし、穴も開くと思うんです。そのときのために、この言葉は覚えておかなくてはと思います。

部屋は頭ん中と似ている。あの頃のあたしの頭の中は部屋と同じくらいぐちゃぐちゃで、これが自分の望んでいた生活なのか、考える隙間もなかった。物がないと不安だから買い物がけはやたらとする。それ以外は、何もする気が起きなく、いつもイライラしていた。

そんなときにあんたに出会った。

(P218より引用)

私がミニマリスト的な生活をするようになって、よく言われるのが「なんのためにそんな侘しい生活をするの?」という言葉。

部屋に物が少ない状況は人によっては”侘しく”見えるのだそう。ただ、当の本人は詫びしいどころか、物が溢れかえった頃よりも豊になった気持ちでいます。自分はもうすでに必要な物に満たされている。禅の本には「知足」とか「足るを知る者は富む」なんて表現をされていましたが、そんな状況です。

物が自分のキャパシティーより多くなってしまうと、何処に何があるのかがわからなくて、それはただの障壁になります。物ではなくなってしまう。障壁は私にとってはとてつもないストレスですから、何も考える気もやる気もなくなってしまう。物や周囲の人を大切にしない、そんな私になってしまうんです。

必要最低限の量まで所有物を減らすことで、障壁は物に戻ります。心にゆとりもできますから、どうすべきか考えることができるようになるわけですね。

まとめ

『片をつける』はお片づけの流れについて、結構網羅的に描かれていると思います。お片づけを始めるフランクな導入本になると思います。それに、これからお片づけをされる方のモチベーションアップにもなるのではないでしょうか。

お片づけに興味がありましたら、ぜひ読んでみてください❀

 

映画・「耳をすませば」の感想

2022年に「耳をすませば」という映画が公開されていたのですけれど、ご存じでしょうか?

ジブリのアニメーション映画ではありませんよ。実写映画です。今回はその作品の感想やあらすじなどをネタバレ交えて綴っていきたいと思います。今回は少々辛口目です。

映画・耳をすませば (実写作品)について

1989年夏。読書が大好きな中学生・月島雫は一冊の本を読み終えました。図書貸し出しカードに書かれた「天沢聖司」という名前が目に留まります。どこか見覚えのある名前だと思い、他の本も確認してみると、どれも自分より先に彼の名前があることに気が付いたのです。夢見がちな雫は一体どんな人なのかと思いをはせるのでした。

翌日、雫は友人の夕子と学校で会う約束をしていました。図書室で本を借りた後、夕子の相談を受けますが、それは恋の相談でした。その最中、なんと夕子が思いを寄せている同級生の杉村が会話に入ってきます。唐突のことに驚いた夕子は、つい逃げ出してしまうのでした。

雫は夕子を追いますが、途中で図書室で借りてきた本を忘れてきたことに気が付きます。慌てて取りに戻ると一人の少年が、雫が借りた「フェアリーテイル」という本を読んでいました。雫は勇気を振り絞り、彼に声を掛け本を返してもらいます。けれど、彼は物語のテーマとなっている妖精のことを小ばかにして去っていくのでした。

なんとも最悪な出会い方をした2人ですが、実は彼が雫が夢に描いていた「天沢聖司」だったのです。それから少しずつ交流をもつなかで、お互い惹かれあうようになりました。

聖司は祖父が営む「地球屋」という店の2階で、チェロの練習をしています。将来の夢はチェリストになること。

「本 読んでるとチェロの音がするんだよ」

「えっ?」

「楽しい音だったり、悲しい音、ドキドキする音」

「そうなんだ。私もね、いつも本 読んでてつまんなかったり、感動したり、いろいろ感じるんだけどそんなとき音がするの」

「どんな?」

「うーん…なんだかよくわからないんだけど、なんか、水が落ちるみたいな」

「へぇ、じゃあ音の種類は違うけど、俺ら似てるのかも」

一方、雫はまだ将来の夢を決めかねていました。

「夢…?あー…私はわからないな。ただ最近、本 読んでもあんまり音が聞こえなくて。なんか物足りないような感じがして」

「じゃあ自分で書いてみれば」

「えっ」

「書いてみればいいじゃん、物語」

そして雫は物語を書くことになりますが、当然、そう簡単にいくわけではありません。生みの苦しみを味わいながらもなんとか物語を書き続けます。そんな雫に聖司は物語が書けたら自分を一番の読者にしてほしいと約束するのでした。

それからしばらくして、聖司は自身の夢をかなえるためイタリアに渡ることを決めました。雫も荒削りながらも物語を書き終え、これからも書き続けると決めます。そして二人はお互いに自分が相手を思っていることを伝え、10年後にまた同じ場所で再会することを誓い合うのでした。

ここまでは、あくまで前情報。途中途中で回想シーンとして出てくる物語です。本作でメインとなるのは、この10年後の1999年の物語。

大学へ進学した雫はその後、作家になるのではなく出版社に就職しました。今も物語は書いていますが、コンクールに応募しても落選ばかりだったからです。パワハラ気味の上司と童話作家の間で板挟みになりながら仕事をするうちに、雫は心の中で音が聞こえなくなってしまっていました。

聖司はイタリアで修行を積み、今はカルテットを組んでCD収録をするなど忙しくしていました。ただすべてが順風満帆というわけではなく、楽譜の解釈や表現の仕方などで戸惑い、焦燥する日々だったのです。

お互い、電話は手紙での交流はありますが、会えないまま10年。それでもお互いの存在が頑張るための支えとなっていたのです。

しかし、どうしても仕事が行き詰まってどうしようもなくなった雫は、有給休暇を取得し、聖司に会いにイタリアへとやってきます。そこで雫は、聖司が女性(サラ)に抱きつかれているところを目撃してしまいました。いったんは見て見ぬふりをしてその場をやり過ごしますが、その日の夜、雫と聖司のもとにそのサラがやってき、自分は聖司のことを好いていると宣言します。居ても立っても居られなくなった雫はその場から逃げ出し、そのまま日本へと帰宅します。出迎えた友人の夕子には聖司とは別れてきたと告げるのでした…。

 さて2人はいったいどうなってしまうのか…?みたいな物語です。

ジブリの「耳をすませば

耳をすませば」と聞いたら、まずジブリ映画を思い浮かべるのではないでしょうか。ただジブリ版「耳をすませば」とは結構違う点が多いです。ざっくりと違いを紹介します。

 まず、雫が夕子の相談を受けるシーンから。ジブリ版では合唱部に所属している夕子は、「カントリーロード」の曲に和訳した歌詞をつけてほしいと雫に頼んでいました。雫は自分が書いた歌詞を披露し、その後恋の相談を受けます。そして、本を忘れてきたことに気が付いた雫は、本を取りに戻ります。本を返してもらいざま、彼は雫の書いた歌詞にダメ出しをしてきます。勝手に読まれた恥ずかしさやら、なんやらで雫は聖司に「やなやつ」という烙印を押すのでした。

作中、この「カントリーロード」はすごい重要なのではないかと思うんですけれど、これは実はジブリオリジナルです。原作漫画にも実写映画にも出てきません。たしか、鈴木敏夫氏の娘さんが作詞し、宮崎駿氏が修正した…とかそんなエピソードがあったように記憶しています。

雫は「カントリーロード」の訳詞などの経験から、自発的に物語を書こうと!決めますが、そもそもジブリ版以外では訳詞をしているという描写もありませんし、物語は人から進められて書き始めるといった感じです。この違いは結構重要なのでは?と個人的に思います。

 次に、聖司の夢はバイオリン職人になること。実写映画ではチェリストですし、実は漫画原作では画家志望なのでどの作品でも違うんですよね。

 あと最後に大きいところだと、ジブリ版ではラストの方まで聖司は雫が物語を書いているということを知りません。雫はたった一人で物語を生み出す苦しみと戦います。職人って孤独なんですよね。

そして最初の読者になるのは聖司ではなく、彼の祖父で地球屋の店長です。雫の書く物語には、聖司の祖父が宝物にしている猫の人形 バロンが出演しています。その出演を許可してもらう際に、許可する代わりに書き上げたら最初の読者にしてほしいと言われ、雫は躊躇いながらも承諾したのでした。そしてなんとか書き終えた物語を読み終えたのち、雫は聖司の祖父から夕食を振る舞われながら、彼の過去の話をきいたり、大切にしていた原石をもらうのでした。

原作漫画「耳をすませば

では原作はどういった設定なのでしょう?

まず、雫と聖司が出会うストーリーや友人である夕子、杉村などの設定は概ね実写映画と変わりません。

大きく違う点は、原作では聖司の夢はバイオリン職人でもチェリストでもありません。絵を描くことが好きですが、画家志望だと明言しているわけではないんですよね。なりたいけどまだ悩んでいるような印象をうけました。…ということで、10年後にまたここで会おうの件は一切ないんですねぇ。告白のシーンはありますけど、ちょっと違うんです。

私も原作の続編「幸せな時間」を読んでいないので、そちらの方で将来の夢については詳しく出ているのかもしれませんが、あくまで原作漫画「耳をすませば」にはそういった描写はありませんでした。

また聖司のすすめで物語を書き始めるところは同じですが、誰かに読んでもらうという描写もありません。代わりに、雫の姉と聖司の兄の恋模様が少し垣間見えたり、そこで紆余曲折があったり…。実写版・ジブリ版が雫の成長物語である一面が強いですが、原作漫画は恋愛コミックとしての一面が強いように感じました。

本当にすべての原点という感じです。

感想

ここから感想なのですが、これはあくまで個人的なものです。作品を酷評するわけではありませんが、あまりポジティブな感想というわけではありません。ネガティブな話を聞きたくない!という方はご注意ください。

 

まず実写映画をみて一番に思ったのは「結局のところ何がしたかったの?」ということでした。なんというか、おいしそうな部分だけかいつまんで混ぜてみたよ★感が否めない。

過去回想シーンは概ね、原作漫画をベースに作られています。回想シーンを原作漫画ベースで描かれると、こちらは「あぁ原作漫画の続編として楽しめばいいのかしらね」と察すると思うんですけど、そうじゃないのです。ここにちょいちょいジブリ版のシーンのが紛れ込んでくるんです。

例えば雫が聖司の演奏で歌を歌うという描写。ジブリ版では「カントリーロード」、実写版では「翼をください」と違いはありますが、見ている側からすればジブリ版を連想するシーンです。そのほか、聖司が海外に修行にでて雫が帰りを待っているという設定などなど。

こんなふうに「ここは原作版!ここはジブリ版!そしてチェロに関する物語はオリジナルね!」とされると、正直「ん?」「んん???」の連続でした。

 あと全体的にセリフ回しやら脚本やらが古臭くて、トレンディドラマでも見せられているのかしら?という感じだったんです。よくよく考えれば、その感想は間違っていない…はず。だって物語の舞台が1999年だから。歴史映画みたいなノリでみれば、違和感はないかもしれません。これは現代ではなく、歴史もの…!平成初期がもう歴史ものなのかぁとちょっと悲しくなりましたけれど。

 まぁアニメーションだと許される演出を実写化した瞬間に白々しく見える…というのもありますかね?とも思ったり。

 ちなみにエンディングの映像はジブリ版のオマージュでしたけれど、杏さんが歌う「翼をください」が美しかったです❀ここはとてもおすすめですね❀

これから見る方へのおすすめ

文句言っておいて おすすめ?と思われるかもしれませんけれど、原作・ジブリ版・実写版とすべてみた私から、「ジブリ版をみました~」とか「原作版をみました~」という方にこれだけはおすすめしたい!

それは、それぞれを全く別のものとしてみるべし!ということ。

ジブリ版だって原作からみたら「設定が全然違う!」と思うのではないでしょうか。ジブリファンからしたら最初から原作に忠実な作品になると思っていないので、何とも思いませんが(慣れって怖い)。原作大好き!という方が初めてのジブリ作品でジブリ版「耳をすませば」をみるとびっくりすることでしょう。

それと同様に、全くの別物としてみてほしいのです。原作は原作、ジブリジブリ、実写は実写と考えてみれば楽しめると思います。

私は「続編楽しみだな❀」という頭で見てしまったから、合わなかったと思うんです。先入観ってよくないなぁとしみじみ…。だから楽しめなかったのは、私の問題なんですよ。そういう先入観なしで、ちゃんと時代背景とか意識するとそう悪い印象にならないと思うんです。

よもやま話

いつもは基本的にポジティブなことしか書いていないのですが、今回は少し正直な感想を綴ってみました。

普段、映画をみたらこちらで感想を書いていますが、すべての映画の感想を書いている…というわけではありません。素晴らしい映画でも、自分のなかでまだ未消化な映画は書けません。高畑勲監督の遺作である「かぐや姫」。個人的にはすごいよかったんですけれど、これは1回みただけでは書けないなと思いました。何度かみて、自分のなかで咀嚼できるまでは書かないと決めています。

それ以外にも、正直自分には合わない、つまらないと思った作品は書いていません。年に数作…あるんですよね。これは好みですから!仕方ありません。でもだからと酷評するのは違うな…と思うので普段は書いていないんです。

でもたまにはね、正直に感想を書きたいですし、先入観を持ってみて苦しむ方がいるかもしれないから微力ながら注意喚起というかお手伝いになればいいななんて少しばかり思ったり。

あくまで、個人の感想ですけれどね❀

 

本・女子的生活

以前、『和菓子のアン』という小説を拝読し、その軽やかなタッチが大変気に入った坂木司さん。これは新しい好きな作家さんに追加だな、と思いつつも、この1シリーズだけで決めるではなく、他にも読みたいなと思いまして。

そんなわけで、坂木司さんの『女子的生活』という小説を拝読いたしました。あらすじをネタバレ交えて綴っていきたいと思います。

女子的生活のあらすじ

おしゃれして、好きなインテリアで部屋を飾って、(ブラックだけど)アパレル勤務♡

みきは憧れの〈女子的生活〉を謳歌していたが、ある日、マンションの部屋の前に不審な男が。「あの、ここに小川って奴が住んでるって聞いたんですけど」

マウンティング、モラハラ毒親。次々現れる強敵に、オリジナルな方法でタフに立ち向かうみき。

読めば元気が湧いてくる痛快ガールズ・ストーリー。

(裏表紙より引用)

ネタバレ交えたあらすじ

みきは大好きなミュージシャンの曲で毎朝目を覚まします。アッパー系の音楽に合わせて身支度をこなして、朝食は量り売りのシリアル。まるでお菓子のようなアップルシナモンのシリアルにヨーグルトやバナナを追加して、乙女のお腹を満たします。フレアタイプのショーパンに、エアリーな素材のブラウス、ちょっと辛いテイストを入れるためにカーキの七分袖のジャケットで引き締めて…。メイクもばっちり、ちょっと太めのヒールをはいて、鏡の前で全身チェック。これでふわふわ女子の出来上がり。

”共通の趣味”を通して出会った ともちゃんと意気投合して、はじめたルームシェア。夢の東京ライフ。2LDKの部屋には大好きなインテリアに囲まれた素敵な世界。まるで気分はニューヨーカー。けれど、そこにみきは今一人で住んでいます。ともちゃんに恋人ができたのはつい最近のお話。恋人と同居することになったともちゃんは部屋を出ていくことになったのです。2人でならちょうどよかった部屋の広さも、家賃も、一人であればそうとも言えません。みきはどうしようかと悩んでいました。

そんなある日、帰宅したマンションの廊下に男性がうずくまっているのが見えました。しかもみきの住む部屋の前に。おそるおそる声をかけてみると、男性は慌てて顔をあげ、立ち上がって言いました。

「あの、ここに小川って奴が住んでるって聞いたんですけど――」

(P18より引用) 

そして みきは男性が高校生の時の同級生である後藤であることに気が付きました。話を聞いてみると、後藤は付き合っていた彼女の借金によって一文無しになり、挙句彼女は逃走してしまって、行く当てがなく困り果てた末にここへやってきたのでした。みきは一度は断りますが、いつまでも扉の前に居座る後藤に、ため息をつきながらも家に招き入れ、夕食をとりながら話をすることにします。そこでふと、後藤は何かに気が付きました。

「いやその、え?」

混乱した表情で、後藤は私の顔を見つめた。手にはまだ、コロッケサンドを持っている。私はそんな彼を尻目に発泡酒を飲み、再び唇を親指で拭った。

「――それ!」

コロッケサンドを持っていない方の手で、後藤が私を指さす。

「はい?」

「それ――見たことある」

疑問、否定。再び疑問、そして再びの否定。困惑。逡巡、後藤の表情は、面白いように変わる。まあ、よくあることだ。ていうか、もう慣れた。

私はその顔面イリュージョンが終わるのを、ただじっと待つ。そしてショーを終えた後藤が、かすれた声で問いかけた。

「……小川?」

「はい?」

私は、後藤に向かってにっこり笑う。ようやくたどりついたな。

「……小川、幹生?」

はい。「みき」こと、小川幹生です。

(P26-27より引用)

みきはセクシャルマイノリティで、体は男性ですが心は女性のトランスジェンダー。そして恋愛の対象となるのは女性。

「わかりやすく言うと、私は女の子になって女の子とカップルになりたいの」

(P28より引用)

「まあ、身体はいつかどうにかしたいけど、手術するにはお金も必要だし。ていうか、手術するほど方向性が定まってないっていうか」

正直、これは私にもまだわからない。なぜなら私は、男の身体を嫌悪しているわけではないからだ。

(P28-29より引用)

この他、自分がいつ頃性別不和を覚えたのか、家族や職場にカミングアウトをすでにしていることなどを二人は話します。そのまま後藤は一泊し、翌朝それぞれ職場に向かいます。

これでおしまいかと思いきや、その夜再び、部屋の前には後藤の姿がありました。もともと ともちゃん が使っている部屋を自分に住まわせてほしいというのです。そしてなんだかんだで、そのまま2人の変わったルームシェアが始まるのでした。

 

1章のあらすじをざっくりと紹介してみました。2章以降は2人の新たな生活についてや、職場でのトラブルや人間関係など様々なアクシデント。それらに みきがどう立ち向かっていくのか…という物語です。

みどころ

ここからは個人的に好きなシーンを抜粋していきたいと思います。

いい時代になったんだろうな、とたまに思う。

だってちょっと前だったら、私みたいな人間は普通に就職できなかったもんね。そしたらありがちだけど水商売に走るか、自分を否定しながら「男」の顔をして生きるしかない。

でも今は思いっきり不況で、会社が気にするのは性の指向よりも賃金と労働力。だから私は、ブラック企業が溢れてる今が大好き。ある意味、すごくフラットだなって気がする。あ、「平等」だとは思わないけどね。

そりゃね、本当は健康的な感じで差別されなくなるのがいいに決まってる。でも、それがかなりの確率で絵空事だってこともわかるし。だったら、やり方次第でなんとかなる今って、結構いいんじゃないかなって思う。

スタートラインが底の方に落ちてきてくれたおかげで、私はそれなりに平等な位置からスタートできた気がする。

(P63-64より引用)

スタートラインのたとえ話を最近聞いたんです。どなたの話なのかもわかりませんがTikTokでたまたま流れてきたのを聞いただけです。

学校の体育の授業で”かけっこ”ってありましたよね。あれをイメージしてください。かけっこでは、皆で一列にスタートラインに並んで、よーいどんで走り出しゴールを目指します。しかし走り出す直前に、先生があることを言います。「毎日、両親とごはんを食べていた人は一歩前に」「塾に通っている人はもう一歩前に」「小さいころからPCやスマホに触れていた人はもう一歩前に」そうすると、最終的にはそれぞれのスタートラインはことなってくる。平等である、公平であるといったことはあり得ないんだ、みたいなお話。

ふと読んでいたら、その話を思い出しまして。みきの立場からすると、スタートラインは底辺。むしろ後ろに下がっている…みたいなことなのかなって思ったんです。「トランスジェンダーの人は一歩後ろに」「レズビアンの人は一歩後ろに」って、そんな言葉を言われているようで辛いシーンでした。みきの言う通り、健康的な感じでスタートラインが揃っていくのが理想ですけれど、現実はそうではありませんよね。難しいなぁ。

自分が、どういうジャンルにいるのかはわからない。

女の子になって、女の子と愛し合うのが理想だけれど、かといって股間のものを憎んでいるというほどでもない。できたら、女の子のものの方がいいなあ、というレベル。

いつか手術して、と思うこともあるけど、それもなんとなく思い切れない。だってこのままでも、私はそこそこ幸せだから。

(それについたままだったら、いつか好きになった女の子との間に、子供だって作れるわけだし)

普通の男の顔をして、偽装結婚だってできる。その可能性を考えると、今のままでいいような気もしてる。

宙ぶらりん。ゲイやレズになりきれなくて、でもヘテロでもない、半端物。この先どうやって生きていくのか、これっぽっちもわからない。お手本になる人もいない。それにそもそも、歳をとっても女子っぽくいられるかがわからない。

わからないことしかない。でも、それなら楽しまなきゃ損。

(P84-85より引用)

後半の宙ぶらりんからの文章がとても考えさせられました。何者にもなれない自分への葛藤。今の私の環境とちょっと似ていて、全然レベルが違うよ!って怒られてしまいそうですけれど、わかるわ なんて思ってしまいました。

「こいつはね、化け物を期待してここに来たんだよ。女になりたくて、女のなりそこないになってるような奴を見て、笑いに来たんだよ」

だって性の問題なんて、最高にジョーカーでしょ。なにをどう頑張っても「でも、あいつオカマなんだぜ」で片づけられるような、スペシャルなトッピング。

「自分より下に見て、貶めても大丈夫な相手だから会いたかった。そうだよね?」

高山田は、ぐっと言葉に詰まったような表情をする。

「でも私が案外ちゃんとした見た目だったから、くやしくなったんでしょ。だからほかの部分で、なんとかして下にしようとしてた」

学歴。仕事。恋人の有無。性生活。踏み込んで、位置する場所を知って、自分と比べた。でもどれも無理だったから、一番特徴的なところをバカにしてきた。

(P124より引用)

一昔…もう二昔くらいになるかもしれませんけれど。男性が女性の恰好をしてTVにでていると「オネエ」とまるでバカにしてネタにするという風潮がありました。ちょっとしたブームになっていたようにさえ思います。

セーラームーンカードキャプターさくらを見て育った私は、男性が女性の恰好をしているとか、逆もしかりですけど、全然違和感はなかったんですね。むしろちょっとした憧れすらありました。

当事者の方からしたら、化け物扱いされるのも、私のように憧れ、ある意味神格化する。こういった目はどちらも迷惑極まりない行為だったのだろうなと反省しているのですけれど。

あと、こういったテーマを取り扱うときにいつも思うんですけれど、性に関してどうしてここまで開示しなければならないんだろうって。身体と心の性別がどうなのかくらいはわかります。けれどトランスジェンダーだからといって、どうして手術をしたのか…とか性生活をどうしているのか…とか、質問されるんだろう。というか、そういった質問をして良いと、許されると思うんだろうって。普通の会話で、絶対しないじゃないですか?それなのに、どうしてトランスジェンダーの方ならできてしまえるんだろう…って。そういうのも、差別的なんじゃないのかな…?と思ったりします。

「受け身って、なんだよ」

やっぱり自覚ないかあ。私は盛大にため息をつく。缶に残った発泡酒を口に運ぶと、ぬるくて気が抜けて飲めたもんじゃない。

「『なんとかして、かまってかまって』って声が丸聞こえなんだよ。しかもさ、してもらったらしてもらったで、どうとでも言えるじゃん」

「どうとでも――?」

「『俺はこんなつもりじゃなかった』からの、『お前がそうするから』ね。でもって最後に、『悪いのは俺じゃない』でフィニッシュ」

一事が万事、そうなんだろ?私の突っ込みに、ミニーさんはついに音をあげた。

「許してあげる、って言ったじゃねえか…」

今にも泣き出しそうな表情で、うなだれる。

「ああ、そうだっけ。ごめんごめん。ホントのことばっか言っちゃって」

だってこういうオトコって、放っておくとすごいテンプレルート辿るでしょ。

『俺がこうなったのは、親のせいだ。社会のせいだ。女のせいだ』

今、女子っぽい立ち位置になってすごく感じるのは、マジでこう思ってる男が案外多いってこと。実際ここまでひどくなくても、合コンとか飲み会の席でぽろりともれる本音に、私はうんざりしていた。

(P151より引用)

これはね、個人的には性別は関係ないと思うんです。私もそういった考えたかをしてしまう自分がときたま顔を出すんです。それで親や夫ともめてしまうこともあるんで、自戒をこめてね。

そこでふと、思う。もしかして私は、ミニーさんのこの「俺は肯定されるべきだ」って感じが、憎らしかったのかも。

〈肯定されない方ばっか、歩いてるからかなあ〉

ヘテロの男ってだけで、生きやすい部分はある。だって女子と話してて思うのは、「私は肯定されない」ってことだから。

派手な服着たらビッチ扱いで、地味な服にしたら非モテ扱い。仕事ができれば鼻につくって思われて、できなきゃただのダメ女。

「なんかもう、どっちに転んでも文句言われるからさ、『きー』ってなる!」

これはよく、かおりや仲村さんが言う台詞。

女子の押さえつけられ感と、男子の無意味な肯定感。どっちも不幸だし、どっちも幸せ。私には、縛ってもらえる安心も、そこまでの自信もない。目の前に広がるのは、茫然とした荒野だ。

どう歩いたらいいのかのロールモデルもなく、共に歩む人もいない。そこには、道がない。でも歩くしかない。そんな感じ。

なんかさ、ちょっと泣きそうでしょ?泣かないけどね。

(P158-159より引用)

男性はどうなのかわかりかねるのですけれど、女性のはなしとしてはとても理解できるわ…!と思ったフレーズ。昔、鞄屋でショップ店員をしていたことがあるんですけれど、そこでこういうことが求められたんですよね。

好きな服を着ていくと露出が多いとか、仕事場に遊びに来ているのかって言われるし、逆に落ち着いた格好をしていくと、接客業をする気があるのか、地味だって言われるし。どっちなんだよー!みたいな。真面目に仕事をして成果を出したら 可愛げがない子って言われるし、できないときは役立たずって言われる。

どんな世界にも、性別にも、あてはまることだと思いますけど、やっぱり「きー」ってなっちゃうよねぇって。

そこまで考えて、ふと振り返る。

(――男の自殺率、高いわけで)

だって絶対、女の方が面白いもん。

ゲームで言うなら、女子の人生はイベントが多くて敵も多くて、でも味方も多い。選択肢も多くて(服だってスカートとパンツと選べるしね)、道もたっくさん枝分かれしてて、なんか色々多彩。

それに対して、男子の人生はイベント少なめ。敵と味方の多さは同じかもしれないけど、選択肢が多そうで案外少ない。道は単純で歩きやすいけど、それってゲーム的にどうなの?っていう状態。

(P276より引用)

言われてみればそうだなぁと。

「ねえ。馬鹿みたいなこと、言っていい?」

かおりが、違うマンションを見上げていった。

「なに」

孤独死とか、怖いなって思う瞬間があるんだけど」

普段だったら、思いっきり笑うところ。でも、なんとなく、「うん」と答えた。

「わかってるんだよ。結婚したって、離婚することだってあるし、自分より先に相手が死ぬことの方が多いし、子供がいたって、間に合わなかったりってこともあるだろうし」

「うん」

「なのになんで、結婚したらオールクリア、みたいな気分にさせられるんだろうね?」

ムカつくよ、とかおりは吐き捨てるように言った。

「冷静に考えたら、そうじゃないことなんて、わかりきってる。なのに、なんか考えが刷り込まれてる」

言いながら、地団駄を踏むように歩く。

「私にそれを刷り込んだのは、誰?そいつを、叩きのめしてやりたい」

(P299より引用)

まるでクレヨンしんちゃんの野原一家みたいな生活が幸せな家庭だと、ロールモデルなのだとどこか信じて大人になった私。両親がたまに喧嘩しつつも仲が良くて、子ども2人いて、ペットがいて、庭付きの戸建てに住んでいて。もちろん一家の大黒柱はお父さんで、お母さんは専業主婦で。そんな生活が幸せなんだ、あぁならなければいけないんだと思っていました。

今は少し変わって、そういった幸せもあるけれど、そうじゃないからといって幸せになれないわけじゃない。どちらも幸せな面と不幸せな面があって、どっちがいいというはなしじゃないって思えるようにはなりました。結局オールクリアになんて、ならないんですよね、結婚しても。

私たち夫婦は、子どもを産まないという選択をしました。夫婦間で話し合って決めました、子どもは産まないと。体質的に産めないというわけではありません。不妊治療などをして子どもを産みたいと思う方々が多くいるなかで、少子化と問題視される世の中で、私たちは産まないという選択をする。それに罪悪感といっていいのか、よくわかりませんが、板挟みのような、葛藤のような思いが今も纏わりついています。でも、それでも子を産みたいと思えないのです。

結婚したらオールクリア、あとは幸せな人生なんてそんなことはなくて、結婚したら次は子ども…みたいな。まるできちんとタスクをこなせていませんよ!って怒られているみたいな感覚。わかりきっていることなのに、時たま辛くなってしまうんです。だから、かおりの言葉はすごい刺さりました。

よもやま話

この小説は2016年頃に出版されたそうで。今でこそLGBTQIA+といった言葉が当たり前になりましたけれど、今と当時では認識にズレはあるように感じます。それを理解した上で、読み進めた方がいいかと思います。

引用してきたところが女性よりの意見に偏っていますけれど、もちろん男性へのフォローがある部分もありますし、なんなら女性の醜い部分をさらけ出している部分も多々あります。でもやっぱり、男と女できっかりと別れているというか、そんな雰囲気を感じました。なんとなく、どことなく、今とは違う、そんな感じ。今はもっと細分化されていて、黒と白と灰色だけじゃなくて、黒から白にグラデーションされていて、そのどこに属するのかというのも一定じゃない。そんな感じでとらえています。

それでも読んでいると面白いなと思うところが多かったです。みきの毒舌っぷりと、痛快にいろいろと解決(?)していくところが、かっこいいな、美しいなってわくわくとさせてくれました。

ちなみに2018年に志尊淳さんがみき役でドラマ化されているようで、そういえば広告をみたなと薄ぼんやり覚えています。TVを見ませんので、実際には拝見していないのですけれど。お写真を拝見したところ、本当にお美しくって。小説を読んでいるときに想像した通りのみきのイメージでしたのでびっくりしました。機会があればドラマ版も見てみたいな。

女子的生活は続編があってもいい感じに終わっているのですけれど、まだ出ていない(?)ようです。もしでるなら、そちらも楽しみたいと思います。

はてさて、次は何を読みましょうかねぇ。読む本がたまっておりますよー

 

 

本・人生を変える読書

堀内勉さんが書かれた「人生を変える読書 人類三千年の叡智を力に変える」という本を読みました。『どうして本を読むの?』『どんな本を読めばいいの?』というありふれた疑問への回答が詰まった1冊でした。今回はこちらの内容について綴っていきたいと思います。

人生を変える読書 はじめに

本を読むとき、様々な方法論があります。巷には「内容が100% 頭に入る読書術!」とか「忘れない速読術!」みたいな本が溢れていますが、この本はそう言った方法を綴っているのではありません。もっと前、なぜ本を読むのか、読むときにはどういったことが大切なのかそういったことが記された1冊です。

私が本の読み方でただ一点こだわっているのは、「人間」に焦点を当てた読書ということです。(中略)どのように本を読んでも構いませんが、読書する際には、自分の人生と照らし合わせて読んでもらいたい、そして少しでも生きる糧として活かしてもらいたいということです。

もう少し正確にいえば、本を読む動機づけは人それぞれで構いませんが、私が本書で訴えたかったのは、本と真摯に向き合うことであなたの人生の振り返りができ、これからの人生をどう生きるかについて考えるきっかけができるということです。そして、そのための材料が良書の中にはたくさん詰まっていますよ、ということです。

(P4より引用)

では「人間」に焦点を当てた読書というのはいったいどういうことでしょうか、先を読み進めていきましょう。

序章

「どんな本を読めばよいのか?」の答えとは

公共図書館大学図書館で図書館司書をしていた私。利用者の方からときたま「おすすめの本は何?」と質問されることがあるのですけれど、これがとても困ったものでした。そのおすすめが、例えば「本屋大賞ノミネート」などの流行本のことを指しているのか、私個人が好きな本なのか、そもそも小説なのか実用書なのか、この質問だけでは掴みかねるのです。ですから、そこからどんな「おすすめ」を聞かれているのかを質問し、それならこういう本はどうですか?と紹介するのですが、それ自体はとても作業でありました。

ただ中にはそういった輪郭が決まっていないまま、通常会話の延長のような感覚で「おすすめは?」と聞かれてしまうと、私は頭を抱えてしまうことが多々ありました。

もし、みなさんが何か具体的な目的にかなう本を求めているのであれば、各分野に定番といわれる本がありますから、それぞれの分野にくわしい人に聞いたり、書評などを参考にしたりすればよいでしょう。

ただ、もっと一般的な質問として、「どんなものを読めばよいですか?」と聞かれてしまうと、簡潔に答えるのは難しくなります。

なぜなら、その方がどのような人で、これまでどのような人生を歩んでこられたのか、その中でどのような考えや価値観を身につけて、いまはどのような気持ちで生きていて、何を求めていらっしゃるのかをまったく存じ上げないからです。

非常に突き放した言い方をしてしまえば、「本当にそれが聞きたいのであれば、自分自身の胸に手を当てて聞いてみてください」としか答えられないのです。

(P14-15より引用)

そもそも、この「どんなものを読めばよいですか?」であったり、私がうけた「おすすめの本は何?」といった質問がよくされるのはどうしてなのでしょうか?

「どのような本を読めばよいかは、どう考えても自分にしかわからないことのはずなのに、どうしてほかの人にそれを聞こうとするのだろうか」と。

その結果、むしろそうした問いの多さこそが、いまの時代がはらむ深刻な問題を浮き彫りにしているのではないかと思うようになりました。

つまり、「自分が何をしたいのかがわからない」「自分が何をするべきなのかを、誰かに教えてもらいたい」「自分が何を好きなのかがわからない」「自分が何を好きであるべきなのかを、誰かに教えてもらい」という姿勢が、世の中に広く蔓延していることの表れなのではないかと思い至ったのです。

(P15-16より引用)

アメリカの発明家・実業家であるレイ・カーツワイル博士が提唱している2045年問題というものがあります。

AI(人口知能)が人類の知能を超える技術的特異点(シンギュラリティ)を迎え、それによって生じる影響や問題のことを指します。

(以下URLより引用)

gen-ai-media.guga.or.jp

Open AIのChatGPTが話題になり、ブログをChatGPTを使って書いているという人も随分増えてきたように思います。こうしたことから、我々人間の仕事はAIに奪われてしまうようになる!と言ったことはよく耳にするのではないでしょうか。

このような「脅し文句」は、ありとあらゆるところで聞かれます。しかしながら、冷静になって考えてみると、こうした脅し文句は、たんに「強い者が勝つ」「優秀な者が生き残る」という、優勝劣敗や適者生存を別の言い方に置き換えているだけで、そこには社会や人間に対する何の深い洞察もありません。

また「自分は何のために生まれてきたのか?」「自分は本当は何がしたかったのか?」「自分はこれからどう生きればよいのか?」という、本当は誰もが心の奥底に持っている根源的な問いにもつながっていません。

(P18より引用)

この「そもそも自分というものがわからない」からこそ、冒頭で述べた「自分」に焦点をあてた読書が必要というわけですね。

読書は「自分が自分である」ためにある

「これがあなたにぴったりのものですよ」「これを選ばないあなたは損をしていますよ」「あなたが何を好きなのか私が教えてあげましょう」「私の言うとおりにしていれば大丈夫ですよ」

という、人々の不安と欲望を駆り立てる、現代資本主義社会が持つ病理が根底にあるからなのではないでしょうか。

(P21より引用)

「どんな本を読めばよいですか?」という質問に対して、私は「それは自分自身に聞くしかない」と答えましたが、本当はみなさん、もっと自分の「内なる声」に忠実に生きればよいだけのことなのです。

しかし、人々の欲望を駆り立てる、あるいは不安を煽る現代資本主義社会というシステムがそれを強力に阻んでいて、いまの世の中を生きる多くの人が、他人がよいと思うものを探し求めて右顧左眄しているうちに、いつの間にか自分が何を求めているのか、そして自分が誰なのかさえわからなくなってしまう…。

(P22より引用)

自分の「内なる声」に耳を傾けること、自分は本当は何をしたいのか考えること、そして自分とは何者であるのかを考えること。そのための助けとなる手段として、読書があります。

(P23より引用)

昨今は良くも悪くもせっかちになったなぁと思う今日この頃。人々は正解を考える前に回答を求めるようになったような気がしています。

yu1-simplist.hatenablog.com

昨年読んだ『映画を早送りで観る人たち』でも昨今では、解りやすいものが求められていることや、タイパよく効率的に正解だけを選ぶことが求められること、失敗したくないからネタバレを見てから映画を見るということなどが書かれていました。この背景には、先ほど引用した通り、現代資本主義社会による不安や、失敗が許されない社会、だから読書も映画も正しいと思われるものだけ見たい!とつながっているのだろうかと考えています。

一昔前であれば、あらかじめ指針となる答えが決められていて、この勉強をして、この大学にいって、こういう企業に就職して…とすれば一生を無事に終えることができるよというロールモデルがありました。けれど現代ではそうではありませんから、そりゃ不安にもなりますよね。

結局のところ、自分の答えというものは「自分自身で考えるしかない」ということなのですが、そうはいっても突然、「それでは自分で考えてください」と言われたところで、果たして何の取っ掛かりもなしに考えることはできるのでしょうか。

ここに、読書というものが存在する意味があります。

なぜなら、ただ「考える」といっても、人間は「考える材料」と「考える枠組み」がなければ、ものごとをきちんと考えたり、思考を発展させたりすることができないからです。

ものを考えるために、私たち人類は、文字というものを発明しました。そして私は、読書こそが、「考える材料」を集め、「考える枠組み」を構築する手段としてもっとも優れたものなのではないかと考えています。

(P27-28より引用)

本には今までの人類が残してきた長い長い歴史が詰まっています。ただ人の悩みというものは、今も昔もそこまで変わっていないのです。なぜ人は生まれるのか、なぜ私は生きるのか、そして死んでいくのか。そういった問いに対して、自分がどのように捉えるのか考えるために、情報の集合知である本はとても役に立ちます。

既にこの世にはいないであろう戦国武将に「こたびの戦の勝因は?」と聞くことなんてできませんし、今を生きる人だとしても 私がいきなりビルゲイツやマークザッカーバーグに「2045年問題についてどう思う?」と聞けるわけがありません。けれど本であれば書いてくれてさえいれば、その答えを求めることができるのですから便利な世の中です。

ここまでで「自分とは何か」を考えるスタートラインに立つために読書で「考える材料」や「考える枠組み」が必要だということに触れました。

生存本能のおもむくままに、ただ食べて、お金を稼いで、遊んで、寝る、そして死んでいくというような、ある意味で動物的に生きるというだけでも、ある程度は人生をしのげるでしょう。

しかし、人間は頭脳が極端に発達して複雑な思考ができる特殊な生きものであり、悩みもあれば不安も感じるし、本能だけでやりすこして生きることが難しい生きものなのです。つまり、難しいことを考えることができるというだけでなく、難しいことを考えないで生きることがとても困難な生きものなのです。

さらに、人間は個体としての肉体的弱さを補うために、集団をつくって生きる社会的な動物であり、一人で生きていけるわけではありません。そこに否応なく、社会性という問題がかかわってくるため、自分一人だけのことを考えながら、本能のおもむくままに生きられるわけではないのです。

(P35より引用)

もし人間がある意味で動物的に生きていけるのであれば、一人で気ままに生きていけるのであれば知識をインプットする必要なんてありません。読書だってする必要はないでしょう。ですから、そういった本能に忠実に生きたい!という方が無理に読書をする必要はないのです。というか、本を読まなくても「内なる自分」がわかっているのですから、そりゃそうだという話ですね。私はまだ「内なる自分」というものが、はっきりしていませんので、これからも読書を続けて知識を血肉にしたいと思っております。

読書なんて自分には関係ないという人もいるでしょうし、そのように考えるのは個人の自由です。また私は、体験至上主義という考え方が必ずしも悪いとは思っていません。

なぜなら、人間は読書という体験も含めて、やはり体験からしか学べないからです。いうなれば、私にとっての読書というのは、他者との邂逅であり会話そのものだということです。

一人の人間が一生のあいだに実体験できることには限りがあります。ですから、人生における体験を拡張するためのツールとして読書を使うことができれば、一生の間に体験できる世界は格段に、いや無限に広がっていくのではないでしょうか。

このように考えると、本を読まないというのはとてももったいないことです。まったく本を読まない人がいても構いませんが、もし「本は読んだほうがよいですか?」と聞かれたら、やはり「読んだほうがよいと思いますよ」というのが、私の答えになります。

(P44より引用)

第1章 人生を変える読書

ここまででなぜ読書をするのか、読書をしたほうがいいのか、どういった本を読めばいいのかについて触れてきました。お気づきでしょうか、まだ読書が始まっていないのです。この記事の文字数ももうすぐ5000文字を超えようとしていますが、ここからやっと読書が始まります。

人間は「体験」と「学習」が積み重ねられた存在

私は、人間という存在は、持って生まれたデフォルトの心身の状態に、環境を含めた多くの「体験」と「学習」が積み重ねられて形づくられる作品のようなものだと考えています。

(P48より引用)

人間というものは、遺伝やその人がもともと持っている素質にも大きく関わりますが、+αで得られる体験と学習も大きく関係しているということですね。たとえ音楽のずば抜けた才能を持っていなくても、音楽に触れることがなければ、それは気が付かれることなく散っていくことになります。音楽に触れて、練習することで、その人が音楽の才能を開花させていくことができるのです。こういった体験や学習が、先ほども述べたように「読書」を通してできることができるのですね。

もし、自分のいま住んでいる世界から、より広い世界に向かって生きていきたいと願うのであれば、読書によって自分の「体験」を拡張し、いま自分が住んでいる世界よりも高い次元から世の中を見る視点が必要不可欠になります。

(P51より引用)

よりよい暮らしを目指すようになり、地産地消であったり、そういったことに目を向ければ向けるほど、狭い世界で生きていくことがいかに難しいかがわかります。やはり印象的なのはCOVID-19でしょうか。瞬く間に世界中に広がり猛威を振るったことは、まだまだ記憶に新しく、過去のこととは到底言えません。

しかも、ウイルスだけでなく、いったんグローバルにつながった経済活動がさまざまな形で分断されたことで、食料や資材の調達、そして物価の高騰へと次々と波及していく様は、人間にとってもはや閉じた経済圏だけで生きていくのは難しいのではないかと思わせるのに充分な出来事でした。

(P53より引用)

本書にもこうある通り、私は狭い世界で生きるからいいんだー!と楽観的なことを言えるうちはいいのですけれど、いつ日本に戦争の火種が向くかもわかりませんし、流行り病であったり、震災であったり、迫るつもりはありませんけれど、そうそう楽観的でもいられないのだよというのが正直なところではないでしょうか。そしてこの不安定になりゆく今だからこそ、内なる自分について考えたり、知識をつけることの重要性があがっているのだと思います。

読書とは「自分が何を望むのか」を明らかにする作業

固有の問題を自分の力で超えていくために、手段のひとつとして人は本を手に取ります。そのために読書する人からは、「どんな本を読んだらよいですか?」という質問は生まれようがありません。

つまり、読書とは「自分で自分をつくっていく」ことであり、「自分が何を望んでいるのか?」を明瞭にするための作業に他ならないのです。

自分の身に降りかかった問題に向き合うときに、「どうして自分はこんなにひどい目に遭うのだろうか?」と嘆くだけではなく、いま自分が置かれている状況に対して、自分はどう振る舞うべきなのかを考えるということです。

(P72より引用)

まじめな方は、「自分が何を望んでいるかなんて急に聞かれても…」と困惑するかもしれませんが、「おいしいものが好き」「ファッションが好き」「ゲームが酢k」という程度のことで構いません。あるいは逆に、「飲み会は嫌い」「SNSはあまり好きじゃない」というように、なにかしら自分について考えるための取っ掛かりなどがあるはずで、そこを起点にしてください。

(P73より引用)

実際に「内なる自分」を探すために本を読もう!と思っても何から読めばいいかわかりませんよね。別に「人間はどこからきたのか」みたいな哲学書医学書を読み込む必要はありません。まず自分って何が好きだろう、嫌いだろうというところからでいいのです。少しずつ自分の輪郭線を濃くしていくように本を選べばいいのではないでしょうか。

人間の精神的三大欲求

しばしば、人間の三大欲求として、「食欲」「睡眠欲」「性欲」が言及されます。これらは肉体に起因するものですが、これに対して、私は、人間を人間たらしめている精神的な欲求というのは、「知りたい」「自由になりたい」「幸せになりたい」という三つではないかと考えています。

(P74-75より引用)

人間には「知りたい」という欲求があります。これは人間が太古の昔に自らの命を守るために必要だったものですよね。暗闇の先に一体何があるのか、この川の向こうには何がいるのか、どこにいけば食べ物にありつけるのか、そういった情報は自分の命だけでなく、群れ全体の命に関わりますから。そして、弾圧から解放されたい「自由になりたい」という欲求があり、「幸せになりたい」という欲求がある。これは本当にその通りで、歴史からみてもそうなのだろうなと思います。

習作を描くように一冊一冊を読んでいく

「自分で自分をつくっていく」読書は、当然ながら一朝一夕には成しえません。

(P83より引用)

素人が何かをしようとして、それを出た何処勝負でこなせるほど世の中は甘くはありません。ビギナーズラックというものもあるかもしれませんが、それを維持し続けることは難しいでしょう。少しずつ練習を重ねて、ようやく自分の技術になっていくのです。

読書についても同じで、一足飛びに何かの答えを求めても意味がありません。考えてもわからないことはたくさnありますが、それでも考えるのをあきらめないことが必要なのです。

幸せになるために本を読むといっても、まず自分にとっての「幸せ」が何なのかを考え、本によって疑似体験し、それを感じていかなければ、深いところに到達できません。

いわば、自分の人生の習作をひとつずつ描いていくのが、今日の一冊の読書なのです。ときには習作がうまくいかなかったように、「これはダメだったな」という本を手に取ることもあります。でも、そんな体験があるからこそ、次の本を選ぶ選択眼が磨かれていくのです。

人間は、体験の積み重ねで成り立っています。瞬間、瞬間の選択があなたおいう人間をつくっていくからこそ、「どんな本を読むか」「どの本を選ぶのか」という選択が、非常に重要なのです。

(P86より引用)

ではいったいどんな本を読めばいいのでしょうか?

これが本の不思議なところで、書かれている内容はまったく同じなのに、読む人の姿勢や心持ち、置かれている環境などが変わることで、本の持つ意味がまったく変わってくるのです。

たとえば、以前の私のように、試験のために本を読むというのは、ある意味では「人から評価してもらう」にはどうしたらよいかを考え、そのために一生懸命本を読むということです。つまり、「自分が何をしたいか」に思いが至っていません。

でも、他人のことはどうでもよいから、「自分はどう思っているんだ?」と考え、そこに焦点を当てて本を読み始めると、本の読み方がまったく変わってきます。「この本を読みなさい」と言われて読む本と、自分の心のアンテナに引っかかって、「この本、おもしろそうだ」と感じて読む本とでは、まったく別の体験なのです。出会いのタイミングも重要な要素です。

(P106-107より引用)

自分にとってどんな本が刺さるのかは、その時の自分の知識量や環境で大きく変わってきます。ただどちらにせよ、主観的に本を読むというのは非常に重要なことなのではないかと思います。

第一章ではどのような本をどのように読むのかなど、具体的に書かれていて、どこもかしこも参考になります。

第2章 生きるための読書

自分の外に対する普遍的かつ根源的な疑問

人間の普遍的かつ根源的な疑問を大きく分けると、「自分の外に対する疑問」と「自分のうちに対する疑問」だと考えることができます。

(P110より引用)

「自分の外に対する疑問」と「自分の内に対する疑問」を、読書を通じて考えていくと、どのような事柄についても、「本当にそれについて断定的に言えるのか?」という問題に行き当たります。そして、ものごとを知れば知るほど、私たちは必然的に謙虚になっていかざるをえないのです。

ソクラテスは、知恵者といわれる人物との対話を通じて、自分が無知であることを自覚している点で、自分は知恵者より優れていると考えました。

その後、このエピソードは「無知の知」と呼ばれるようになりましたが、このように、知れば知るほど、学べば学ぶほど、自分の無知を思い知らされて、自信がなくなってしまうのは当たり前のことなのです。

(P116-117より引用)

では、自信を失わないためには学ばないほうがよいのかというと、もちろんそうではありません。人は学べば学ぶほど自信を失う反面、学べば学ぶほどそんな自信のなさに対して、自分なりに対峙していく精神力や覚悟を身につけていくからです。

自分が何もわかっていないことの気持ち悪さに耐えて、足元がグラグラしていても一歩一歩前へと進んでいく芯の強さを養うこと。これこそが教養を身に着ける意味なのではないでしょうか。

(P119より引用)

自分は無知であることを自覚しているんだー!と自慢するわけではないのですけれど、本当に自分は無知であるなぁと日々思います。教養もありませんし、そもそも学校できちんと勉学を受けていませんので…。いやはや、授業中というものは絵を描く時間かもしくは寝る時間でしたので…。お恥ずかしい限りです。

そんな私ですので、自分が何も知らないということは痛感しております。ただここで問題がひとつあって、自分は無知であるからと謙虚になるひともいれば、開き直るひともいるんですよね。どちらかに良し悪しがあるわけではありませんが、私個人としては開き直らずに学びを深めていけたらなぁと思うわけで。

でも本を読めば読むほど、知らないことが増えます。わかりやすいところでいうと、知らない単語は多いですし、本書では現代資本主義社会という言葉が度々出てきますが、資本主義社会について表層部分の知識すら大変少ない私です。ちょっと読んではGoogle検索をして…また読んでを繰り返すのでなかなか先に進みません。それでも、続けていくことで教養と知識が深まっていけばいいなあと思います。

教養をどのように解釈するかは人それぞれで構いませんが、そのように教養を自分とは離れた対象物としてとらえている限りは、自分の人生と結びつけて考え、自らの血肉としていくことはできません。

私なりに考える教養の本質というのは、自分をとらえている「枠組み」をしっかりと認識したうえで、より高い次元からのメタ思考ができることです。

つまり、自分がとらわれている環境的な制約、自分をとらえている既成概念などの指向の限界を超えて、より高い次元から社会や自分を見つめ直すことができる能力のことです。そして、この能力を身につけるには、一定程度のまとまった知識と、そのうえに構築された世界観や人生観が必要になります。

(P123-124より引用)

自分はこのように考えるという枠組みがわかっていれば、そうではない考え方を理解することもできるようになります。枠組みを理解していれば、それに対して順応であることも、あえて外れていきることもできる。

私ってこれでいいんだろうか?と思うのであれば、読書して考えてみようねというお話ですね。

よもやま話

4章まである本書のうち、2章までを紹介いたしました。今回綴った内容は本当に上澄み部分だけで、本書はもっと濃い内容が詰まっています。

3章『好きから始める読書』では、実際の本の読み方について記されています。多読であったり、本の選び方であったり、具体的な本の読み方について記されていて参考になります。4章『対話としての読書』もとても興味深いないようでした。

生まれ持った「知りたい」という気持ちと丁寧に向き合い、特定の枠組みにとらわれない、自らの基軸を持った人間になること。そのようなときに、読書は自分を解放してくれるひとつのきっかけになるとお伝えしてきました。

(P224-225より引用)

特定の枠組みにとらわれなくなること、自由な発想や生き方を獲得していくこと、その中で自分なりの基軸を確立すること、これこそが読書の価値なのです。

読書は著者との対話であると同時に、それを踏まえた自分との対話であり、さらには自分を取り巻く社会との交流でもあります。

(P228より引用)

ここでは深く触れませんけれど、私が今の暮らし方の根幹ともいえるミニマリスト的な生き方は図書館で出会った1冊の本から始まりました。それまでの私は、いわゆる汚部屋人間で、片付けができなくて、生活も乱れに乱れていました。それを変える転機となったのが、本でした。

「読書をしなければ、この先生きていくことはできませんよ!」とは思いませんけれど、何か新しいものに触れることで変わることもあります。幸せに近づくきっかけが1冊の本かもしれません。だから、読んでみるといいことあるかもよ、というのが私のスタンスなのかなと思います。普段から本に触れている方も、そうでない方も、お手に本をとってみるきっかけに少しでもなれたら幸いですね❀

 

ロールパンをつくる

天気のあまりよくない休日は、家でゆっくりすることが多い我が家。そんなわけで、休日の昼食は結構しっかり目に頂くことにしていて、お鍋とかピザを焼いたり、カレーパンを揚げてみたりしています。次は何が食べたいか夫に聞いてみたところ、ロールパンを希望されましたので、初ロールパンにチャレンジいたしましたよ❀

材料

①水にドライイーストを入れ、レンジで温める。バターは室温に戻しておく。

ボウルに水・ドライイーストを入れてレンジで温め。温まったらドライイーストを混ぜます。ぬるま湯であれば、ドライイーストを混ぜるだけでOKです。

後ほど使うバターは室温に戻しておきましょう。

② ①に強力粉、塩、卵を入れて混ぜる。途中でバター、スキムミルクも追加して混ぜる。

強力粉は分けて入れましょう。まずは100gだけいれて混ぜます。

全体が混ざったらさらに強力粉100gとスキムミルクを追加します。

ひたすら混ぜて混ぜて…

こんな感じ。室温に戻したバター20gを混ぜ、少し水分量が多いので、ここから10gずつ薄力粉を追加していきます。

最終的に合計250gほどいれるとこんな感じにきれいにまとまりました。ボールの中だけでなく台の上でもこねてこねてこねます。

③一次発酵。だいたい倍くらいの大きさになるまで発酵させましょう。

温かい室温であれば1時間から1時間半くらい。我が家はオーブンレンジに発酵機能がありましたので、35度で45分発酵させました。結構ぽってりしましたね。

④生地を8等分に丸めて、10分休ませる。

生地を8等分にして、丸めます。生地を少しこねて空気を抜きながら丸めます。ラップや濡れ布巾をかけて10分休めましょう。

⑤丸めた生地をしずく型に伸ばし、バター(お好みの量)を入れて、くるくると丸める。

生地をしずく型に伸ばします。

底部分にバター(5gくらい)をのせます。

巻きずしのようにくるくるとまいていきましょう。バターはこぼれないように、閉じ込めるイメージで。

⑥生地が一回り大きくなるまで発酵させる。

温かい室温に20分くらいおいて生地を発行させます。生地が乾燥しないようにラップなどをかけておきましょう。

ちょっとふっくらしました。

⑦卵を溶いて、全体に塗る。

オーブンレンジを210度に余熱しておき、その間に溶き卵を塗っていきましょう。

⑧210度で10分~15分焼成する。

オーブンの予熱が終わったら、焼成します。とりあえず12~13分くらいでセットして、焼き上がり具合を確認しながら焼成していきましょう。我が家は12分くらい焼成し、焼き色が足りなかったので、トースターで追い焼きしました。

完成!

余った時卵はスクランブルエッグにしてパンにはさんでみましたよ❀

いい感じにもちふわなロールパンが完成しましたー!

作り方は簡単でしたので、これはいくらでもアレンジができそうですね。今回はバターを入れましたが、あんこを入れてもいいですし、生地にはちみつとかを練りこんで甘めにしてもいいし、すりゴマを入れてゴマロールパンにしても素敵…!スクランブルエッグ以外にもハムやソーセージを入れてもいいし、ジャムなんかをはさんでもいい…!と妄想が膨らみます。

やはりシンプルなパンは応用が無限大ですから、覚えておくと便利そうです❀そろそろまた餡子をつくる予定なので、次はあんぱんを作ってもいいなぁ、何を作ろうかなぁとホクホクしております。もうパンつくりは趣味となっているといってもよさそうです❀

 

本・かもめ食堂

先日みた映画「かもめ食堂」がとてもよかったので、原作小説もみてみたいなと思いまして。読了いたしましたので、それについて綴っていきたいと思います。

あらすじ

ヘルシンキの街角にある「かもめ食堂」。日本人女性のサチエが店主をつとめるその食堂の看板メニューは、彼女が心をこめて握る「おにぎり」。けれどもお客といえば、日本おたくの青年トンミひとり。ある日そこへ、訳あり気な日本人女性、ミドリとマサコがやってきて、店を手伝うことになり…。

(文庫本 裏表紙から引用)

映画と本の違い

小説を読了してみたところ、映画は原作を結構忠実に作られていることがわかります。おおまかなあらすじは同じですが、ところどころ異なる点もあり、そういった違いを見つけるのも面白かったです❀

(映画については↓こちらの記事で)

yu1-simplist.hatenablog.com

映画では各キャラクターの背景が少しぼかされている状態だったように思います。少し靄がかかったと表現すればいいのでしょうか、どこか全体に霞がかかっていて、掴み切れないそんな印象がありました。

サチエさんのお父さんはどうなったの?どうしてミドリさんは遠くへ行きたいと思ったの?マサコさんの不思議な雰囲気はどうして?

それらがわからなくても何ら問題なく続いていく、それこそが人間関係だと思うんです。だって、いくら友人だって何でもかんでも事細かに知っているわけではありませんから。だからちょっと離れたところで、まるで自分も少しずつ「かもめ食堂」の常連になっていくような、そんな感覚で楽しむことができました。

小説ではサチエさん、ミドリさんのバックグラウンドがしっかり描かれていて、なるほどと思うところも多々ありました。細かい分、感情移入しやすいという印象ですね。またマサコさんも映画ではかなりファンタジーなキャラクターになっていましたが、小説ではそういったことはなく、より地に足のついた女性という印象でした。どちらが良い・悪いというわけでなく、どちらも素敵です。

どちらも そうはならんやろ みたいな、悪く言うとご都合主義的なところもありましたけれど、これは物語のスパイスとして楽しむことができる範囲だと思います。

ところで、映画で個人的に素敵だなと思ったシーンが小説にはなく、ちょっとびっくりしました。「明日世界が終わるとしたら」の会話部分は結構メインテーマにつながると思っていたのですけれど、これは映画オリジナルだったのでしょうか、興味深いです。

小説で好きだったところ

ここからは小説のなかで、ここ良いなぁと思ったシーンを抜粋していきたいと思います。

彼女の父は古武道の達人で、幼いころから自分の道場に一人娘のサチエを連れていき、熱心に指導した。そこには世界各国から、武道を習得しようという、白い人、黒い人、黄色い人たちが集っていた。

道場の壁には、「人生すべて修行」という父の筆による書が掲げてあり、これは父の口癖でもあった。

(P10より引用)

映画でも武道に関することがちらっと出てきましたけれど、サチエさんの柔軟でありながらも芯がある性格っていうのはこの辺りから来ているのかなぁと思いまして。「人生すべて修行」って、まぁよく耳にする格言ですけれど、実際に体現されている方というのは、性別にかかわらずかっこいいなぁと思います。

遠足の日、お弁当を作らなければと起きたサチエは、台所で物音がしているのに気がついた。どうしたのかと行ってみると、ふだんは瓦を割ってみせたり、弟子たちを投げている父が、その手でおにぎりを作っていた。

「お父さん」

声をかけると、彼はびっくりしたように振り返り、

「いつも自分で作って自分で食べているんだろう。おにぎりは人に作ってもらったものを食べるのがいちばんうまいんだ」

大きな鮭、昆布、おかかのおにぎりを見せた。他には卵焼きも鶏の唐揚げも何もない。サチエはそれを遠足に持っていって食べた。他の子はお母さんが作ってくれた、華やかな色合いのお弁当だったが、父が作ってくれたシンプルなおにぎりは、不格好だったけれども、サチエにとってはとてもおいしかった。

(P13より引用)

映画と小説の影響を受けて、普段は玄米しか並ばない我が家の食卓に白米が並びました。

鮭と焼きタラコとわかめのおにぎり。さすがに自分で作って自分で食べましたけれど、自宅でおにぎりを作ってみて、たまにはこういうのも楽しいものだなとしみじみ。私はこういう食欲に訴えてこられる作品に弱いような気がします。

「市場ってどうしてこんなに楽しいんでしょうかね。毎日、足を運んでも、飽きることなんてないですよね。どの場所にどんな物を売っていて、どんな人が売っていて、どのくらいの値段かもだいたいわかっているのに、どうして飽きないんでしょうか。それが不思議なんですよね」

ミドリはオレンジを手にとって匂いを嗅いだ。

「いつも同じだから、逆に飽きないんでしょう。売っている人も売られている物も、生きてるっていう感じがするし。いくら市場でも売られている物がぐったりしていたら、誰も買わないもん。空の下っていうのも、こうすかーっと抜けてていいのよね」

サチエはそういって深呼吸をした。ミドリは並べてある果物の匂いをひとつひとつかぎはじめた。

「東京にいたとき、たまーに高級スーパーマーケットで買い物をしてたんです。お給料をもらった直後なんか。ちょっとあんたたちとは違うのよって、物見遊山で来ているみたいな見ず知らずの若いOLに差をつけたい気がして。今考えてみれば、長年働いている主婦が、買い出しをしているくらいにしか見えなかったと思うんですけどね。レタス一個が八百円、キャベツが六百円、小柱がひとつ、ふたつって数えられるのが千二百円とか、すごい値段なんですよね。脳味噌の隅っこで、『高ーい、うちの近所の総菜横丁の八百屋さんや魚屋さんで買えば、この何分の一で買えるのに』って思いながら、また別の脳味噌では、高級スーパーマーケットで買い物をしている自分にうっとりしてるんですよね。でもそれは、それだけで終わりだったんですよね。ここの市場みたいに買い物をしても楽しくなかったなあ。家に帰って袋から出して見て、見栄張ったくせに、値段を見てあらためて驚いている自分がいるんですよね。でもそうしていることが、なんだかいい気分になっているっていう。変な繰り返しでした。どこかおかしかったんですよね」

ミドリは並べてある物を手にして、匂いを嗅ぎ続けた。

「そういう生活は忘れましたねえ」

サチエはあっちこっちでひっかかっているミドリを置き去りにして、さっさと市場の中を歩きまわって、目当ての野菜や果物を買い集めた。

(P87-89より引用)

シチュエーションは違いますけれど、背伸びをしている自分への優越感と、あとからくるなんとも言えない気持ち悪さって、すごいわかるなあ…って。特に20代の頃は、美容とかお洋服とかで、身の丈にあっていないものを求めて、あとからそんな自分にたいして恥ずかしくなるんですよね。

そういえば、私の物心がつく頃には、八百屋さんであるとか魚屋さんというものは周囲になかったように思います。お買い物と言えば、最寄りのスーパーで。大量の野菜や食材が山のように積み上げられていて。それに対して何らワクワクするということはなかったんですけれど。

大人になってから京都の錦市場とか漁港にある魚市場に行くようになって、ワクワクするような感覚がありました。これってきっとサチエさんが言っていることなのかなって。色とりどりの野菜や果物がおかれているマーケットとは、ちょっと色合いは違いますけれど、リアリティのあるものが売られているのってワクワクするんだなといまさらながら気が付きました。

「ごめんなさい、名乗る前にお店でどたばたしてしまって。シンドウマサコといいます。五十歳…です。ふふ」

彼女は照れたように笑った。

「何をしたいかもわからないのに、つい、ここに来ちゃったっていう感じで。いい歳をしてこんなことしていいのかなって、着いてやっとわかったような。荷物がどこかにいっちゃったのも、私のはっきりしない気持ちに、『おまえなんんか、来るんじゃないよ』っていわれたような気がして……」

そういってマサコはうつむいた。

「そんなことないですよ。仕事でやる気まんまんの人だって、荷物は無くなります」

「そうです。荷物が無くなったのと、それとは関係ありません」

サチエとミドリは暗い表情のマサコを慰めた。

「そうでしょうかねえ。何も目的がないのに、この歳になってただふらっと外国になんか来ちゃうっていうのが、身の程知らずっていうか、無防備っていうか。おまけに私、英語もフィンランド語もできないんですよ。なのに、変ですよね」

「全然、変じゃないですよ。歳なんか関係ないじゃないですか」

「そうです。私だって英語はろくにできないし、フィン語だってぜーんぜん、わからないんですから」

「でも、あなた方はまだお若いし。私は結婚せずにこの歳まで、ずっと親の面倒を見てきたものだから。頭の中が社会的になってないんですねえ、きっと。それが両親が次々に亡くなって、日々することがなくなったら、もう、自分でもよくわからなくなっちゃって」

「旅行だって結婚だって、いくつになったってできますよ。歳で区切っちゃいけません」

サチエはきっぱりといった。

「そうですねえ。だといいですねえ」

(P135-136より引用)

かもめ食堂で一番若いのは、日本からフィンランドに行ってかもめ食堂を始めたサチエさんです。彼女は38歳です。38歳で海外に行って商売を始める。なかなか勇気のいることだな…って私は思ってしまうんです。私はサチエさんより年下の34歳ですけれど、私よりサチエさんは本当に行動的でアグレッシブですごいなぁって。

よく「年齢なんて記号でしかない」って耳にしますけれど、やっぱり気にしてしまうもの。この年齢になれば就職をして、結婚をして、出産をして…。そういったしがらみのすべてが悪いとは思いませんけれど、少しでも自分の中で軽くなればいいなぁって思いながら。サチエさんの「いくつになったってできますよ」という言葉を励ましにして頑張りたいなぁと思います。

「サチエさんは、目的があるじゃないですか。でも私は何もない」

「目的がなくてもいいんじゃないですか。ただ、ぼーっとしていればいいんですよ」

「その、ぼーっというのができないんですよね。自分でぼーっとしているつもりでも、あれこれ考えてしまって、頭の中から鬱陶しいことが抜けていかないんです」

「来たとたんは無理ですよ」

「そうそう、フィンランドモードに切り替わってないですから。鬱陶しいことは忘れましょう。あまり深く考えないで、のんびり過ごせばいいんですよ。うちに来ていただくのは大歓迎ですから、いつでもいらしてください」

サチエがそういうと、マサコは明るい顔になって、「そうですね、ありがとうございます」と頭を下げた。

(P150-151より引用)

原作が書かれた頃と今現在では違うと思いますけれど、このぼーっとできないってありますよね。常にスマホであったり、何かしらが煩わしいくらいに自分に纏わりついてきて、ぼーっとできない。ゆっくりしているつもりが、あれもしないと、これもしないとって結局動き回っていて。デフォルトモード・ネットワークなんてあったもんじゃない。脳を休ませることの難しさが身に染みる今日この頃です。…という割に何も成しえていないのが一番の問題だったりしてね。

「はーっ」とため息をつき、仏頂面のおばさんが心に溜めていた黒いものを察して、リビングルームにへたり込んで暗い気持ちになった。

「東京だったらね、ストレスが溜まって、嫌になるっていう気持ちもわかるんですよ。それを、いろいろな癒し系の場所に通ったり、買い物に走ったり、セックスでまぎらわしたりするわけでしょう。でもここはこんなに緑がたくさんあって、車も人も少なくて、息が詰まるなんていうことはないと思うのに。東京に住んでいた人が、田舎暮らしで癒されたなんていっているじゃないですか。人間だから嫌なこともたくさんあるでしょうけど。自然は癒してくれないんでしょうかねえ。ちょっと意外だと思いませんか」

ミドリは首をかしげた。サチエは膝行法をはじめた。

「自然に囲まれている人が、みな幸せになるとは限らないんじゃないかな。どこに住んでいても、どこにいてもその人次第なんですよ。その人がどうするかが問題なんです。しゃんとした人は、どんなところでもしゃんとしていて、だめな人はどこに行ってもだめなんですよ。きっとそうなんだと思う」

サチエはいいきった。

「そうですね。周りのせいだけじゃなくて、自分のせいなんですよね」

(P161-162より引用)

幼いころ、お金持ちになれば幸せになれると真剣に信じていました。同時に、綺麗になれば誰からも愛されて幸せになれると。だから綺麗になってお金持ちと結婚して玉の輿に乗らないといけないって、いわゆるシンデレラコンプレックスとでも言いましょうか。でもある時、それが幻想だと気が付いたんです。お金持ちでも不幸になるし、絶世の美女でも幸せとは限らない。それは大人になってから気が付いたことでしたから、現実を受け止めるまで結構辛かったなぁと今でも覚えています。

だから国や自然に対しても似たような感覚でいて、どこにいけば幸せになれるとかそういうのってあまりないと思うんです。というか、日本という国に生まれることができた時点で結構自分は幸せなんですよね。衣食住は整っていて、娯楽があって、夜は命の危機を感じることなく眠ることができる。これって十分恵まれているんですよ。

もちろん、身体を癒すために一時的に訪れることには大いに意味があると思います。けど、だからといって、そこにいけばALL OK!なんていうことはないのだと、自戒しております。それは他者にも同じで、そんなに恵まれた環境にいられるんだからいいじゃない!ってつい思ってしまいます。けれど、相手には相手の苦労があるのだから、痛みや苦しみに寄り添うというのは環境じゃないんだなと、たまに思い出さないと忘れてしまいますからね。

マサコがフィンランドにやってきてから、二ヶ月が過ぎていた。サチエはともかく、ミドリやマサコとは、これからどうするかという話をしたことがなかった。休みの日、三人でサウナに入っていて、ふとそんな話題になった。

「私は帰らなくちゃいけないんです」

とマサコはいった。

「え、そうですか」

ミドリは驚いたようにいった。彼女はずっとここにいるつもりだった。

「『かもめ食堂』はとても楽しいし、やりがいもあるし、サチエさんもミドリさんも、とってもいい方だし。ずっといたいんですけど。そういうわけにはいかないんです」

「だって、弟さんにはひどいことをされたんでしょう」

「ええ。でもここに来ていろいろと考えてみたら、日本に帰っても住むところもあるし、海外に行けるような金銭的な余裕もあるんだから、恵まれていると思えるようになりました。フィンランドのニュースを見て、お気楽そうだなって思ったんですけど、私は経験しなかったけれど、自然環境だって結構きついんじゃないかなあ。そのなかでじっと耐えていたものが、『嫁背負い競争』とか『エアーギター選手権』とか、『サウナ我慢大会』で爆発するんですよね。いつもいつもそんなことをやってる人たちじゃないんです。彼らはじっと体に溜めていたエネルギーがあるんですよね。フィンランドの人って、ふだんの生活はとても質素で、いいなって思いました。フィンランドに来たのが、私にとっては『嫁背負い競争』みたいなものです」

マサコは笑った。

(P210-211より引用)

かもめ食堂』は映画も小説も、今の私にはとても染みる作品になりまして。これからきっとことあるごとにみることになるのかなって思っています。ついこの間食べたばかりだけれど、おにぎりが食べたくなってきたなぁ。

 

無印良品で「炭酸にも使える保冷ボトル」を購入してみた

炭酸水ってお好きですか?お酒を飲まれる方でしたら、お酒を割るために炭酸水を購入されているという方もおられるのではないでしょうか。

私はと言いますと、実はかれこれ10年以上、炭酸水を飲んでいるヘビーユーザーです。炭酸水といっても、市販されているコーラやサイダーのように加糖されているものではありません。何も味付けされていない、ウィルキンソンなどの炭酸水をそのまま飲んでいます。

今回はその炭酸水について、つらつら綴っていこうと思います。

炭酸水を自宅でつくる

炭酸水を日常的に飲むにあたり、実家に住んでいたころは コープ共済で500㎖の炭酸水を箱買いし、一人暮らしをしてからもAmazonウィルキンソンの炭酸水を箱買いしておりました。だいたい1日の平均水分摂取量が1.5~2ℓということは、1日で3~4本飲むことになります。そうすると、ペットボトルの資源回収日までには大量のペットボトルが出るわけで…これはさすがにいかがなものか。マンションの8階からゴミ捨て場まで、エレベーターでペットボトルがギッシギシに詰まったゴミ袋を持つのですが、その度、どうにかならないものかなぁと思っておりました。

そんなときに見つけたのが、こちらのdrinkmate。炭酸水を自宅で作ることができるという代物です。

1~2か月に1回、専用ボトルを交換すればいつでも炭酸水を作ることが可能です。私は自宅では基本的に炭酸水しか飲みませんから、本当に役に立ってくれています。

外でも炭酸水が飲みたい

自宅で炭酸水を飲むのはdrinkmateがあれば完璧です。けれど、まだ問題が残っています。そう、外出時。

喉が渇きやすい私は、何処にいくにも水分を持ち歩いています。けれど、炭酸水を普通の水筒に入れて持ち運ぶことはできません。暴発しかねませんからね。以前の職場で、炭酸水を入れることができる水筒のことを聞いていたのですが、デザインやお値段がちょっとお好みではなかったのですね。ですから、外出のときは、近くのスーパーやコンビニエンスストアでペットボトルの炭酸水を購入していたんです。

けれど、ちょうどいいものを発見できました!

www.muji.com

こちらは無印良品で購入した「炭酸にも使える保冷ボトル」です!

炭酸にも使える保冷ボトル

無印良品さんのホームページを確認したところ…

  • 高さ25㎝、幅7.6㎝ (結構大きい!)
  • 重さは330g (個人的には空の状態であれば、そこまで重くはないかなと思います)
  • 容量は600ml
  • お値段は2990円

↑こんな感じで分解して洗うことも可能ですので、衛生的にも問題はなさそうです。一応ホームページでは、パッキンが壊れた場合はパーツを取り寄せ購入することもできるようです。

夫はシルバーを、私はホワイトを購入いたしました。ホワイトは結構汚れが付きやすいので、ケースなどを作って入れてあげてもいいかもですね。カラーバリエーションとしては、もう1色ブルーがありましたよ。

次回のお出かけ用に購入してたウィルキンソンは、冷やしてボトルに移し替えて持っていこうかなと思っています。

ちょっと使ってみた感想

自宅で少し試してみましたが、やはり完璧に炭酸が抜けないというわけではありません。あくまで炭酸水も入れることができるという感じ。ですが、それはペットボトルの炭酸でも、それは同じですから許容範囲かなと思います。

飲み物を入れるとそれなりに重量があります。高さもあるので、小さいお鞄だと難しそう。リュックサックなどに入れるのであれば問題ないかと思います。

よもやま話

これから宿泊を伴う旅行のときも連れて行こうと思っておりますが、洗って次の日も使えるのは便利ですよね。ホテルだと、冷蔵庫にミネラルウォーターを入れてくれていることが良くありますけれど、それを入れて冷たい状態で持ち歩きできるのはありがたい。ミネラルウォーターがなくなれば、またコンビニで炭酸水を購入して移し替えて…ってできますし❀暑くなる季節ならなおさら水分補給しないとですからね!

これからまた一段とペットボトルの購入回数を減らすことができるのは、個人的にはすごくありがたいことです。環境への配慮もありますし、お財布にもありがたい。どれくらい使えるかはまだ未知数ですが、元を取れるくらい使えるといいなぁと思っておりますよ❀