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シンプリストになりたいのです

大河 八重の桜 をみる(31~35話)

2025年は福島県会津エリアに行くぞー!ということで。会津と所縁のある大河ドラマ『八重の桜』見まして。これまで6回に分けて1~30話について綴りました。

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~30話では八重たち会津の人々がどのように時代に巻き込まれて、会津戦争に至ったのか。そしてその後、どうなってしまったのかが描かれており、ここまでで第1章といったところ。31話からは新章に入る気配です。今回は31話~についてネタバレ交えて綴っていきたいと思います。

第31話 離縁のわけ

米沢藩で家族と暮らす八重の元へ、夫である尚之助から離縁状が届きます。離縁状には特に理由は書いていませんでしたが、夫から離縁と言われてしまえば、妻である八重に拒否することはできないのです。八重は気丈に振る舞いながらも、悲しみを隠しきることができません。

八重『話してもらわねぇとその訳だってなんにもわからねぇ…。困っているなら教えてほしい。苦労してんなら、私も一緒に苦労してぇ。それが夫婦だべ。あんとき(謹慎所に送られるとき)だって、なんでも一人で決めてしまう。尚之助様は勝手だ。受け入れるよりほかに道はねぇもの』

その頃、山川浩(大蔵)たち斗南藩は新たな地で御家復興のために動いていましたが、寒さと飢えで多くの民が命を落としました。そのため尚之助は北海道に米の買い付けに行きますが、その取引中に詐欺に巻き込まれてしまいます。そして米国から訴えられ、勾留されてしまっていたのです。八重に迷惑をかけまいと、尚之助は離縁の道を選んだのでした。

八重の親友であった高木時尾や日向ユキも斗南で暮らしを始めているようです。時尾は新選組の斎藤に船の中で世話になって以降、交流が続いているようでした。しかしそれにユキは顔をしかめます。

ユキ「なんで…新選組は人斬りの集まりだと聞いた。皆言ってた。長州が会津をここまで憎むのは新選組がやりすぎたからだって。こんな仕打ちを受けんのは、新選組なんか雇ったからだって」

時尾『そうでねぇ!斎藤様たちは会津のために命かけて働いてくれた。最後まの最後まで、共に戦ってくれたんだから』

このように会津の人々の中には、自分達が生きるのがあまりに辛く、恨みをぶつける相手として新選組をあげる者もいたようです。

ユキ「戦のあとにもおっと辛い目に合うなんて」

一方、新都 東京は近代的に生まれ変わろうとしていました。交通、建築の多くがかわるなか、あちこちで一揆がおこっているようです。それくらい諸藩のお財布事情は逼迫しているようでした。その背景には、幕府を倒すために無駄遣いしすぎたという面もありました。

そこで、木戸(桂小五郎)は藩を廃止し、県を置くこと(廃藩置県)を提案します。新政府が日本の全てを握ろうと考えたのです。しかしそうすると、日本中の武士が職を失うことになりかねず、またそれが原因で戦になるかもしれないのでした。

その頃、斗南では悲劇が続きます。雪が原因で港がつぶれ、交易ができなくなってしまったのです。更に、尚之助が訴訟され、もしそれが藩命としてのことであれば、斗南藩は三千両もの賠償金を支払わなければなりません。尚之助は自らの独断であり、藩は関係ないと1人で全ての責任を負おうとします。山川浩は、苦渋の決断を強いられます。事実を公表すれば尚之助は助かりますが、困窮している藩のお金から、更に出費せねばなりません。斗南藩には、そんな余裕はありません。もし、このまま尚之助の嘘にのれば、尚之助を見捨てることになりますが、藩からお金を払うこともないのです。

山川浩「鬼だ!鬼だ俺は!」

そして山川は藩を選んだのでした。しかし、明治4年7月。ついに廃藩置県の詔が出されます。中央政府から役人がきて、斗南は藩ではなく県が運営することになるのです。斗南藩はたった2年で廃止となり、尚之助が藩のためにした行いも残念な結果に終わるのでした。殿も、武士も、会津も、これまでの努力も水の泡になってしまったようです。

その後、斗南に移った会津の人々は散り散りになっていきます。山川も同様に東京にでてきた人々を支援するために、東京へとうつります。しかし、それに梶原平馬はついていくことはしませんでした。そればかりか、このまま自分と妻の二葉が一緒にいると、迷惑をかけるからと離縁し、山川家として二葉を連れて行ってほしいと願い出ます。浩は平馬から姉の二葉と彼らの子を引き取ることになるのでした。

ある日、京都から野沢という青年がやってきました。彼は覚馬の弟子だそうです。覚馬は西郷隆盛のはからいで牢をでて治療をうけ、その後 京都で暮らしていたようです。

八重『兄様は生きてんのがし!?』

覚馬の元に、八重たちが米沢で無事でいるという噂を聞きつけ、野沢を使いとしてやったのです。けれど覚馬の姿はありません。野沢が持っていた覚馬の手紙も、覚馬以外の誰かの文字でした。しかしその理由を野沢は言いません。覚馬が自分で会って伝えたいからと言います。

八重は覚馬が存命であったことや、覚馬が京都に自分たちを呼んでいることから、また一緒に暮らせることを喜びます。しかし、覚馬は既に新しい家族がいることを告げられます。

八重たちが覚馬の生存を分からなかったように、覚馬も八重たちのその後を知りませんでした。お互いがお互いを既に亡くなってしまっているかもしれないと思っていたのです。そして覚馬は大垣屋が下女としてつかわせた時栄を妻として迎え、二人の間には娘が生まれているようでした。いくら事情があるからと、うら と みね のことを考えると、八重は納得いきません。何とか佐久が諭して、これからのことを考えねばなりません。

うら「おっかさまと八重さんで、みねを京都につれていってくなんしょ。私は行けねぇ」

うらは自分は京都に行かず、一人会津に戻ると言います。きっと京都に行って時栄をみると嫉妬してしまうでしょう。そんな姿をみねに見せたくはないのです。みねは山本家の跡取りですから、会津に連れていくこともできないのです。

うら「私にもおなごの意地がありやす」

覚馬は京都守護職として京都に出て以来、一度も会津に戻っていません。覚馬の中の記憶にある うらは若く美しいままなのです。その記憶のまま、去りたいと言います。八重や佐久は渋々それを了承します。

翌朝、4人はそれぞれの目的地に向かうため、米沢を去ります。みねは記憶にない、しかも新しい女を作っている父親なんかより、母親のうらと居たいのでしょう。泣いてうらを引き留めます。けれど、うらは覚馬からもらった櫛をみねに託し、八重たちとは反対の方向に進んでいくのでした。

そして9年ぶりに覚馬と八重たちは再会します。覚馬の目は完全に見えなくなり、足を悪くし、誰かの支えなくては歩くこともできません。覚馬は会津に八重たちを探しにきたくてもこれなかったのだと、やっとしるのでした。

第32話 兄の見取り図

京都にある覚馬の屋敷で、覚馬の新しい妻である時栄、その娘でまだ赤子の久栄、そして山本家の八重、佐久、みねで暮らすことになりました。翌朝、八重が目を覚ますと、手際のよい時栄はすべての準備を終わらせていたようです。

覚馬『今日からはじまりだ。皆で揃って朝飯にすんべ』

みね「皆揃ってなんかねぇ!」

みねは、うらのことを忘れることができず、また新しい母である時栄を受け入れることができません。その場を飛び出して、泣き崩れてしまいます。八重はみねを心配し後を追おうとしますが、覚馬は厳しくそれを制止します。そして代わりに時栄を向かわせるのでした。

覚馬は八重に家のことは時栄にまかせ、八重には自分が取り組む京都再建に手伝うように命じます。八重に自分の勉強の手伝いをさせ、更に八重にもさまざまなことを勉強するように言います。八重は納得がいかないながらも、それに従うのでした。

しかしそれだけではありません。覚馬は元長州藩士である槇村正直(大参事)の手伝いをしているようです。宿敵の長州の手伝いをするなど、八重には理解ができません。その上、自分を明治初期に設置された女子教育機関である女紅場に入れ、そこに住み込み、娘たちの面倒を見ながら八重自身も学ぶように言います。八重に拒否権なんてありません。八重がうら から みね の面倒を託されていると話しても聞く耳を持たず、覚馬は八重を女紅場に入れてしまうのでした。

しかし、これは覚馬なりの復讐だったのです。

覚馬「これは俺の戦だ」

八重『え?』

会津を捨て石にしてつくり上げた今の政府は間違ってる。だけんじょ同じ国の者同士討ちあって殺し合う戦はもうしてはなんねぇ」

『だったら会津は踏みにじられたままなのがし?』

「いや、そうではなぇ」

そういって覚馬は、八重に官見という書を渡します。これは新しい国の見取り図だと言います。そしてこれからは知識が一番の武器だと言うのです。そのことは鉄砲の知識があったため会津戦争で活躍できた八重にはよくわかることでした。

覚馬は新政府が捨てた京都という場所に、武力では決して押しつぶされることのない、文明の町を作ろうと考えていたのです。そのためは八重や、女性たちも学ぶ必要があります。新しい武器である学問を身につけるために、立ち上がるのでした。

八重『”今より以後、男子と同じく学ばすべし”』

その頃には みね も随分と落ち着き、新しい家族として再スタートができたのでした。

明治5年(1872年)2月、これまで欧米諸国と日本が結んだ条約には、日本が不利なものが多かったため、岩倉具視たち(岩倉使節団)は条約改正と、新しい知識をえるためにワシントンへとやってきました。そして、そこでは新島襄という青年が通訳をつとめることになりました。新政府にも少しずつ亀裂が見え隠れしています。木戸(長州)と大久保(薩摩)の間には微かい不穏な空気が流れています。

この頃、ワシントンには日本から女子留学生も何人か向かっているようです。その中には、山川浩の妹である山川捨松の姿もありました。捨松は襄とは気さくに話しますが、木戸たちには明らかに嫌そうな顔をします。

捨松「長州の人に心は許せねぇ。だけんじょ私は、国費で留学してる」

襄『いいじゃありませんか。誰のお金でも。むしろ大いに利用して金を使ってやればいい。あなたの学問のために。うまい料理をたらふく食うために。捨松さん、あなたの前には薩摩も長州も関わりのない広くて、豊かな世界が広がっているのですよ』

「はいっ!」

一方、西郷隆盛が覚馬を訪ねてやってきました。薩摩藩邸のあった土地を買わないかと誘ってきたのです。しかし八重からすると、何故敵の薩摩が、会津の覚馬に土地を売ってくれるのかも理解できません。そして、それを西郷に問いただしても、答えてはくれなかったのです。

八重『兄様、学問をすれば答えが見つかんべか?』

覚馬「必ずみつかる」

『学ばねば勝てねぇな』

そして八重は自身が学ぶ意味を見つけるのでした。

第33話 尚之助との再会

明治6年、日本でも太陽暦が取り入れられ、また京都博覧会が行われました。京都にも文明開化がやってきたのです。この頃の京都は、覚馬が発案した内容を、槇村が決済(要はお金の処理)して、医者で化学者でもある明石博高が実行するというサイクルができて、それなりに上手く回っていました。この3人によって、京都の近代化が進んでいたのです。八重も女紅場で働きながら、英語を学ぶ日々を過ごしていました。

八重『英語がわかれば異人の考えていることがわかる。そしたら、新しい考えも生まれる鉄砲や蒸気船を発明したのは異人だけんじょ、次は日本で新しい何かが生まれるかもしれねぇよ』

しかし、女紅場が無料ではなく、月謝代が必要になるという噂が流れます。そうなると家計の事情でこれなくなってしまう生徒も多く、彼女たちが学べなくなってしまいます。八重は一人で槇村の元へ、女紅場ば無償で学べるようにと直談判に向かうのでした。

東京では朝鮮政策(征韓論層)のため対立が深まっていました。日本との国交を拒む朝鮮に対し、土佐の板垣退助や佐賀の江藤新平は出兵する覚悟で挑むべきと考えていました。士族のやり場のない怒りが、朝鮮に向いていたからです。けれど長州と公家たちは反対意見です。薩摩は反対よりですが、板挟み状態になってしまいました。

一方、槇村が業務妨害の容疑で司法省に逮捕され東京に拘留されてしまいます。覚馬は、槇村の後見人である木戸にとりなしを頼むために、八重と共に汽車で東京に向かいます。しかしなかなか申し出は聞き入れられません。ここにもまだ藩による勢力争いが残っていたのでした。

槇村「八重殿。日本はまだよちよち歩きの赤子のようなもの。赤子のうちは理屈より親の助けがいると思わんか?わしは命がけで、幕府っちゅう錆びついた国を壊してくれた木戸さんらを尊敬しちょる。じゃが、壊しただけじゃ。わしは壊された荒地に新しい国をつくるつもりじゃ。そのために今はまだ、強力な指導者が必要なんじゃよ。法を破り、罪人と呼ばれようとかまわん」

覚馬『槇村さん、あんたが中央の藩閥争いに巻き込まれんのはもったいねぇ』

その後、覚馬は木戸だけではなく岩倉具視にも槇村を戻すように願い出ます。しかしやはり、長州派の木戸が、司法省(佐賀藩の江藤)に頭を下げることになるため、受け入れてもらえません。

覚馬『藩を自分たちで壊しておきながら、未だ長州だ佐賀だとこだわられるとは、いささか滑稽』

木戸「なに」

『権力は政治を動かす道具に過ぎぬ。たかが道具に足をとられて、まともな政ができますか?』

こうした覚馬と八重の説得もあり、槇村の処遇は再考されることになりました。

1873年(明治6年)10月22日、朝鮮出兵に関しての意見が分かれたことにより、大久保たちと対立が深まり、西郷隆盛板垣退助江藤新平たちは職をやめてしまいます。江藤が失脚したことで、槇村は釈放されましたが、新政府内でもちらほらと分裂が始まり崩れ始めているようです。

覚馬と八重はその後、東京の赤坂で暮らす勝海舟の元を訪ねます。覚馬は勝に尚之助の行方を探してもらっていたのです。尚之助は、浅草にいることがわかりましたが、まだ裁判中とのことです。八重は裁判のことも初めて聞きました。八重は一人で、尚之助の元を訪ねたいと願い出るのでした。

久々に会った尚之助は随分とやつれており、今は長屋に暮らしながら寺子屋の真似事をしているようです。尚之助も八重も、お互いに過去のことを謝ります。

八重『私をおそばに置いてくなんしょ。夫婦でなくてかまわねぇ。尚之助様のお役に立たせてくなんしょ。お願いしやす…お願いしやす…』

尚之助「八重…」

『尚之助様…』

「がっかりさせないで下さい。あなたには京都で生徒たちを助ける舎監の仕事があるんでしょ」

『だけんじょ尚之助様を放ってはおけねぇ!』

「私の妻は鉄砲を撃つおなごです。私の好きな妻は、夫の前を歩く凛々しい妻です。八重さんの夫になれたことが私の人生の誇りです。もう2度とここに来てはいけません。あなたは新しい時を生きる人だ。いきなさい」

『…待ってっからし。前を歩いて京都でずっと待ってから。旦那様』

「それでこそ、八重さんだ」

こうして八重は長屋を後にし、尚之助とは別の道を進んでいくのでした。八重は、裁判が終わったら尚之助が京都まで追ってきてくれると信じて、進むしかありませんでした。

一方、アメリカにいる襄は日本の現状を人々に伝え、新しい日本をつくるために立ち上がろうとしているようでした。彼の夢を語る姿は多くの人々を感動させているようです。

第34話 帰ってきた男

1874年(明治7年)11月、アメリカから新島襄が日本にキリスト教(耶蘇教)の学校を設立するために、日本に帰ってきました。襄にとっては10年ぶりの日本です。もともと許可なく海外に渡ることは国禁(大罪)でしたが、木戸のはからいもあり帰ってくることができたのでした。しかし、まず大阪にキリスト教学校を作ろうとしますが、断られてしまいます。木戸に相談したところ京都を提案されるのでした。

その頃、八重も覚馬に言われて新約聖書 馬太傳を学び始めていた頃でした。キリスト教は禁止されていましたが、2年ほど前にキリスト教が解禁されていたのです。八重は覚馬にゴードン先生からキリスト教について学びますが、何故”悲しむ人は幸いなり”なのか、何故”敵を憎むな”なのかと、キリスト教について理解することは難しいことでした。何故なら、キリストの教えと八重がこれまで生きてきた会津や武士の教えは、反対しているところが多かったのです。

八重『そんじも悲しいことなんかない方が良いに決まってる』

襄は木戸の紹介もあり、覚馬の元を訪ねていました。襄の話す、キリストの教えを覚馬も理解しているようで、襄は覚馬がクリスチャンなのかと質問します。

覚馬『いや…だが、この書の中に、私は探していたものを見つけた』

襄「それは?」

『この先、日本画間違った道に進まないためには良心をもった人間が必要です』

「そのための学校なんです。どうか私に力を貸してください」

そして覚馬は襄の学校づくりに協力することになりました。槇村も大阪に反対されたのであれば、むしろ京都がつくってやろう!と賛成です。

そんなある日、宣教師(ゴードン先生)の家で八重は偶然、襄と出会います。襄が靴磨きをしていたため、彼がゴードン先生の弟子か何かかと思っていた八重はびっくりします。

襄「あぁなるほど、私も江戸の藩邸にいたころは、自分の襦袢1枚洗いませんでした。武士のすることではないと思っていたので。しかしアメリカに渡って考えが変わりました」

八重『アメリカ?』

襄「体を動かして働くことは楽しい事です。しかも成果が目に見える。靴は磨けば綺麗になるし、このクッキーもミセスゴードンの労役の賜物です」

八重は自分が今までみてきた男性とは全く違う襄に驚くばかりです。更に襄は、学校つくりの勉強のために女紅場を見学したいと申し出ます。女紅場は女学生ばかりですから男性の襄がくると生徒たちが驚いてしまいます。八重は断りますが、翌日、襄は強引に押しかけ校内を見学するのでした。襄は英学校をつくり、女学校もつくりたいと考えていました。女紅場は良い手本になったのです。

襄「男子の学校をつくるなら、ペアになる女学校も必要でしょう」

一方、東京では山川浩の弟・健次郎がアメリカ留学から5年ぶりに帰ってきたようです。彼はイェール大学シェフィールド理学学校でBachelor of Philosophyの学位を所得し帰国したのです。山川浩は同年に起こった、佐賀の欄で左腕に重症を負っていたようです。更に東京には、佐川官兵衛も暮らしているようでした。これまで軍にいた佐賀藩薩摩藩の兵士たちが母国に帰って手薄になってしまったため、1年ほど前に佐川官兵衛たちを含めた300人ほどの会津兵士たちを連れてやってきたようです。それでもとにかく今は再会を喜び、健次郎がこの先どうするのかという話になります。

健次郎「私は官吏(役人)でも軍人でもなく、学問をきわめたいと思っております」

健次郎の進む道は、浩と同じ役人でもなければ、官兵衛と同じ軍人でもありません。彼はこの後、東京開成学校(後の東京帝国大学)に採用される、明治の教育界をリードしていく存在になるのでした。

京都では襄は八重が覚馬の妹であることを知り驚いていました。更に八重は暑いからと井戸に足を投げ出し、涼んでいるようですが、はたから見ると危なそうで、襄も八重を心配します。

襄「ご婦人は守るべしと教えられてきたので…」

八重『守る?私を?私は守られたいなどと思ったことはありません。人に守ってもらうようなおなごではねぇ。私は会津の戦で鉄砲撃って戦った男と同じように、敵を倒し、大砲を撃ち込んだのです。七年過ぎた…だけんじょ私には敵のために祈れという耶蘇(キリスト教)の教えはわかんねぇ』

八重は会津の国が踏みにじられていく様を目の当たりにし、心には深い深い傷が刻まれているでしょう。覚馬はそれを理解し、キリストの教えの中に八重が恨みや憎しみを超えていく方法を見出せるのではないかと考えました。

覚馬『八重の背負った重荷は誰にも肩代わりできねぇ。乗り越えていく道は八重が自分で探すしかねぇ』

この後、西郷隆盛から紹介された薩摩藩邸の土地を襄の学校を建てるために使用することになりました。けれど、これまで仏様を信仰してきた土地である京都が、新しく入ってきた(再度許可された)宗教であるキリスト教を簡単に受け入れられるはずがありません。それでも襄は諦めず、八重もそれを応援します。キリスト教も昔、周囲に反対され、それでもここまで広く伝わってきました。襄も同様にひるむことなく、教えを広めればいいのです。

また襄は覚馬の屋敷に厄介になることが決まります。八重は一通り準備をこなします。

八重『ほかになにか御用はありますか?』

襄「あぁ1つだけ。八重さん私の妻になっていただけませんか?」

襄からの要求は、サラリと流れるようなプロポーズだったのです。

第35回 襄のプロポーズ

1875年(明治8年)夏、襄は覚馬の家に居候をしつつ、学校つくりのために日々奔走しています。けれどそう簡単には進みません。槇村は英学校を作ることは許可できても、お坊さんからの反対意見が多く寄せられていることを理由に、キリスト教を教えること、そして外国人を雇うことは認めなかったのです。キリスト教を教えるための学校なのに、それでは何もできません。

そんなある日、八重の元に懐かしい人が訪ねてきました。親友の時尾です。1年前、時尾は藤田五郎(斎藤一)と祝言をあげたのだと言います。山川浩佐川官兵衛が取計い、仲人は大殿様である松平容保が引き受けてくれたのだそう。容保は今でも会津のために亡くなった人々を毎日供養しています。

容保『ようやく1つ、報いることができた。最後まで会津に尽くした者たちに、いつか報いたいと願っていた』

藤田(斎藤)「身に過ぎたお言葉でございます」

藤田は現在、警視庁の佐川官兵衛のもとで働いていることや、様々な話に花が咲きます。それは八重と時尾だけではないようです。襄と藤田は意気投合したようで、夜通し語り合って過ごしました。

それから暫くして、東京から覚馬、八重の元に悲しい報せが届きます。尚之助が肺病で死去したという報せでした。尚之助は療養中の病院を出て、それでも仕事をしていたのだそうです。尚之助は最後に”会津戦記”を書き記すために、一人戦っていたのでした。

覚馬『守護職を拝命してから会津に何が起きたか、国元に居た尚之助の目にうつったことが皆、書いてある。籠城戦の途中で終わってる。他に身内も知らせる先もねぇからとうちに届いた』

尚之助の遺体は近所の人たちが近くの寺で葬ってくれたのだそうです。その話の最中、八重は一人屋敷を飛び出し、女紅場での仕事に戻ってしまいます。

八重『また一人で勝手に…』

八重はまた尚之助に置いていかれてしまいました。そして次は、そう簡単に行くことのできない場所に行ってしまったのです。

覚馬「何一つ報いてやれなかった。尚之助は病に倒れたんじゃねぇ。あの戦で死んだんだ。ゆっくりと時をかけた戦死だ…」

八重も覚馬も悲しみに暮れるのでした。そんな八重を、襄は強引に人力車にのせ、ピクニックに向かいます。場所は弟・三郎が戦死した草原だったのです。八重は京都に来て4年経ちますが、ここには一度もこれていませんでした。八重は三郎の死と向き合うことができなかったのです。しかし突然連れてこられ八重は襄に不満をぶつけます。

襄「向き合った方が良い。辛くても」

八重『離してくなんしょ』

「三郎さんや会津の大切な人たちが亡くなったこと、あなたがしっかりと受け入れなければ亡くなった人たちは安らかに眠れませんよ。あなたの心の中の戦も終わりません」

『あなたに何がわかるのですか!』

「わかりません。私は三郎さんも会津も尚之助さんのことも知りません。あなたの代わりに悲しむことはできません。できるのはただ悲しむあなたの側にいることだけです」

そう言って、襄は三郎が亡くなった場所を探します。そして彼の痕跡を探すのです。しかしもう数年経っているのです。何ものこっているはずがありません。八重は必死に襄をとめますが、襄は更に地面に耳を当て、音を探します。

八重『やめてくなんしょ!なんにも聞こえるはずがねぇべ!』

襄「そうでしょうか?私はあなたが亡くなった人たちに語り掛ければきっと何か答えてくれると思うんですが、その声に耳を傾けてみてください」

そして八重は地面に手を当てます。

八重『土はあったけぇ…』

襄「亡くなった人たちは、もうどこにも行きません。あなたのそばにいて、あなたを支えてくれます。あなたが幸せであるように。強くなるように」

その言葉に八重は納得し、悲しみを少しずつ受け入れられるようになるのでした。そして襄がつくったサンドイッチを食べることになりました。サンドイッチを八重は初めて食べますが、口に合ったようで美味しいと喜びます。そしてその言葉に襄も喜ぶのでした。

その後、襄は改めて八重にプロポーズをします。けれど八重はまだ尚之助を忘れることなどできず、受けることはできないと話します。襄はそれに対し、尚之助を忘れないで良い、むしろ忘れないでほしいのだとと言うのです。

襄「私は川崎さんに喜んでいたあけるような夫婦になりたいんです。私の伴侶となる人はあなた1人しかいない。あなたとなら共に歩んでいける。素晴らしいホームがきずける。どうかお願いします」

八重『はい』

襄「今、”はい”と言いました?」

八重『新島様はほんとに面白い。私はあなたと一緒にホームをつくってみます』

一方、槇村の様子が以前とはずいぶんと変わり、最近は中央政府に取り入るための政治になりつつありました。京都のために尽くして、経歴に汚点を作りたくはないのです。そんな槇村に覚馬は何のために政治を行っているのかと問いただします。けれど槇村はきちんとした回答を返しません。そればかりか覚馬が所詮会津の人間だと揶揄するような発言をし、2人の関係にも溝が深まっていくのでした。

よもやま話

31~35話について綴ってまいりました。これまでに比べると、悲しいシーンはあれど、そこまで重く辛いシーンは減ったように感じます。皆それぞれの方法で受け入れて、乗り越えたり、その辺にいったん置いたりしながら、それでも生きている感じが伝わってきました。31話からは第2章のキャラクター設定の紹介シーンも多く、時代背景が大きく移り変わったのもよくわかりました。襄さんが出てからは画面が明るくなったようにすら感じますね。

新キャラでいうと、槇村さんのコミカルな感じが好きです。キャラクターとして悪い面、良い面の両方が垣間見えるのが面白い。槇村さんに対して苛立つシーンもあるんですけど、でもやっぱり憎めないんですよね。慶喜の再来かと思いました。役者さんの演技と演出、脚本がいい塩梅なんだろうなぁと。

とはいえ、やはり…やはり、尚之助さんのラストが悲しくってですね。八重さんとの再会のシーンもですが、尚之助さんの死を知り、悲しみ苦しむ覚馬のシーンももう涙が…。これはどちらも映像で見てほしいものです。

あと、八重さんが時尾さんと再会するシーンで襄さんと斎藤さん(藤田五郎)が仲良くなるんですね。これはもう確実に制作陣の遊び心ですよね!襄を演じているのはオダギリジョーさんなのですが、オダギリジョーさんと言えば大河『新選組!』で斎藤一を演じていらっしゃった方です。新・旧斎藤一がそろい踏み…なんと胸が熱くなる展開でしょう。史実で二人に交流があったかは存じ上げませんが、新斎藤さんが旧斎藤さんに懐いているシーンが良きでしたね。可愛いな、このやろうってニマニマしました。

内容に関してですが、31話以降は少しずつキリスト教が取り上げられるようになり、35話では大きなテーマになりつつあります。私も八重さん同様、理解できないなぁと思うところもありながら、作品を通してキリスト教文化が入ってきたおかげで、今ある物を知り、自分にとって実は凄く近しい存在だったことを知りました。勉強したことは無いですが、いつか自分から近づいてみたいと思います。

それと、舞台が京都にうつり、ちょっと懐かしいなぁ…なんて思ったり。名所が出てきたりするわけではないのですが、地名が出てきたりするとちょっと嬉しい。昨年の正月に帰省して以来、関西には帰っていないので、京都も恋しいなぁ…なんて。次はいつ、観光できることやら。

では、今回はこの辺で❀