SIMPLE

シンプリストになりたいのです

本・線は、僕を描く の感想

水墨画、知ってはいるけれどよくは知らない世界。美術に興味はあるけれど、どちらかというと西洋美術が中心で日本の伝統美術ってあまり知らなかったりします。

今回はそんな水墨画をテーマにした小説「線は、僕を描く」を読みました。感想をネタバレ交えて綴っていきたいと思います。

第1章 の あらすじ

主人公の青山霜介は大学1年生。同級生で自称親友の古前に誘われて、巨大な総合展示場に来ていました。「簡単な飾り付けのアルバイトだ」と聞いていたのに、蓋をあけてみると まるで話が違います。大きなパネルを何十枚も運ぶという、かなりの肉体労働。一人、また一人とアルバイトたちがいなくなり、残されたのは霜介と作業を監督する西濱の2人だけなってしまいました。

狼狽える西濱を横目に、事の発端である古前に連絡をすると急ぎ応援をよこしてくれました。駆け付けたのは、体育会系の生徒たち。おかげで無事展示会の準備を完了させることができました。

霜介たちが準備していたのは、水墨画の展示会でした。せっかくの機会だからと西濱は、霜介に展示をみていかないかと訊ねます。そして展示が始めるまでは、控室で配る予定のお弁当を食べて良いと言うのです。

しかし控室の場所がわからない霜介は道中迷ってしまいました。そこに小柄な老人あらわれ、霜介は控室の場所を訊ねます。ちょうど老人も控室に用があったようで、一緒にいくことになりました。

控室につくと老人は黒い包みの大きな重箱の弁当を2つダンボールから取り出してくれました。霜介が、これを食べてよいのかと質問すると、全く問題ないと答えます。

老人は視線をあげてこちらを見た。僕の手元を見ていて、

「きれいな箸の持ち方だね」

と、僕をほめた。そういえば、両親が生きていたときにも、そのことを両親に褒められたことがあった。僕はとても器用に箸を使うし、持ち方がきれいだと言われていた。自分ではよく分からない。

(文庫版P23より引用)

食事が終わると、老人は霜介をお供に会場へと向かいました。先ほど準備したパネルには、水墨画の掛け軸が飾られているところでした。老人は、霜介に水墨画1枚1枚の感想を求めます。霜介もそれに対して、1つ1つ思いついたことを答え、いくつもの絵画を巡っていったのでした。

「凄いね。君はプロの水墨画家顔負けの目を持っているね。なかなか鋭いところをみている」

「いえ、そんなことはまったくないです。ただ、こういう何もない場所にポツンと何かがあるっていう感覚は凄くしっくりくるんです」

「しっくりくる?君の年でそんなことを思うのかい?」

「ええ。日常というか、とてもよく知っている感覚に近いような…」

「それはどうしてかな?」

老人はとても無邪気に訊ねた。僕はなぜか、を改めて考えてみた。話しながら思ったけれど、僕はこの余白の感覚や、真っ白になって消えてしまう感覚をよく知っていた。

それはたぶん、

「僕にも真っ白になってしまった経験があるからです」

と答えた。自分でもどうしてそう答えたのか、分からない奇妙な言葉だった。それを聞くと老人は、ほんの少し目を細めて頷き、

「君はその年で、本当にいろんなことを知っているんだね。それは、もしかしたら人が一生生きたって分からないことかもしれないよ。その真っ白を心から知りたいと思う人だって、世の中にはいるんだよ」

(P27-28より引用)

そして2人は最後に1枚の絵の前にやってきました。5輪の華麗な薔薇の絵でした。墨一色で描かれたはずのその絵が、燃えるような赤を感じさせます。

「墨一色で描かれているのに、色を感じます。凄いですね」

「そうかね?どんな色かな?」

「真っ赤です。なんでだろう?赤い色を見ている感覚で墨の黒い色を見ています。赤と黒がだまし絵のように切り替わる不思議な感じです」

(P28より引用)

霜介と老人がその薔薇の絵について話していると、気の強そうな美女がやってきました。年齢は霜介の少し上くらいかでしょうか。彼女は老人の孫で、その老人を探していたようでした。そして、ちょうど彼らが見ていた絵を描いた本人でもありました。彼女は霜介を警戒しつつも、自身の絵の感想を求めます。

「絵としては本当に凄いと思いました。墨の色をこんなにも赤く感じたことは初めてです。ですが、花が強すぎて、花以外は何も見えなくなりました。ただ精巧な花が、情熱的に描かれているとしか」

僕はそのまま鋭い瞳で、突き殺されてしまうのではないか、と思った。だが、彼女は憤りを収めて真摯に言葉を受け止めて思案していた。間違いない、確かにこの美女がこのすばらしい薔薇の絵を描いたのだ。

「ですが、この会場の中で最も強く目を惹いたのも確かです」

彼女はその言葉を聞いてただ単にこちらを眺めていた。僕の目を見て、僕が真実を言っていることを確かめた後、ようやく彼女は矛を収めた。

「確かにおもしろい感想を言う方のようね。お祖父ちゃんが話し込んでしまったのも分かる気がするわ」

「そうだろう?私はこの若者を弟子にしようと思うんだ。私の内弟子としてね」

(P35より引用)

彼女は一体どういうことかと抗議し、何より霜介にとっても何のことだか理解が追いついていません。今まで霜介が好々爺だと思っていたその老人は、なんと大芸術家として有名な篠田湖山で、しかも自分を内弟子にすると言うのです。孫である千瑛は弟子入りを猛反対しますが、湖山は全く意に介していません。それどころか、すぐに霜介が千瑛を抜いてしまうかもしれないと言います。

「そこまで言うなら、勝負よ。お祖父ちゃん」

「勝負?いいだろう。いったい何をするつもりかな?」

「お祖父ちゃんがそれほどこの人に期待しているというのなら、私はこの人と水墨画で闘うわ」

「ほう。この若者と腕を競うということかな?」

「そう。来年のこの湖山賞でこの人が私に勝てたら、私は門派を去るわ。でも、私が……まぁ、絶対に勝てるけれども、勝ったときには、私はお祖父ちゃんから雅号をもらって、この道で生きていくのを認めてもらうからね。それから湖山賞ももらうわ」

(P39-40より引用)

そして霜介が口をはさむ間もなく、事が進んでいってしまったのでした。

霜介が自宅マンションの一室に帰宅すると、まるで崩れ落ちるかのように玄関で倒れてしまいました。なんとか、最後の力を振り絞り洗面台までやってくると、随分と痩せて青白い肌の青年と目が合いました。それが霜介の今の姿だったのです。

霜介は、17歳のときに両親を交通事故で亡くすという悲しい過去がありました。遺体安置所で横たわる両親はまるで人形のようで、他人事のように思え、哀しみよりも驚きの中にいました。そして、その驚きがさめないまま、両親の葬儀を終え、その後、父の兄である叔父夫婦の家に引き取られました。

新しい家で、ぼんやりとあたりを見回したとき、これまでとは少し違う窮屈な人生に気づいた。そのとき、やっと僕は独りなのだと理解した。僕にはいつもこういう間の抜けたところがある。気づくと何もかも手遅れなのだ。僕は十七歳だった。

(P43より引用)

両親の死後、しばらくは明るく振る舞えましたが、そのつけは後からやってきました。新たな生活の準備が整ったころからどんどんと調子が狂い始め、空元気すらできなくなりました。

半年が過ぎたころには、僕はほとんど黙り込んで離さなくなってしまった。僕は世界の何にも対応できない人間になっていた。食事をする気力もなく、心は動きをなくし、未来を探すことも今を感じることもなくなっていた。

(P44より引用)

そして、いつしか霜介は学校に行くこともできなくなり、叔父の家と 両親と住んでいた家を往復する毎日を送るようになりました。

混乱と苦しみが頂点に達したとき、気づくと僕は、実家のリビングにいながら、同時に直方体の真っ白な部屋の中にいた。そこは僕の心の中にだけ存在する場所だったけれど、そこでなら僕は少しだけ元気でいられた、僕は壁を少し叩いてみた。質感はガラスそのものだった。僕はそこで、壁を叩きながら、丸みのある音に耳を澄ませた。真っ白な壁に目を凝らすと、真っ白な壁は少しだけ影を伴い、次第に像を結んだ。そこでは僕の見たいものが見ることができ、思い出したいことを思い出せるような気がした。父と母との記憶が、暗いイメージを伴わずに鮮明に映った。僕が本当に安らぐことのできる場所は、この場所でみる記憶だけになった。それからは、ただ記憶を眺め続けた。ガラスの内側に映る景色だけを、ずっと眺めて過ごしていた。

(P45-46より引用)

その後、叔父の計らいでなんとか大学に進学し、大学近くのマンションで独り暮らしをするようになりました。資金は両親の遺産や、交通事故の慰謝料などから充分まかなえたのだそう。4年間、遊んで暮らしても問題ない金額が遺されていたと言います。それから大学生活が始まり、古前と親しくなったことで少しずつ外の世界と関われるようにはなってきたという状況だったのでした。

それから日も開かず、西濱から連絡がありました。湖山先生のアトリエ兼自宅に招待されたのです。広い庭はきちんと整備され、まるで景勝地かのよう。そこで霜介は長机を1つ挟んで湖山先生と向き合っていました。湖山先生は事もなげに、1枚の湖畔の絵を完成させます。

墨が紙に定着していくほんのわずかな間に、湖に引かれた墨線がじわじわにじんで湖面の光の反射を思わせ、柔らかな波を感じさせた。遠景の山は霞み、近景の木々は風に揺らぎ始めた。まるで魔法のような一瞬が、湖山先生の小さな筆の穂先から生まれていた。

(P63より引用)

霜介にはこんなことが自分にできるとは微塵も思えません。けれど、できることではなく、やってみることが目的だと湖山先生は諭します。そして、1枚、また1枚と線を引き始めるのでした。当然、そこに描かれているのは落書き以下のただの線でした。けれど、失敗してもよいという気楽な気持ちで筆を振るうのは楽しい作業でもありました。

「おもしろくないわけがないよ。真っ白い紙を好きなだけ墨で汚していいんだよ。どんなに失敗してもいい。失敗することだって当たり前のように許されたら、おもしろいだろ?」

(P66より引用)

それは純粋に絵を描くことだと湖山先生は言います。まるで天才が絵を描くときのようなその感覚は、子どものように純粋に絵を描くことなのです。その日の授業はそれで終了でした。何か技術や作法を教わるでもなく、ただただ霜介は楽しい時間を過ごしたのでした。

帰路の途中、霜介は近所のカフェに入ることにしました。そこでは同じゼミの川岸という女性がアルバイトをしていました。霜介たちが通っている大学の中では、非常に秀才で、小柄で可愛らしい女性です。親友の古前はひそかに彼女に思いを寄せているようで、そのカフェにも頻繁に来ているそうです。

そこから雑談が続き、篠田湖山やその門下の話になりました。なんと川岸が言うには、西濱という男性も西濱湖峰という有名な水墨画家だったのです。日焼けした肌に、少し汚れた作業着、頭にタオルをまいた陽気そうな男性が水墨画の世界では篠田湖山の後を継ぐと言われるくらい有名な人だと言うことに、霜介は驚愕するのでした。

2回目の授業では、斎藤湖栖という男性が対応をしてくれました。西濱とは対照的な色白で線の細い繊細そうな美男子でした。彼は西濱の後輩で、千瑛に水墨画の指導をしているようでした。

「斎藤君は、最年少で湖山賞を受賞した俊英だよ。若いが技術に関しては国内でも文句を付ける人間は誰もいないだろう。青山君も彼の水墨画から学ぶところが多いと思うよ」

(P76より引用)

人付き合いは苦手ながら、優しい人であると湖山先生は言います。彼が退室した後、湖山先生は一通り道具の説明をしたあと、霜介に墨をするように言います。しかし、何度墨をすっても「もう一回」と言われるばかり。霜介は疲れから、思考も放棄し、いってしまえば適当に墨をすりはじめたのでした。しかし、湖山先生はそれで納得したようで、逆に今度は霜介が納得できないといった顔をします。

「粒子だよ。墨の粒子が違うんだ。君の心や気分に墨が反映しているんだ。」

(P81より引用)

その墨で描かれた線は、これまでの墨でかかれた線とは全く違うものがありました。湖山先生は、力を抜くように言います。

「力を入れるのは誰にだってできる。それこそ初めて筆を持った初心者にだってできる。それはどういうことかというと、凄くまじめだということだ。本当は力を抜くことこそ技術なんだ」

力を抜くことが技術?そんな言葉は聞いたことがなかった。僕は分からなくなって、

「まじめというこのは、よくないことですか?」

と訊ねた。湖山先生はおもしろい冗談を聞いたときのように笑った。

「いや、まじめというのはね、悪くはないけれど、少なくとも自然じゃない」

「自然じゃない」

「そう。自然じゃない。我々はいやしくも水墨をこれから描こうとするものだ。水墨は、墨の濃淡、潤渇、肥痩、階調をもって神羅万象を描き出そうとする試みのことだ。その我々が自然といものを理解しようとしなくて、どうやって絵を描けるだろう?心はまず指先に表れるんだよ」

(P83より引用)

そういって、優しく霜介に水墨画と自然とのつながりを諭していきます。その日の授業は墨をすることだけでした。そして、お手本に描いた紙はすべて持ち帰っていいとのことで、霜介は紙の束を一抱えしてアトリエを後にします。

隣接している湖山先生の自宅は教室も兼ねており、内弟子たちの鍛錬の場でもありました。そこではちょうど、千瑛が絵を描いているところでした。こちらに気がついた千瑛には、以前のような剣幕はなく、冷静に声をかけてきました。

千瑛は自分の絵に足りない何かを探しているようです。そこへ斎藤がやってきました。そして、千瑛と全く同じレイアウトの絵を目の前で描き始めました。全く無駄のない動きで、出来上がった絵はまるで写真やCGかのように写実的でした。それから千瑛と自身の絵を並べ、千瑛のミスを的確に指摘します。千瑛は自身のミスを恥じているようでしたが、霜介にはそれがどこか納得のいかない出来事でした。

3回目の授業では春蘭を習いました。「蘭に始まり、蘭に終わる」というくらい、その絵には水墨画のすべてが詰まっていると言います。霜介は湖山先生が描いてくれた様子を、心の中にあるガラスの部屋に映して細かい動きまで読み取ろうとします。そしてひたすらその動きを真似てその日の授業が終わりました。授業の終わりに、湖山先生は1本の筆を霜介に与えました。これで霜介は自宅でも水墨画の練習ができるようになったのです。

練習の後、千瑛が入れてくれたお茶と、最中をおやつに3人で机を囲みます。そこで、霜介は少し前からお願いしたかったことを湖山先生と千瑛に頼みます。

霜介の大学で行われる文化祭で、千瑛の作品を飾らせてほしいというのです。千瑛の絵は華やかで、それを描いたのが同世代というのはいい刺激になると霜介は言います。湖山先生も了承し、千瑛も霜介が出展するのであればという条件付きで了承してくれるのでした。そして、湖山先生は自分の授業と追加で千瑛にも水墨画を習うように言います。2人はライバルであり、先輩と後輩。先輩が後輩を指導することは何も不思議ではありません。そして教えることは千瑛にとっても得るものがあるのです。

しかし、この話には裏がありました。実は、展示会の準備で途中から応援に来てくれた生徒たちは、古前が美女と合コンをセッティングする…という言葉につられてやってきたのでした。その約束を果たすためには、合コンに千瑛を呼ぶ必要があると古前は言うのです。

霜介はもちろん最初は断りますが、古前と途中で話に交じってきた川岸にも押され、この作戦を実行したのでした。はたして、文化祭は、水墨画の勝負は、そして霜介はどうなってしまうのか…。

好きな台詞

ここまでは1章のあらすじについて綴りました。ここまででもたくさんの素敵な台詞や描写が出てきますが、本作は1冊の中でも書き留めておきたい!と思う台詞がとにかくたくさん出てきます。

水墨画への思いや、心の中に広がる世界について…。そのいくつかをここでも書き留めておきたいと思います。

「なぁ、たとえば古前君なら食欲がないときはどうする?」

「甘いものを食べる」

いまいち意味が分からなかった。なんでそんな乙女な答えが返ってくるんだ?

「どうして食欲がないのに、甘いものを食べることになるんだ?」

「視点を変えるんだよ。食事というとたくさん食べなきゃいけないような気がする。でも甘いものだと、それほど食べなくても満足だという気もするし、ご褒美のような気もする。食べることは相変わらず楽しいことで、少しは元気になって、そのうえ、美味しいかもしれない」

(P56より引用)

古前君っなんだかんだ いいやつなんですよね。なんか憎めないようというか、こんな友だち欲しかったなって思って。古前君、他にもいいセリフがあるんですけれど、これがなぜか一番印象に残りました。

「たとえば青山君は、水墨画の技術、と聞いて何を連想する?」

僕の脳裏に浮かんだのは、湖山先生の神業のような筆さばきや千瑛の激しく情熱的な手の動きだった。

「描いている姿かな」

「そう。それなの。私たち描き手にとってもそれは同じで、絵の技術というとまず間違いなく筆さばきのことを思うのよ。でも、お祖父ちゃんが青山君に一番最初に教えたのは、墨のすり方だったんでしょう?」

「まぁ、そうだね。あとは落書きを楽しむこと」

「おそらく、その二つには凄く大きな意味があったのよ。私たちは絵を描くことを求めすぎていて、画技ばかりに目が走ってしまっている。でも、今日の揮毫会で青山君がすった墨で絵を描き始めると、これまでにできなかったようなみずみずしく高度な表現ができた。当たり前すぎて、絵の巧みな人はもうすでに問題にもしないような場所をお祖父ちゃんはきちんと見抜いている。まるで、それが私の弱点だって知っていたみたいに。私はあんなふうに墨をすれない。描こうと意識するあまり、きっと強張った手で墨をすってしまう…。あんなことを思いつきもしなかった。今日は墨のびっくりするような変化に驚きながら描いたのよ。あんなに柔らかく画仙紙に墨が広がったことなんて今まで一度もなかった」

(P169より引用)

レベルが違いすぎるので、わかるわかる~と軽々しく言えるわけではないのですけれど。私も絵を描いたことはあるので、なんとなく理解できるなぁと思いました。一時期、絵を描きたいという気持ちより、上手に描かないと…とか、塗り方はこうでなければ…!みたいに思い悩んだことがありました。スランプというほどでもないのかもしれませんけれど、そう思うと楽しく書けなくなってしまうんですよね。

楽しいか楽しくないか、ではなく上手か下手かの世界で絵を描くと、とても疲れてしまったなぁ…と思い出しました。

「センスとか才能とかってあまり関係ないのですか?」

「少なくとも最初は、あまり関係がない。できるかどうかは分からない。でもとにかくやってみる。それだけだよ」

「とにかくやってみる…ですか」

どかで聞いたような言葉だ。

「才能やセンスなんて、絵を楽しんでいるかどうかに比べればどうということもない」

「絵を楽しんでいるかどうか…」

水墨画でそれを気韻というんだよ。気韻生動を尊ぶといってね。気韻というのは、そうだね…筆致の雰囲気や絵の性質のこともいうが、もっと端的にいえば楽しんでいるかどうか、だよ」

(P173-174より引用)

気韻生動という言葉を初めて知りまして、この言葉良いなぁって思いまして。絵を描いていくうえで、この言葉をお守りみたいにしていきたいなぁ。

「必ずしも…」

湖山先生はまたそこでお茶を飲んだ。僕は言葉を待った。

「拙さが巧みさに劣るわけではないんだよ」

(P177より引用)

私の絵を描くうえで、大切にしたいなと思うのはこのあたり。決して私は絵が上手なわけではありません。描きたい絵が想像のまま描けているわけではありませんし、技術もありません。でも描いている絵は、楽しんで描きたいんですよね。

それでも誰かに何かを伝えられたらいいなぁって、絵を描くときには思います。ここをこうしたい、チャレンジしたい!みたいなの。自己満足といえばそうなのですけれど。

水墨というのはね、森羅万象を描く絵画だ」

斎藤さんと千瑛は、これ以上ないほど真剣に湖山先生の話を聞いていた。湖山先生もまた二人に語り掛けていた。

「森羅万象というのは、宇宙のことだ。宇宙とは確かに現象のことだ。現象とは、いまあるこの世界のありのままの現実ということだ。だがね…」

湖山先生はそこでため息をつくように息を放った。

「現象とは、外側にしかないものなのか?心の内側に宇宙はないのか?」

斎藤さんの眉が八の字に歪んでいた。千瑛は何を言われたのか分からないほど、言葉に迷っていた。僕にはようやく湖山先生が何を言おうとして、なぜ僕がここにいるのか、ほんの少しだけ分かるような気がしてきた。

「自分の心の内側を見ろ」

と、湖山先生は言っていたのだ。それを外の世界へと、外の現象へと、外の宇宙へと繋ぐ術が水墨画なのだ。

(P216より引用)

この著書を読んで、水墨画って凄いなぁ憧れを抱くようになったのはこの辺り。内なる声とか、そういったものを芸術に反映させることが美しいと私は感じるのです。たった1輪の花の絵を見て、楽しそうか、悲しそうか。それを技法ではなく、雰囲気から読み取る。そういう感覚って日本らしい感覚なんじゃないかなって思うんです。

「晴れ渡る青空を見て、空が泣いているように感じた」というような文面を、むかーし何かの絵本で観たんです。タイトルも覚えていませんけれど、こういう表面だけではない、その奥にあるものが水墨画の世界にあるのか…と思うと、憧れちゃいます。

「減筆とは端的に言えば描かないことです」

「描かないこと?」

「そうです、筆数を減らすこと。最小限の筆致で絵を描くことです。最小限の筆致で対象そのものの本質や生命感を表すこと、と言い換えてもよいかもしれません」

「ですが、それが最高の技術というのでは、描かないことが技術になってしまいます」

「そのとおりです。もちろん減筆そのものは技法ではありません。固有の筆法があるわけでも、これが減筆だと示せるものもありません。あえていうなら描かれなかった形こそ減筆といえるかもしれません。これはあくまで考え方であって、技術そのものではありません」

(P272より引用)

ミニマリストを目指すようになってから、埋めることよりも”余白”があることの重要性に気がつきました。それまでの私は、すべてを満たさなければならないという使命感でいっぱいで、まるで押しつぶされるように、それに負けないように、物事で自分や周囲を満たしました。

けれど、それだと身動きってできなくなるんです。精神的にも物理的にも。そうではなくて、減らしていいんだと気がついてから随分と楽になったことを思い出しました。

この減筆という技法はあくまで、絵の技法ですけれど、生きていくうえでも大切なことなのではないかなぁ。

僕はそのときになって、なぜ湖山先生が僕に、やってみることが大事だということや、自然であることがたいせつだということ、それから絵は絵空事だと言ったのか分かった気がした。

水墨画は確かに形を追うものではない、完成を目指すものでもない。

生きているその瞬間を描くことこそが、水墨画の本質なのだ。

自分がいまその場所に生きている瞬間の輝き、生命に対する深い共感、生きているその瞬間に感謝し賛美し、その喜びがある瞬間に筆致から伝わる。そのとき水墨画は完成する。

「心の内側に宇宙はないのか?」

というあの言葉は、こうした表現のための言葉だったのだ。描くこと、形作ることに慣れすぎてしまうことで絵師はいつの間にか「描くこと」の本質から少しずつ遠ざかってしまう、それが見えなくなってしまう。湖山先生は、もしかしたらそのことを伝えたかったのかもしれない。描くことは、こんなにも命と一緒にいることなのだ。

(P338より引用)

本を読んでいて、久々に”わからないけれどわかる”という感覚を持ちました。自分は経験をしたことがないことであったり、想像もできないこと。でもそれを脳で理性的に理解するというよりは、心で理解するみたいな。

これを説明しようと思うと、到底無理なんです。たとえ話もうまく出てこないですし。でも、「ほらほら、あの感覚…なんていえばいいのかなぁ。あれだよ、あれ」みたいな。私にもう少し語彙力があれば説明できたのかもしれません。想像として頭に浮かんだのは、よりよい暮らしの中で丁寧に味噌やぬか漬けを漬けるような、そんなシーンがうかびましたよ。

映画との違い

実はこの「線は、僕を描く」は映画化もされておりまして。以前、こちらでも綴ったことのある作品です。

yu1-simplist.hatenablog.com

こうして読み返してみると、結構改変されているなぁということに気がつきます。湖山先生、原作では頭髪は随分とつるつるなご様子です。やっぱり個人的には原作が好きです。なにより個人的に推してる斎藤湖栖先生は映画では出てこないんですもの…!千瑛さんが斎藤さん役も兼ねている…といったところでしょうか。続編では、斎藤さんが結構主要キャラクターになるので、続編の映画化は難しいかも?なんて思ったり。

あと、このキャラクターチェンジはやめてほしかったなぁと思ったのが、藤堂翠山先生。湖山と並ぶ、水墨画界の巨匠です。原作のイメージとしては高倉健さんのような男性。渋くて、言葉すくなで、背中で語るようなかっこいい漢でした。映画では、女性ですし、ちょっといけ好かない性格の悪そうな感じになっていたのが、安っぽく見えてなりません。

小さいところだと、翠山先生のところにはお孫さん茜さんという女性がいるのですが、原作では西濱さんがデレデレしているお相手はこの方です。映画では、牧場の女性とかだったような。大きな差ではないですが、微妙な改変があるようです。

尺の問題で仕方がないですが、翠山先生と斎藤さんに関しては、ぐぬぬ…といったところですね。

逆に増えたキャラクターだと、映画では霜介君に妹さんがいるのですが原作では両親との3人家族でした。妹さんを出したことで、霜介君に罪ができてしまっている…というのがなんとなく腑に落ちません。原作では家族の唐突の死の原因に、自分はどこまでも関与していない。あのときあぁしていれば、みたいな後悔ができない…というのは結構大きなところだと思います。

映画版では、その辺りが分かりやすく、ある意味チープに変更されているのが勿体ないなぁなんて思います。流星くんや演者さんがよかっただけにね。

感想

「線は、僕を描く」を読んだのは、実は2回目です。続編を読む前に、いろいろと再確認のために再読したのですけれど、結構忘れているところがありました。読み直しておいてよかった。

2回読んでも、水墨画の奥深さに圧倒されます。文章の意味としては理解できていますけれど、きちんと水墨画を理解できたのかといわれると、不十分のような気がします。自分の中の奥行や、水彩画への理解度が足りていないようです。まだまだ解像度が低いですね。

それでも世界観やの美しさや、心の機微を1冊を通して触れて、心地よい読了感であることは間違いないです。

もちろんこの「線は、僕を描く」だけでも物語はキリのいいところまで描かれていますし、充分楽しめます。しかしながら、続編も読んだ今となっては、これは2冊で1冊だったのだなと。ですので、もし興味を持たれた方は、両方読了されることをお勧めいたします❀

よもやま話 

水墨画には四君子と呼ばれる画題があり、蘭・竹・梅・菊の4つ。初心者はまずこの画題をマスターすべく頑張るんだそうです。そして、このそれぞれが君子として例えられているそうです。

「君子ですか?あの立派な人とか、凄い人とかいう意味の?」

「そうそう。よく知っているね。四君子はそれぞれが君子の理想の姿そのものを描いてもいるんだ。たとえば、竹ならまっすぐスタッと立っていて、折れずに柔軟というところが君子の姿、それと君子の怒りの姿だという説もある」

「怒りですか?

「そう。理を曲げず、ってことだと思うんだけど、どうだろう?高潔さといえばそうかな」

「そう言われてみれば、そのような感じが…」

「そうでしょ?で、梅は冬のいちばん厳しいときにいちばん最初に花を咲かせるので、厳しいときを耐え抜きながら、花を咲かせるというところでそれも理想の姿。君子の強さと言い換えてもいいかもしれない。菊は、これは初心者の卒業画題だけれど、これも梅に少し似ていて、厳しい寒さの中でも薫り高く咲いているところが君子の姿に似つかわしいとされている。こちらは耐える姿というよりも、どういうときも品格を失わないってことだと思う」

「では、春蘭は?」

「お待ちかねだね。春蘭は深山幽谷に孤高に咲く姿が君子の理想の姿、または風格を表すということや、たぶん俗にまみれない姿というのがあるんだと思う。言葉では簡単に言い尽くせないところがあるけれど、水墨をやる絵師の心そのものって思ってもいいかもね」

(P199-200より引用)

水墨画に触れたことがあるわけではないので、インターネットでそれぞれの絵を見てみて、この言葉に当てはめてみました。こういう植物の絵の雰囲気を人に例える、理想とするというのは、昔からされていることだったのかぁと不思議な気持ちになりました。

だからと、描いてみたい!と気軽に思えるわけもなく。ですが、一度水彩画をゆっくり見てみたいと思います。見方が変わったかもしれません。

「たった一筆でさえ美しくあるように」

(P287より引用)

次に、絵を描くときは心にとめて描いてみたいと思います。

そういえば、来年の大河「べらぼう」には浮世絵師や作家がたくさん出てくる…とのこと。興味深い内容ですから、普段全くTVを見ないのですけれど、来年は見てみようかなぁと思っています。

たまたまですけれど、「べらぼう」の主演をされるのは、映画「線は、僕を描く」の主演をされた横浜流星さん。これはご縁なのかなぁなんて思ったり。今から楽しみですね。

 

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