SIMPLE

シンプリストになりたいのです

本・これだけで、幸せ

相も変わらず、小川糸さんがマイブームの私。他の本を読んでいても、小川糸さんに関係する本を求めてしまい、全然進みません。

ふと、思い出したのですけれど。昔、ほんの一時期だけですけれど、小説家を目指したことがあったんです。高校生くらいから大学生くらいの数年間だったように記憶しています。当時、二次創作的なものの延長で小説を書いて、HPにあげていたんです。

けれど映画『耳をすませば』で主人公の雫ちゃんが「書きたいだけじゃダメなんだ」「勉強しなくちゃダメなんだ」と言っていましたけれど、正にそれです。書きたいと思ってもそれを表現するには、書く人間がそれを言語化できるくらい理解していなければなりません。語彙力も知識も教養も私には足りなかったのです。

今はこうしてBLOGというかたちで文章を綴っていますが、そう考えると私は昔から文章を書くのが好きなのかな?と思いました。当時書いていた小説も殆ど処分してしまいましたけれど、実はいくつか残っていて、自分で読むには恥ずかしいけれど、黒歴史にしてしまうほど憎んではいないという現状です。改めて勉強しながら書き直すというのも面白いかもしれないなぁ…需要はありませんけれど。笑

そんな懐かしい出来事を思い出させてくれた一冊を紹介します。

これだけで、幸せ

小川糸さんは日常を大切に生きる達人、だから身近にあるものにこそ、こだわります。それが「幸せ」の基本だから。

40代になってわかった、一生添い遂げられるものを、時間をかけて探す楽しみ。心地よい暮らしのために到達した、「少なく贅沢に」というキーワード。持ちものの数を減らすためのもの選びの工夫。それらに則って選ばれた、とっておきの道具や食材、家具などの品々を、ご紹介します。

(Amazonより引用)

今回も気になったフレーズを引用しつつ、感想を綴っていきたいと思います。

一生添い遂げられるもの

使う頻度が高い生活道具ほど、「使いやすい」と感じられる心地よさにこだわりたい。そう思って、少しでも不便や不具合を感じると「もっと気持ちよく使えるもの」を探すことが私の習慣になりました。

これで終わり、と言い切れる選択ができたら、その後はずっと買い換えなくていい。一生を添い遂げられるものに出合うことは、その後の人生を楽にしてくれるものだと感じています。

このように、「一生添い遂げられるもの」として出合い、20年近く使っている道具は他にもあります。

(P10 「第一章/これだけで、幸せな「ものづきあい」12カ条」より引用)

ここでも、もう何度も触れてきた話題ではありますけれど、長く愛せるものに囲まれて生活したいというおはなし。以前お話した かや織 掛けふきん や 曲げわっぱ。箸置きなんかもそうですよね。私の生活はここ数年で少しずつ、そういったものを増やしてきました。これからも少しずつ、そういったものを増やしていって、いつかは「もう何十年もつかっているんですよぉ~」なんて言いながら、我が家のかわいい子たちを紹介したい。そんな野望があります。

長く愛して使ったものには魂が宿り、付喪神となります。できることならば、付喪神製造機になりたい…なんて思ったり。ただリペアしながら使ったものでも付喪神になれるのでしょうか…そこはちょっと疑問ですね。

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楽する道具

「小川さんって、ストイックな自然派生活主義者なのかと思っていたけれど、違うんですね」

はい、そうなのです。私、単に「楽でありたい」という効率主義者なのです。

(P26 「第一章/これだけで、幸せな「ものづきあい」12カ条」より引用)

食器洗浄機もお掃除ロボットも活躍している小川糸さんのご自宅。確かに意外だなぁという印象です。お掃除は箒と塵取りを使っていそうですし、食器洗いも手洗いされてそうなイメージでした。

苦手な家事を機械に任せることで生まれた時間を、執筆や心を休ませるためのティータイムなど、より時間をかけたいと思えることに費やせ、日々の快適さやゆとりにつながると思います。

無駄なものは極力家に入れたくない私ですが、時間を短縮し、力を抜くための便利なものは大歓迎。これからも積極的に活用していきたいと思っています。

(P27 「第一章/これだけで、幸せな「ものづきあい」12カ条」より引用)

私でいうとこれはハンディーチョッパーでしょうか。時間短縮というよりも、自分が苦手なことを外部委託するような感じで導入した、ハンディーチョッパー。玉葱を使う料理のときだけでなく、ポテサラや、スイートポテトなど様々な日に活用しています。玉葱のみじん切りから解放された爽快感ときたら…。たまに、不意打ちで攻撃されることもありますけれど、オーバーな表現ではなく純粋に料理の幅が広がったように思います。

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最近はやりのライフスタイルとして「丁寧に暮らす」という表現をよく見かけるようになりましたが、その意味するところはいくつものイメージが混在しているのかもしれません。

徹底的に自然素材にこだわりたい人、自分のゆとりを第一に考えたい人、好きな物に囲まれて暮らしたい人…。自分にとっての「丁寧に暮らす」ってどんなことなのか。一度考えてみると、取り入れるべき生活の工夫が見えてきそうな気がします。

(P30 「第一章/これだけで、幸せな「ものづきあい」12カ条」より引用)

人それぞれのライフスタイルは本来正解のないもの。いろんな書籍には、これこそが正解!のように書かれていますけれど、私は私なりの「暮らし」を探していきたいと思います。

直して使い切る

私と「もの」。一対一の関係性で紡がれてきた歴史は、ほかのものにはない。この世でただひとつのストーリー。だから、ますます愛着が増していきます。変な表現ですが、買った瞬間からいつか直すことを楽しみにしているくらい。

(P70 「第一章/これだけで、幸せな「ものづきあい」12カ条」より引用)

以前、金継ぎと染色について書いたことがありますが、私にとっても「もの」との付き合いは「直すこと」を考えることが多いです。

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使い込めば使い込むほど、傷や汚れは避けられません。気をつけていても破損してしまうことはありますし、摩耗することは避けられませんよね。大好きだから使うのに、使うから摩耗する…なんというジレンマでしょう。

私の場合はできるだけ使いたいなと思っています。直してあげられるものは直して、形を変えるかもしれないけれど傍に置いておきたいなぁと思います。そう考えると、私はものに対する執着は強いのかもしれません。手のかかる子ほどかわいいなんて言ったりしますが、ものにも同じことが言えて、リペアしてあげたものは愛着が生まれて余計に可愛くみえるものです。親ばかと言われても、我が家の子たちが一番可愛いなんて思ったり。

ですから、愛着をもって使うものほど、もし壊れてしまったとき、どうしようかというのは意識しています。何処で直してもらえるんだろう、自分でできるだろうか…とか。染色も金継ぎも一見、難しそうですけれど、やってみるとものすごく大変ということはありません。直して使い切る。大量消費社会ではありますが、そういったものが増えるといいなぁと思います。

部屋の灯り

寝室に天井照明はいらない。なぜなら、夜の間は基本的に横になっているだけ。必要な灯りといえば、手元や足元を照らす程度のものがあれば十分です。朝に太陽が昇るころにはブラインドの隙間から日光が差し込んで、室内は充分に明るくなります。

(P87 「第二章/『五感』を喜ばせる7つの秘訣」より引用)

今の部屋では間取り的に難しいのでできていないのですけれど、次に引っ越した先で可能そうであれば実践したいことの1つです。

私はどちらかというと音や光に対して過敏なのですけれど、夫は鈍感です。照明がいつもより明るい設定になっていても気が付きませんし、むしろ手当たり次第の電気を付けて行くような人です。眩しいから照明の明るさを落とすように言ったら落としてくれますし、リビングでゆっくりするときや、勉強するときはいいんですけれどね。寝るときくらいは、間接照明であったり、明るすぎない照明で過ごしたいです。

以前購入した月の間接照明ですけれど、何故か購入以降眠れるようになり、いまだにきちんと使えていません。いいことなんですけれど…。明るさ的には読書灯として問題ありませんので、いつか使う日が来たら、その時は活用してあげたいなと思います。そんなわけで、今は単なるオブジェと化しています。

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物語を書く人

冒頭にお話した、小説家になりたいと思った時期があったことを思い出したのはこのお話がきっかけでした。

小説家としてスタートを切らせてもらうまで、私は長居トンネルの中にいるような人生を歩んでいました。

物語を書く人になりたい、と思いながらもなかなか作品が採用されず、悔しい思いをする期間が長く続き、「これで最後だ」と思ってすべてを出しきったのが『食堂かたつむり』。ある編集者の目に留まって、そこからさらに2年ほどかけて世に出すことができ、多くの人に読んでいただけました。

(P95 「第二章/『五感』を喜ばせる7つの秘訣」より引用)

物語を書く人になりたい。そう思っていたあの頃。今はもう、キラキラとした感情はなくなってしまって、今は自分が何になりたいのかがよくわからない日々です。こうなりたいというのはあります。自立した女性になりたいとか、ダイエットを成功させて理想の自分像に近づきたいとか。そうではなくて、○○になりたい!といった夢が何だったのか解らなくなってしまったような感じです。年齢的なものなのでしょうか。でもいつまでも夢を持ち続ける人でいたかったな…と少し悲しくもあります。

そのときに私が強く感じたのは「目立ったことはしなくていい。ただ淡々と長く、小説を書き続けていきたい」という思いでした。

(P95 「第二章/『五感』を喜ばせる7つの秘訣」より引用)

長く続けていくことができる何か。私の何かは何だったんだろう。

おたがいの生き方を認め合う

ベルリンという街は、「自由をとことん謳歌しよう」という気概に満ちています。制限の多かった時代を知っているからこそ、「自由はいつでも手に入るものではない」という危機感が人々の心の底にいつもある。その危うさが、「自由」への愛着という色に街を染めているのだろうと想像します。

そして、その「自由」というのは決して好き勝手していいという意味合いではないのです。相手のこともおたがいに尊重して共存できるルールを作って以降というもの。個々の生き方を認め合うために、守るルールはしっかり守る。

(中略)

ルールさえ守れば、あとは自由。そのメリハリの利いた匙加減がとても心地いいのです。

(P114-115 「第三章/シンプルで豊かなモンゴル 自由を愛するベルリン」より引用)

自由とは少し違うかもしれませんが、ミニマリスト・シンプリストを意識して生活するようになって、気になるようになったことがあります。それは自分は不要だけれども、相手には必要なもの。我が家であれば、TVやバスタオル、時計です。これらは私にとっては不要なものですけれど、夫にとっては必要なものです。

私は最初、これらがいかに不要かというのを夫に訴えました。しかし、夫にとっては必要なものですから当然平行線です。そして私は何故こんな簡単なことが解らないのだろうかとストレスを感じるようになりました。このとき、私は夫の立場になって考えるという思慮が欠けていたのだと思います。夫も思考停止で必要と言っているのではなく、考えた結果必要と言っているのです。そうであれば、夫のものに対して私がとやかくいう筋合いはありません。

たまにSNSなどで、ミニマリスト・シンプリストを目指すパートナーに勝手に私物を処分された!と嘆いている方を見かけます。相手の方は、失礼ですが配慮に欠ける方なのだと私は思います。結婚していようが、親子であろうが、自分のものではないものを勝手に処分してはいけません。共有のものも当然、勝手に処分してはいけません。そんな当たり前のことが解っていない方が大勢いて、自分もそうなってしまいそうになっていたのかとちょっと怖くもなりました。これからも気をつけないといけません。

所有物に対するルールをきちんと設けて、そこから逸脱していたのであれば改善を促します。けれどルールを守ってくれているのであれば、あとは自由にしたらいいと思える。そんな余裕のある人でありたいです。

ちなみに我が家では、リビングに個人のものは置かない。個人のものは、各自のクローゼット、もしくは作業用デスクで管理する。掃除も各自でする。そこに置いてあるものに関しては基本的にお互い関与しない。というルールを設けています。今のところは、これでなんとか平穏が保たれています。自由にできるところは自由に、ルールを守るところは守る。メリハリを持って生活したいと思います。

まとめ

暮らしにまつわるものごとと、モンゴル・ベルリンへの思いが中心となった1冊。今回も写真が多く、より想像がしやすかったように思います。「よりよく暮らす」というライフスタイルにも様々あると触れましたが、当然小川糸さんの形と私の形は違います。そういった違いを見つける楽しさもありつつ、重なっているところを見つけるとやっぱり嬉しくなりつつ、そんな楽しみ方もできました。

小川糸さんのエッセイが続きましたので、そろそろ小説の方も読みたいなぁと思っておりますが。でも手当たり次第読みたい欲もありますのでどうなることやら。

次は何を読みましょうかねぇ。