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シンプリストになりたいのです

本・もうレシピ本はいらない

書店や図書館に行くと結構な数のレシピ本が置かれているのを目にします。多種多様な食材、調理器具、国籍にまつわるレシピの本があるのをみると、いかに人間が食というものを近くに置いているのかを再確認することができます。

レシピ本ってお持ちになったことはあるでしょうか?

実は私、レシピ本を買ったことがありません。私が料理をするようになったのが、たった3年ほど前。レシピ本を見て作るというよりは、YouTubeやネットで検索して作るというのが私の中では主流でした。ですので、レシピ本をもったことがないんです。それでも、料理をするにはレシピがあって、それに沿って作るものという先入観のようなものは変わりません。そんな私の常識を覆そうという一冊を紹介します。

もうレシピ本はいらない

『もうレシピ本はいらない 人生を救う最強の食卓』

著:稲垣えみ子さん

以前、群ようこさんの著書を拝読していた際に、土井善晴さんの本とともに紹介されていたのが『もうレシピ本はいらない』でした。紹介されていたのは、『たりる生活』だったか『たべる生活』だったかは失念してしまいましたが、料理に対するマインドを楽にしてくれる本があるということで読んでみようと思ったのです。

内容としては、『一汁一菜でいいという提案』の実践編のような一冊でした。

あくまで個人的な感想として…。内容は非常にわかりやすいです。ある食生活について、なぜその食生活がいいのか、具体的にどうするのかを膨らませ、ユーモラスに綴られています。「そのテーマで250頁以上も書けるのかしらん?」と疑問に思って読み始めてみましたが、最後まで「なるほど」と思える情報が詰まっていました。

けれども文体が非常に読みづらかったです。語尾がころころ変わるのが 気になって気になって…。ですます調であったのが、急に である調になったかと思えば、謎の効果音のような感嘆詞…。ライトなのは素敵だと思いますが、黙読でも喉がつっかえそうになりました。私も気をつけようと思います。

yu1-simplist.hatenablog.com

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著者である稲垣えみ子さんは50歳にして、自分の時間を優先するために、それまで勤めていた職場を辞めたそうです。安定した収入がなくなって不安かというとそうでもないんだとか。その理由は退職金や貯金があるからというだけでなく、自分が生きるためのコストを最低限まで抑えることができたから。

それでは自分が生きるためのコストをさげるとはどういうことなのか、具体的にどういったことをするのかを綴っていきましょう。

自由をもたらしたもの

私に自由をもたらしたのは、お金でもなく資産でもなく、特別な才能でもない。

「料理」だったんです。

料理ったって、なんちゃら風なんとかとか、そんな手の込んだものじゃないですよ。詳しい経緯は後述しますが、所有していた膨大なレシピ本はほとんど処分してしまいました。なぜならレシピ本なんぞ全く見るまでもないような単純料理、すなわちメシ・汁・漬物を日々繰り返し作るようになったからです。

で、今の食生活はこんな感じ。

調理時間は10分でチャチャッと。材料費は1食200円程度。特別なスキルもセンスも不要。ワンパターンだから「今日は何作ろう」と頭を悩ませることもなし。「作りおき」なんてする必要性ゼロ。

(P6~7より引用)

土井善晴さんの『一汁一菜でいいという提案』でも触れられていましたが、現代の食生活は毎日がハレの日の食卓のようです。ハレとは、お正月やお誕生日といった おめでたい日です。反対に、ごくごく普通の何もない日がケです。日々の食事は質素に一汁一菜で充分なはず。それなのに、まるでハレの日のような豪勢な食卓が求められる。そうすると、料理をすることにつかれてしまうし、食費がかかってしまいます。食事にもメリハリが大切なのです。

稲垣さんの食生活はそのケの食事を実践、継続し、その中でいかによくするか、極めていってらっしゃるような印象を受けました。

人が生きていくために必要なものなんて、実は全然大したことないってことに遅まきながら気づいてしまったわけです。そしてその「必要な物」は高いお金を出さなければ買えないものでもなんでもなくて、それを作り出す力、すなわち「料理をする力」は全部、自分の中にすでに備わっていた。

となれば、人生に何の怖いものがありましょう?

こうして私は50歳にして「稼がねば」という無間地獄からついに脱出したのです。自由を得たのです。

(P8~9より引用)

月々の生活費のなかで、大きく変動するのが食費なのではないでしょうか。外食が多くなったり、ちょっと贅沢な食材を購入したりするだけで、月末の食費は結構な額になります。それがほとんど変動することなく、毎月一定の金額になる。ある意味固定費のようになるというのは、とても安心感のあることだと思います。

もし、急に世帯主であるパートナーや両親と離れ離れになってしまっても、月にこれだけの額があれば当面生きていくことができる。そう思えるだけで、不安は随分と解消されそうです。

 

毎日が同じメニュー

朝食を嬉しそうにパンフレットにのせている旅館なんて見たことがない。だって旅館の朝食ってどこも代わり映えしないからね。パンフに載せたって「差別化」につながらないというわけだ。

でも、ふと思い返してみれば、誰もがそんな朝食を機嫌よく食べている。「なんだよ、また同じメニューかよ」なんて文句をいう人は見たことがありません。

(中略)

(質素な朝食は)何日だって喜んで同じものを食べていられる。

つまりはこういうことなんじゃないだろうか。豪華なものは飽きるのだ。つまりは、「美味しすぎるもの」は飽きるのである。

ということはですね、現代人が「毎日違うものを食べたい」と思い、だからこそ家族の台所を預かる人間が毎日違うものを作らねばと来る日も来る日も多大な努力を払い続けているのは、もしや結局のところ「美味しすぎるもの」を毎日毎日頑張ってつくり続けているからじゃないのだろうか?

(P37~38より引用)

おかずが毎日同じであれば、なんとなく「んー…飽きたな」と思います。けれど、不思議とご飯と汁物が毎日続いても、飽きたとは思いません。それは、おかずは調味料などの人工的な味で作られているのに対し、お米も味噌も自然のものだから。旅館の朝食は、人間にとって自然なメニューが中心だから飽きないと土井善晴さんの本で読みました。

毎日が同じメニューでも、こういったメニューであれば飽きがこないから苦痛になりません。そして毎日ほとんど変わり映えしなければ、何を作ろうと悩むこともありません。レシピ本をみて、食材を揃える必要もなく、いつも通りの買い物をすればいいのです。毎日のようにつくる料理であれば、どんどんとさじ加減を覚えて、計量する必要もなくなっていく…という寸法だそう。

祖母は若くして脳溢血で倒れ、亡くなるまで半身不随でした。それでも足を引きずりながら、当たり前に台所に立ち、利き手ではない左手で、同じような、そして美味しい料理を作り続けていた。

料理って本当はそういうものなんじゃないのかなと思うのです。

もしそうなら、私も、これから歳をとって体が不自由になっても、ボケても、地味な、いつも代わり映えのしない、当たり前の食事を作り続けることができるんじゃないか。

つまりは死ぬまでちゃんと生きていくことができるんじゃないか。そう思うと、毎日頑張って違う「ご馳走」を作り続けている場合じゃないという気がしてくるのです。

(P46~47より引用)

私は今、仕事をしていなくて専業主婦だから、夫が家で食べる夕食くらいはしっかり作らないと!と思って日々料理をしてきました。夫は「簡単でいいよ」と言ってくれるのですけれど、それでもなんだか気が引けてしまうんです。けれど、稲垣さんが仰るように長ーい長ーーい目で考えると、毎日がハレのような食卓ではなくて、もう少しケに寄った方がいいのではないかと感じました。少しずつ、少しずつでもそうしていけるといいなと思います。

ご飯

「メシ・汁・漬物」を食べ続けて生きると決めた以上、その美味しさを私は味わわねばならない。なにしろご飯が主役なのだから。私にはこれしかないのだから。覚悟を決めて、集中する。味がしないご飯の中へ中へ。

すると「薄い」として思っていなかったご飯の中に、無限の世界があることがわかってくる。そうご飯って、甘いのだ。

(中略)

こっちから取りに行かなきゃわからない甘さである。くらい洞窟に放り込まれ、何があるのか注意深く手探りで奥へ奥へと少しずつ進み、そこにひっそりと佇む甘さにようやく気づくのだ。

それはもはや宝物である。入り口で手招きする厚化粧(ケーキ)など比べ物にならない、洞窟の奥の奥にある貴重なダイアモンドである。

で、毎日メシに集中していると、そんな食べ方がすっかり身についてくる。すると、味にどんどん敏感になる。密かな美味しさを発見してはびっくりすことの繰り返しである。

(中略)

なんなんだこの無限の世界!まさに「気の持ちよう」だけで、我が食生活の楽しみは飛躍的に広がったのだ。

でもこれまでは、そんなことにはついぞ気づかなかった。ステーキの強烈な旨味、お菓子の魅惑的な甘さ。あれも食べたい、これも作りたい。ひたすらそういう美味を追い求めていたときは、そんな密やかな味はすっかり隠れてしまい、意識を向ける暇もきっかけもなかったのだ。

そう、大きな幸せは小さな幸せを見えなくするのである。そのうちに、見えないだけだということも忘れてしまう。小さな幸せなど全く存在しないかのように思い始める。そして、さらなる大きな幸せばかりを求めるようになる。

でも本当は、小さな幸せの中に無限の世界がどこまでも広がっているのだ。

(P84~87より引用)

昔、お笑い芸人の麒麟・田村さんが書かれた「ホームレス中学生」という本を読んだことがあります。あまりに貧しい生活だったため、お米をすぐに飲みこむのはもったいなく、ずっと口の中を咀嚼し続けていると、一瞬ふんわりと甘くなることに気が付いたそうです。それ以来、お兄さん、お姉さんとお米を食べるときはその甘さを追い求めるようになったんだとか。

ごくごく一般的な生活水準で育った私にとって、お米は味のしないものでした。あってもなくてもいいもの、なんだったらパンの方が味があるから嬉しいのにとさえ思っていました。それがいつの間にやら、パンどころか白米すら食べなくなりました。パンも白米もたまに食べると美味しいと思えるのですが、毎日だと重く感じるのです。

お米を食べないのかといわれるとそうではなくて、我が家は基本的に玄米を食べています。個人的には味や食感に別段問題はありません。というかそんなにかわる?と思ってしまうくらいです。

普段何気なく食べている玄米を甘いと感じたことは今のところありません。けれど、たまに食べるパンや白米は濃いな、甘いなと思うことはあります。私はまだ洞窟の中腹あたりにいて、奥の奥にある宝物までたどりつけていないようです。

稲垣さんはご飯・お味噌汁・お漬物という限られた3つと正面から向き合っているからそこまで発見することができたのでしょうね。すごいです。

味噌汁

実はあまり好きではないお味噌汁…。嫌いといわけではないですし、旅館の朝食で出されたお味噌汁はホッとあたたかな気持ちにさせてくれます。けれど家で毎日…となると、あまり好意的ではありません。

しかしながら夫は基本的に毎晩お味噌汁を飲みたいそうです。仕事から帰ってきて、お味噌汁を飲んで、あぁ帰ってきたと一息つくのだそうです。ONとOFFの切り替えみたいなものなのでしょうか。パスタなどのお味噌汁が合わなさそうなメインのとき以外は毎日、お味噌汁を添えるようにしています。

ただ一人分を作るとなると、分量を量るのが面倒なのです。そんなわけで最近は1杯分のお味噌汁の種が個包装されたものを買っています。夫が帰宅したら湯を沸かして、その間に味噌汁用の椀に味噌汁の種をブチューと絞り出し、乾燥わかめと小葱を入れて、お湯が沸いたらかけるだけ。

これでも充分に手抜きだな、と思っていたのですけれど上には上がいるようです。

「味噌」の「汁」。

そう。つまりは味噌に湯を混ぜて汁にすれば良い。これで立派な一品の完成。1分もあれば十分。

(P92より引用)

土井善晴さんの本でも味噌汁は味噌さえ溶かせばいいんですとありましたが、稲垣さんも同様のようです。味噌汁には味噌と出汁と具材を入れなくてはならないという固定概念がありましたが、確かに具材からも出汁は出ますからそんなに気にすることでもないのかもしれませんね。

このイナガキ流味噌汁のキモは「干し野菜」を入れるというところだと思います。

というか冷蔵庫のない我が家では、余った野菜を保存するメーンの手段が「干す」ことなので、ベランダでは常に野菜が待機している。なのでそこから適当にむんずと一掴みしてお椀に入れるってだけのことなんですけどね。

(P98-99より引用)

ついこの間実家に帰省した際に、母が果物を庭で干しているのを見てから、気になっていた「干し〇〇」。災害時に冷蔵庫が使えなくなったときや、万が一のときに保存しておける食料を…と思って、最近気になっていたんです。干すだけで、長持ちするって素晴らしいではありませんか。

残念ながら現在住んでいる賃貸が1階で、しかもベランダが道路に面しておりまして。排気ガスのことなどを考えると干すのは難しいかなと思っていたのです。でも、こんなに魅力を語られると、うずうずとしてしまいます。幸い、室内でも日当たりが良いところもあります。来年の年明けに実家に帰省したら、たぶん大量の檸檬をもらえると思うので、檸檬を干してみようか…。そういえば夫が以前梅干しを所望していたし…。干すための道具を見繕ってもいいのかもしれません。

ローフードという名の漬物

1人暮らしをしていた際に、無印良品で販売されていたぬか床をせっせと育てていたことがありました。主につけていたのは、大根と人参などの根菜類。物ぐさな私は、毎日かき混ぜることを忘れてしまう…という人間ですので、2~3日放置しても大丈夫そうな漬かりにくい根菜類を入れていました。根菜類だと歯ごたえもあって美味しいですし、またご飯にぬか漬けを乗せお湯をかけてお茶漬けにしても充分味があって美味しいんです。賞味期限が切れたと勘違いしてお別れしたのですけれど、そのままぬかを追加したりお世話をし続けていれば使っても良い物だったと後から知りました…。なんとも惜しいことをしました。

たくあん、ぬか漬け、キムチと漬けているものが好きな私。ぬか床に再チャレンジしたいと思いつつ、無印良品にいくたびに忘れてしまう…ということを繰り返しています。よくよく考えれば、ぬか床は無印良品じゃなくても手にすることができるんですけれどね。

稲垣さんもぬか漬けに魅了された一人なんだそう。

腸内環境という言葉がありますね。腸の中にはいわゆる善玉菌と、悪玉菌というものがうようよと住んでいると言われている。善玉菌が多いと食べ物は腐敗することなくスッキリと消化され、腸の中はいつもピカピカに綺麗である。で、女性誌などの情報によりますとですね、腸内環境はお肌の美しさと密接に関係があるらしい。つまり、腸の表面が美しい人は、お肌もつるりと美しい。

となれば、関心を持たずにはいられませんよね腸内環境!

(P148-149より引用)

近年「ローフード」というものが健康マニアの間で話題になっておりまして、野菜や果物を生で食べると、ビタミンのほか消化酵素代謝酵素を効果的に摂取できてダイエットにも最適なのだとか。しかしですね、パンとサラダを常食している欧米人ならともなく、日本人としては、生の野菜をどんどこ食べるってウサギじゃないんだから、日常食としてはさすがに無理無理と思っていたのですが、ふと考えてみたら…。

ぬか漬け、ローフードじゃないですか!

(P150 より引用)

ただ好きだからぬか漬けを作っていただけですけれど、こんな効果があるそうです。これはやはりぬか床に再チャレンジせねばなりません。

しかしいろいろ話すうちに、ある決定的な違いが明らかになったのです。それは、私のぬか床は冷蔵庫に入っているということ。

(P163より引用)

これ、私もやってしまっていました。冷蔵庫の結構なスペースを占領するぬか床さん。別段冷蔵庫から出して問題がないそうです…本当かな…不安だなと思うのですけれど、ぬか床の様子を見ながら住所を決めてあげるといいのかもしれませんね。

調味料・調理器具

調味料を「塩・醤油・味噌」で全然充分だと仰る稲垣さん。あと後程追加で酢が出てきますけれど、それにしても極々少数で調味料をまわしておられます。これは私も今、調味料を減らそうと試行錯誤しているの参考になりました。

とはいえ、4つだけというのは難しいのですけれど、めったに使わないような調味料は減らしていき、そういったものがなければ作れない料理は作らないとしてしまっても良いのかもしれません。

調理器具も同様で、少数精鋭だけ残し、随分とシンプルにされている様子。お食事は木のスプーン1つでまわしているそうな。さすがに、私はそれはできませんけれど、それくらいの思い切りは素晴らしいと思います。

まとめ

実際に「ご飯・味噌汁・漬物」の3つだけで食事をまわすというのは、現在の私には合わないと思うため実行することはありません。夫は家での食事が一番の楽しみだと言ってくれていますから、楽をしつつも、それなりのものを作っていきたい。私も夫もまだ30代ですから、多少の見栄も暫くは続けていこうと思います。けれど、ある程度落ち着いたら、一汁一菜に近づけていければと思います。

ですので、こういう暮らしもあるのだ、こう考えてもいいんだという点がとても参考になりました。また、今まで当たり前のように触れていたものに関して、もっともっと良いところがあるんだ、こんな一面もあるんだということがしれました。

今回取り上げた部分以外にも、旬の食材に関してや、それぞれにさらに細かく深く言及されているので、興味のある方は是非読んでみてほしいと思います。