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シンプリストになりたいのです

本・一汁一菜でいいという提案

一人暮らしをするようになってから料理を始めましたので、包丁をもってまだ3年くらいでしょうか。今でもあまり上手に器用にできている方ではありません。幸いなことに夫は文句を言うひとではありませんし、簡単でいいと言ってくれています。ありがたいなぁと思いながらも、なんとなく罪悪感のようなものがありました。どうしてだろうか、と考えてみたところ実家の母の影響があるのではないかと考えました。

実家の母は必ず父がいる日は、ご飯、汁物、漬物、そしておかずを2品出していたように記憶しています。それが当たり前の家庭で育ちましたので、今のご飯、汁物、あれば漬物、おかず1品というのは手抜きをしてしまっているような気がしてしまっているのかもしれません。

料理系のYouTubeのコメント欄を拝見していても、同様の悩みをもっている方は多くおられるようです。そんな悩みにぴったりな本を見つけてきましたので紹介したいと思います。

一汁一菜でよいという提案

「一汁一菜でよいという提案」著:土井善晴

いちばん大切なのは、一生懸命、生活すること。

一生懸命したことは、いちばん純粋なことであり、純粋であることは、もっとも美しく、尊いことです。

そんな一文から始まる本書は、毎日を一生懸命生きる人々に向けた一冊です。働きながら子育てをしているワーママ・ワーパパ、勉学とバイトを掛け持ちしながら頑張る学生さん、朝早くから残業して夜遅くまで働くサラリーマン・サラリーウーマン。皆さん外のことで忙しくてつい夕食は簡単なもので済ませてしまう。コンビニ弁当やファストフード、スーパーの総菜。専業主婦だって毎日献立を考えるは大変ですし、料理をしたくない!という理由はいくらでも見つけることができそうです。

でも頭ではわかっているんです。外食はお財布に優しくないし、コンビニやファストフードでは身体によくないし、栄養面はサプリメントで補えるのかもしれないけれどそれでも万全じゃないし、もし家族がいたら家族に申し訳ない気持ちになるし、だから料理をしたくない!というのと同じくらい、しなければいけない理由も見つけることができそうです。

そこで料理人である土井先生が本書で仰っているのが「一汁一菜でいいという提案」です。

一汁一菜とは

一汁一菜とは、ご飯・汁物・菜(おかず)の3品で完結するお食事です。そして菜も豪勢なおかずを作るのではなく、お漬物でいいそう。ですので、「ご飯、お味噌汁、お漬物」この三品で構成していくお食事ということですね。

この取り合わせは飽きることがありません。ご飯には季節によって栗や筍を入れたり、お味噌汁には魚やお肉をいれて豚汁にしたりと様々な具材をいれることができますから、どんな季節・状況でも対応できそうです。お味噌汁がおかずの役割も果たしているのですね。

一汁一菜とは、ただの「和食献立のすすめ」ではありません。一汁一菜という「システム」であり、「美学」であり、日本人としての「生き方」だと思います。

(P10より引用)

もちろん和食じゃなきゃだめというわけではなくて、ご飯がチャーハンでもいいですし、漬物がキムチでもいいそうです。和洋折衷でいいのです。あるものをでいいのです。これは結構汎用性の高い考え方だなと思います。また漬物はなかったら、なくても構わないとのことですので「ご飯とお味噌汁」さえあればOKだそうです。

あくまで「一汁一菜というスタイル(考え方)」もありますよ、これを基本にしましょうね、といったふうに捉えればよいと思います。「毎日三食 一汁一菜でOK」というのは、今までそうではない生活をしてきた私にとっては目から鱗が落ちるような感じです。そんな楽していいの?と思いますが、本書を通して良い理由がきちんと説明されています。

どうしてご飯、お味噌汁、お漬物なのか

食べ飽きないご飯とお味噌汁、漬物は、どれも人間が意図してつけた味ではありません。ご飯は、米を研いで、水加減して炊いただけ。日本で古くから作られてきた味噌は微生物が作り出したもので、人間の技術で合成したおいしさとは別物です。人間業ではないのです。

味噌や漬物が入ったカメの中には微生物が共存する生態系が生まれて、小さな大自然ができています。味噌や漬物という自然物は、人間の中にある自然、もしくは、自然の中に活かされる人間とであれば、無理なくつながることができるのです。

(P13より引用)

人間業ではなく、自然が作り上げたものですから、自然の一部である我々人間は飽きることがないのです。これはずーっと前の人類から経験してきたものが蓄積されている歴史なのです。ですのでそれは安らぎでもあり、身体そのものが喜ぶ、身体が求めている食べ物でもあるのです。

また人は食べたもの(摂取したもの)でできています。食べるもので体質が良くも悪くもなります。そのため、継続的に安定してよい食事をする必要があるのですね。

料理することの重要性

ご飯を食べることを「食事する」と簡単に言いますが、そもそも「食べる」ことは「食事」という営みの中にあることで、単に食べることだけが「食事」ではありません。食べるとなれば、家族のだれかが買い物をして材料を用意する。野菜を洗って下ごしらえをする。ご飯を炊いて、菜を煮て汁を作り、魚を焼いて盛る。そして食卓にその皿を並べるのです。このように、ものを食べるとなると、必ず一定の行動がともないます。その食べるための行為すべてを「食事」と言います。いきるためには身体を動かし、立ち上がり、手を働かせ、肉体を使って食べなければならない。ゆえに、「生きることの原点となる食事的行動には、様々な知能や技能を養う学習機能が組み込まれている」のです。それは、人間の根源的な生きる力となるものです。(P36より引用)

朝ご飯を作って、食べて、片付けて、お昼ご飯、夜ご飯と同様に。合間に食材を買出しに行って、冷蔵庫に入れて…。毎日これが繰り返されて、親から子へ伝えられて、子はまたその子へ伝わって…。ずーっと長い間続いてきた営みです。

現代ではコンビニ弁当やファストフード、デリバリーなどで賄えるようになりました。それによって食事は、全ての営みではなく「食べること」だけになってしまいました。

人間は食べるために必然であった行動〈働き〉を捨てることになります。「行動〈働き〉」と「食べる」の連動性がなくなれば、生きるための学習機能を失うことになり、行動して食べることが心を育てると考えれば、大いに心の発達やバランスを崩すことになってしまいます。

(P38より引用)

だからこそ、食事をつくること=料理をすることが必要となるわけですね。

ハレとケ

日本には、「ハレ」と「ケ」という概念があります。ハレは特別な状態、祭りごと。ケは日常です。日常の家庭料理は、いわばケの食事なのです。手間をかけないでよいそのケの料理に対して、ハレにはハレの料理があります。そもそも、両者の違いは「人間のためにつくる料理」と「神様のために作るお料理」という区別です。それは考え方も作り方も正反対になるのです。

(P26より引用)

当然ですけれど、ハレの日の料理とは神様に捧げる料理ですから、様々な工夫をして手間も時間も惜しまずに作った清らかで美しいものです。

対してケの日常の料理はシンプルでいいのです。素材に無駄な手はかけず、素材そのものを楽しめばいいのです。

ですからハレの日の料理とケの日の料理は全くの別物なのです。しかし今の我々は、そのハレの料理を日常にもってきてしまっているのですね。

人間はちゃんと知っていたのです。ハレとケを区別して、ケの日常はつつましく、必要最低限の食事で暮らすことが心身ともに心地よいことを、身体は知っていたはずです。…(中略)…人間が物事に立ち向かっているとき、そうしなければ力が弱まります。食べることは常に喜びですから、度を越せば体調を崩し、気の緩みにつながる。ケとハレにけじめをつけることで、そうならぬよう実践していたのです。

(P140より引用)

一汁一菜のメリット

・工夫次第で栄養を充分とることができる

・「普通においしい」 から安心して食べることができる(家庭料理は必ずしもおいしくなくてもいい、おいしくない日もあっていい)

・飽きない(人工的な食べてすぐ美味しい!と感じる味にはすぐ飽きる)

・料理の時間・手間が減る

・準備も楽になる

・元気で健康でいられる伝統的な食文化

・自然とつながることができる→風土、季節

・毎日の食事をきちんとすることができる

・料理をつくる姿が家族への安心感につながる

・食育になる

・持続可能である

などなど。他にもたくさんのメリットがあります。

まとめ

毎日の食事を一汁一菜にしてみることの意味や、その背景がよくわかる一冊でした。本書は他にも、季節ごとの食材、お味噌汁にどんなものをいれるか、どうして今の食文化につながったのか…など、興味深いことがたくさん書かれていました。

仰っていることは「一汁一菜でいいんだよ」というとてもシンプルなことなのに、とても奥が深いのだな…と感じましたね。また私は生まれも育ちも日本の日本人ですが和食についてあまりわかっていないのだなぁ…と気付かされました。

我が家のお食事もいま考えるとハレによっていたのかなと思います。たくさんの調味料で美味しい味付けにすることが正解なのだと思っていました。勿論それが間違いなのではなくて、もうすこし柔軟になってみてもよいのだな…と。我が家の食事も今より少し、シンプルにしていきたいと思います。

これはとある日のお昼ごはん。鶏そぼろと炒り卵の二色丼とお吸い物。この時は手抜きだなぁ…と思いましたが、こういった食事も悪くないのだと今は思えます。

 

ここからは本書とは少し違ったお話。

本書P179に「いい手」というのが出てきます。田舎のおばあちゃんたちが集まって、畑から掘ってきた野菜を洗っているような紹介がありました。ふと思い出したのは、ジブリ映画「風の谷のナウシカ」でナウシカがお付きの老人たちに同じようなことを言うんですね。きれいだったか、いいだったかは失念しましたが、そんな表現です。とても良いなぁってほっこりしたんですよね。

たまたま最近マイブームとなっている「舞妓さんちのまかないさん」という漫画がありまして。以前スパイスカレーをつくるきっかけになった作品です。

yu1-simplist.hatenablog.com

今もサンデーうぇぶりで楽しく拝見している作品です。この第270話の「同じ手」というお話にシンクロニシティを感じました。お裁縫も上手にできず何をやっても上手にはできないけれど、料理をすると皆が喜んでくれたというおばあちゃんの手。その手はおばあちゃんのお母さんと同じ手でした。そして主人公であるキヨちゃんの手もおばあちゃんと同じ手をしている…といったようなお話なんですけれど。いやぁ、感涙したんですけどね。素敵な表現だなぁって。

料理を好きになりたい、というより「料理を大切にしたい」という思いが深まっている今日この頃です。実家にいた頃や、一人暮らしをしていたころはあまりそういったことを思わなかったので、自分の中では少しずつですが大きな変化となってきているように感じます。誰かに振る舞うようになったからかな?そうだといいな、なんてのんびりと考えている今日この頃です。

さて、今晩の晩御飯は何がいいでしょうかね。