2025年中に達成したい目標の1つに福島県の会津エリアに行くというものがあります。中学生の頃に新選組の斎藤一さんに興味を持って以来、ずっといつか行ってみたいなぁと思っていた場所です。ただ折角、会津まで行くなら新選組や会津に何があったのかをある程度理解した上で行きたいのです。そんな想いからズルズルと先延ばししておりました。
さすがにそろそろ重い腰を上げなくては…と昨年、NHKの大河ドラマで放映されていた『新選組!』を拝見しました。かなり新選組が美化されてはいましたが、新選組がどのようにして時代や人々の策略に翻弄されたのかを知ることができました。
しかしながら『新選組!』は近藤勇の最期までを描いた作品ですので、江戸→京都→江戸のお話し。そして正月スペシャルで土方歳三の最期の一日が描かれましたが、そちらは函館がメインです。
どちらの作品も、新選組にとって結構重要な場所である会津が全然描かれていないのです!本当にちら~っと出てきただけなんです。
そんなわけで、これまた大河ドラマである『八重の桜』をみました❀今回から、感想をネタバレ交えて綴っていきたいと思います。
『八重の桜』 は ざっくり どんなお話しか
『八重の桜』の主人公は八重という女性で、綾瀬はるかさんが演じています。八重は 1845年、会津の砲術師範であった山本家に生まれ、会津の地で育ちます。
彼女の兄 覚馬は頭脳明晰で、22歳の頃に江戸にわたり、勝海舟らと共に佐久間象山の塾で学びます。その後、28歳で会津に戻り、蘭学所を開いたりと会津のために尽力しますが、なかなか古き考えの残る会津では受け入れられません。その後、1862年 京都守護職に会津藩主である松平容保公が付くことになり、覚馬も京都にのぼるのでした。
時代は流れ、1868年。幕府を守るために勤めていた会津藩は朝敵と言われる立場になってしまいました。そして、会津戦争が始めるのです。23歳の八重も会津を守るために立ち上がります。他の女性が婦女隊を組み刀や薙刀で迎え撃とうとするなか、八重は鉄砲で戦うべきと考え、断髪・男装し、スペンサー銃を構えるのでした。
会津戦争の数年後、八重は訳あって京都へと住まいを移ることになりました。そして様々な知識を身につけていき、同志社創立者となる新島襄と出会い、共に学校運営に携わっていくのでした。
そんな八重や覚馬たちの物語が『八重の桜』です。
第1話 ならぬことはならぬ
八重『お城はわたさぬ。ならぬことはならぬのです』
物語のはじまりは1868年の会津戦争の最中からはじまります。八重は男性たちに混ざってスペンサー銃を構え、新政府軍を迎え撃っているのです。彼女も会津のために戦っているようでした。
時は変わって1851年。八重がまだ5~6歳くらいの頃まで遡ります。山本家の娘の八重は男勝りで負けん気が強く、両親も手を焼いています。そんな八重は文武に秀でた兄・覚馬を慕っています。
覚馬は会津にゲベールという(オランダの)銃を持ちかえってきました。そして山本家にある銃の練習場(角場)で、父・権八にそのすばらしさを披露しているようです。華麗に的を撃ちぬく姿を見て、八重も砲術に強く興味を持つようになります。
しかし、女である八重が銃を握らせてもらえるはずもありません。両親の反対もあり、八重はこっそりと砲術の本を盗み読んだり、練習をするようになるのでした。
この年(1851年)、八重は初めて会津の地にお国入りした松平容保公の姿を目にしていました。そして追鳥狩の際に事件がおきます。見晴らしのいい場所で見ようと木に登った八重は、あやまって履いていた草履を地面に落としてしまいます。その草履のせいで、あと一歩というところで西郷頼母は鳥を捕まえることができなかったのです。当然、頼母はひどく八重を叱りつけます。そのことに気が付いた覚馬も八重を叱り、その上で頼母に許しを請うのでした。
そこに容保公がやってきます。話を聞き、「木登りは子どもの戦」であることや逃げなかった八重は決して卑怯な振る舞いはしていないと頼母を諭し、なんとか事なきをえたのでした。そしてその晩、八重は覚馬に改めて砲術を学ぶことを強く願うのでした。
八重『私のこと”武士らしい”と、”卑怯でねぇ”とおおせになった。私、お役に立ちてぇ。いつか強くなって、若殿様(容保公)に御恩さ返してぇ。兄様、私、鉄砲さやりてぇ』
覚馬「おぉ。わかった」
容保『美しい眺めだ』
頼母「はい。会津二十三万石、実りの秋にございます」
『二十三万石か』
「はい」
『背負っていけるのだろうか』
「何を仰せです」
『わしは十二の歳に美濃の高須家より参った者だ。この身に会津の血は流れておらぬ。そのわしが、この国のよき主となれるのか…』
「おそれながら若殿お一人ではなりがたきことと存じまする。さればこそ、藩主がお仕えいたしまする。お家第一に奉公をいたし、武芸を極め、万が一 ご主君にあやまちあったときには、命を賭してお諫めもいたしまする。代々そうして生きてまいりました。これからも毫もかわることはございますまい。われらが藩主がお支え申し上げます。殿、何卒気弱なお言葉 仰せになったりなされませぬよう」
『ならぬことは、ならぬか』
「はい。ならぬことはならぬもんです」
数日後、会津に吉田虎次郎と宮部鼎蔵いう男がやってきました。虎次郎は後の吉田松陰です。東北地方を遊学しており、会津の学校である日新館にやってきたのだといいます。そして覚馬は2人とこれからの日本について語明かすのでした。
時が流れて1853年6月。浦賀にペリーが来航します。覚馬はまたも江戸にでることになります。そこで彼は、佐久間象山が開いている塾の門を叩きます。しかしマナーがなっていないことを理由に一度は跳ねのけられてしまいます。それでも覚馬はなかなか諦めません。
佐久間象山『これがなんだかわかるか?テレガーフだ』
川崎尚之助「電信機のことですよ。オランダの百科辞書を読んで先生がご自身の手でおつくりになったものです。」
『日本ではただ一人、私がつくった。仕組みを知り、技術を知れば、西洋人にできて我々日本人につくれぬことはない。黒船もしかりだ』
佐久間象山は覚馬よりはるか先が見えているようです。覚馬はそのことにやっと気が付いたのでした。
象山『大筒だけをうちたい者は、他所へまわれ』
覚馬「そうか、たりねぇのはそれか。大筒の数より打ち方よりその元になる知識。いや異国を知る目。先生、某 心得違いをしておりやした。出直して改めて蘭学の御指南をお願いにあがりやす」
『どこへ行く?講義がはじまるぜ』
「え…?」
『入門を許す』
覚馬は象山の塾で様々なことを学び、そして多くの出会いを経験します。吉田虎次郎(松陰)と再会し、勝海舟や西郷隆盛と出会います。更に親しくなった川崎尚之助と覚馬は黒船を見に行ったりと、更に世界を広げていくのでした。
そのころ会津にいる八重は、角場で枝を鉄砲に見立てて練習しているところを父に見つかって叱られてしまいます。しかし、それは八重を思ってのことでした。当時、戦場は男性の世界です。女性が立ち入れる場所ではありません。八重がどれだけ興味を持って、腕を上げたところで、その腕を披露できる場所なんてなかったのです。八重が将来、悲しい思いをしないでいいようにと思ってのことだったのでした。
第2話 やむにやまれぬ心
それまで鳥狩りに八重が同行することはありませんでしたが、この日は父・権八に連れられ八重も山にやってきました。自分が砲術を学ぶことを認めてくれるのかもと八重は内心喜んでいます。しかし、実際はそんなに甘くはありません。権八は、八重の目の前で獲物を仕留め、武器である鉄砲の恐ろしさを教えます。
権八「死んだか?」
八重『はい…』
「息の根とめたのは、鉄砲の玉だ。玉に急所さ射貫かれたら必ず死ぬ。鳥も獣も人間もだ。鉄砲は武器だ。殺生する道具だ。戦になれば、人さ 撃ち殺す。角場の窓の中(うち)は面白く見えるかもしんねぇ。だけんじょ、人さ撃ちぬくということは、即ち人間の心の蔵さ撃ちぬくっつうことだ。恐れることを知らず、形だけ真似ていてはいつか己の身が鉄砲に滅ぼされる。だから砲術やる者は学問と技術を磨かねばなんねぇ。何より、立派な武士でなければなんねぇ。わかんべ?」
『はい…』
「わしは山本家に婿にはいり、砲術の家の誉と重いお役目とを受け継いだ。次は覚馬と三郎(弟)が背負う。おなごのお前には到底背負いきれねぇ。二度と鉄砲の真似事はするな。いいな」
1854年のこと、会津藩主 松平容敬の養女であり、容保の義理の姉である照姫が離縁したため、江戸の会津藩邸に戻ってきました。容保と言葉を交わす照姫には何か隠した思いがありそうです。
一方、江戸にいる覚馬は黒船のことで頭がいっぱいです。乗り込みたいと思いますが、そうすると家族や会津藩に迷惑が掛かってしまいます。どうすればいいのか…と尚之助と考えている最中、虎次郎(松陰)が密航しようとしているのが見つかってしまいました。そして象山の塾も閉鎖されることになります。そして1856年、覚馬は会津の地に戻ってくることになるのでした。
覚馬は会津に戻ってきて久々に八重(11歳くらい)と再会します。なんと八重は米俵を軽々と担いでいるので、覚馬は驚いてしまいます。その夜、覚馬は父と角場で話をしていました。
権八「昔、叱って取り上げたけんじょ、親の目盗んで今でも続けてんのはわかってた。子どもの絵でも、勘所は掴んでる。一つも教えねぇのに、天性っつうもんだべ。やっぱり鉄砲の家の娘だ。八重には力もある。胆力でも男に負けねぇ。仕込んだらものになんべ。だけんじょ、それが何になんだ?今でさえ世間並から外れたおなごだ。このうえ鉄砲なぞやったら、もの笑いの種だ。へぼ ならまだ良い。良い腕になったら困るんだ」
覚馬は八重が今でも砲術を諦めていないと知ります。そして決意するのでした。あくる日、覚馬は八重を角場に呼びます。そして鉄砲を持たせるのです。鉄砲は木の枝よりもはるかに重量があります。
覚馬「重いか?」
八重『はい』
覚馬「それが鉄砲の重さだ。命のやり取りする武器の重さだ。にしは侍の娘だ。始めると決めたら極めるまで引くことは許さねぇ。弱音吐くことも許さねぇ。また極めたところで、誰が褒めてくれるということもねぇ。いやなら今すぐ銃を置け。覚悟はいいな?」
『はい!』
そして覚馬は八重に砲術を指南するようになるのでした。
第3話 蹴散らして前へ
1857年、会津に戻ってきた覚馬は日新館に西洋砲術指南所を開きます。そこで砲術について教えようとしますが、武士といえば刀や薙刀の世。砲術に興味のある生徒はほとんど現れません。さらに藩の中でも守旧派から反対され、なかなかうまくいかないのです。
そんなある日、八重はお気に入りの桜の木の上で砲術の本を読んでいました。虫に驚き、本を落としたところに一人の武士が通りかかり、本を拾ってくれました、その武士は、覚馬と共に江戸で学んでいた川崎尚之助でした。彼は覚馬を支えるためにやってきたのです。
象山「何かを始めようとすれば、何もしないやつらが必ず邪魔をする。蹴散らして前へ進め」
尚之助は謹慎中の象山から覚馬への言葉を伝えました。そのエールに、覚馬は砲術指南や、蘭学所の整備に気合が入ります。
尚之助はそのまま山本家の居候として住むことになりました。そのため八重が砲術を学ぶ姿を間近でみることになるのですが、つい彼の顔には笑みがこぼれます。八重は笑われていると勘違いし、尚之助を問い詰めますが八重が砲術を学ぶことが嬉しい事や、腕の良さを褒めたことで、わだかまりは解消するのでした。
その頃の会津藩には品川砲台の一部を警備するという任務がありました。品川砲台とは、江戸湾を埋め立てて造られた台場で、黒船来航をきっかけに幕府が築きました。それにより、会津藩の財政面は逼迫状態です。更に守旧派の反感を買ったままだというのに、覚馬はつい、ことを急ぎすぎてしまいます。西郷頼母にも忠告されていたと言うのに、上層部に逆らってしまい ついに禁足(謹慎処分)を命じられてしまうのです。
尚之助「どうしました?」
八重『私にはわかんねぇ。兄様も尚之助様も何も間違ってねぇのに、なして…なして罰を受けるがなし?』
「八重さん、ままならぬこともあるんですよ。世の中には。…頑固ですからね、会津は」
それからの覚馬はすべてにやる気をなくしてしまいました。権八もお家を潰すわけにはいきませんから、覚馬の代わりに弟の三郎を教育することを考え始めます。そんな覚馬の姿を八重は受け入れられるわけがありません。話しかけても適当な返事しか返さない覚馬に、わざと実弾演習することを告げます。当然、覚馬は適当にしか聞いていませんから、それを許可してしまいます。しかし、すぐにその意味に気が付いて角場までやってきます。
覚馬「八重、やめとけ」
八重『私は続けやす。人に笑われても、かまわねぇ。兄様がもう諦めると言っても、私は諦めねぇ。鉄砲を極めるまで、一人でも続けやす!」
そう言って、実弾入りの鉄砲を放ちます。そんな八重の姿に、考えを改めた覚馬は再び立ち上がることができたのでした。
第4話 妖霊星
1858年2月。覚馬の禁足がとかれることになりました。
その頃、日本や世界の情勢は日々大きく変化していました。イギリスとフランスが清を攻め(アロー戦争、第二次アヘン戦争とも)、いつ日本が狙われるかもわかりません。そのため、日本は急いで兵制改革をする必要がありました。覚馬も軍制改革を訴え、軍事取調役 兼 大砲頭取に抜擢されることになり、また尚之助も教授方就任がかないます。
頼母『もはや古き良きものを守るだけでは、立ち行かねぇ。かえるべきはかえていかねぇと。な?』
覚馬「はい」
その年の6月、日米修好通商条約が締結されました。この条約は、日本にとって不利な内容も含まれていましたが、大老の井伊直弼は、孝明天皇の許可を得ず(違勅)に条約を締結したのです。当然、水戸藩主・徳川斉昭ら一橋派にも無断です。また、アメリカに続き、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の条約(安政の五か国条約)を結ばれていきます。反対派が多く現れ、国内でも分断が大きくなっていくのでした。
覚馬はこの頃、 うら という妻を迎えることになり、八重はまるで自分のことのように喜びます。しかし、実際にやってきた うら はとても生真面目で控えめな人でした。八重のような大味な人からすると理解出来ないこともおおく、仲良くなれるかが不安です。また家のために尽くす うら の姿を見て、八重は結婚に対して一抹の不安を覚えるのでした。
第5話 松陰の遺言
1859年7月、これまで閑散とした土地であった横浜は黒船が来航したことをきっかけに、栄えるようになりました。海外からの商人たちが、横浜の街中を歩いている姿を多く見かけます。しかし、それに反対する日本人も多く存在し、海外から来た人々が殺されてしまう事件も起きるようになりました。
その頃、覚馬の妻 うらが赤子を身ごもりました。八重も八重の母の佐久も大変喜び、皆で覚馬に報告するタイミングを見計らいます。しかし突然、山本家に攘夷派の者たちが攻め入ってくるのです。八重や覚馬が応戦し、何とか攘夷志士たちを追い払うことができましたが、覚馬夫婦に悲劇が起こります。子を失ってしまったことで、山本家は悲しみに暮れるのでした。
江戸でも事件が続きます。覚馬とも交流があった吉田松陰が死罪となったのです。
至誠にして動かざる者は未だこれあらざるなり
この言葉が松陰の最期の言葉となりました。これは孟子の言葉であり、松陰が好んだ一節だと言われています。誠意をもって相手に尽くせば、動かなかった人などいないという意味です。そして彼の死は、かつての仲間である勝海舟にも届きます。
勝「何も殺すこたぁねぇ。殺すこたぁねぇんだよ!」
勝は松陰の死をひどく悲しむのでした。更にその言葉は覚馬にも伝わり、覚馬もその言葉に感化されるのでした。さらに翌年の1860年1月、勝は条約批准署を通すためワシントンへと旅立ちました。
それから間もない1860年3月、松平容保と親交の深かった井伊直弼が尊王攘夷派の怒りをかったことで暗殺されてしまいます。桜田門外の変をうけ、幕府による水戸討伐評定がなされます。異国の介入を危惧した会津は、幕府と水戸の仲裁を進言します。その場は解決しましたが、この進言が後の会津に大きな影響を与え、会津は時代の渦中に飲み込まれていくことになるのでした。
補足
- 年長者(としうえのひと)の言うことに背いてはなりませぬ
- 年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
- 嘘言(うそ)を言ふことはなりませぬ
- 卑怯な振舞をしてはなりませぬ
- 弱い者をいぢめてはなりませぬ
- 戸外で物を食べてはなりませぬ
- 戸外で婦人(おんな)と言葉を交へてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです
(URLより引用)
この掟が、良い役割を果たしたり、逆に会津を縛り付けたり…と物語の中で重要な役割を担っています。「ならぬことは、ならぬものです」という台詞も、ここから来ているのですね。
更に5話で出てきた彼岸獅子というお祭り。春のお彼岸の時期に行われることから 彼岸 獅子なのだそう。疫病退散のために獅子舞を奉納したのが由来とのことで、一度見てみたいなぁなんて思っています。そういえば獅子舞ってちゃんとみたことがないかも…?
よもやま話
今回は1~5話について綴ってみました。当然ながら同じ大河ドラマでも「新選組!」とは視点が異なっていて興味深かったです。
個人的な感想ですが、1~3話は面白かったです。4・5話は微妙でしょうか。4・5話は八重と覚馬を出さないと!っていうので、ストーリーとはそんなに関係のなさそうなシーンが多いように感じました。大きな事件がいくつもあり、それらを説明しないと物語がつながらない。けど、主人公たちも出さないと!みたいな苦悩はみてとれました。無理矢理絡めないといけないから大変ですよねぇ。
あと微妙といえば、気になったのがカメラワーク。なんかピントがおかしいとか、構図が微妙とかが多くて、勿体ないなぁという感じ。折角良いシーンなのに、なんでそこ映すの?なんでこの絵なの?みたいなのがあると、現実に引き戻されちゃうんです…。既に全話見終えているのですが、後半はカメラアングルが気になる…ということは無かったので、最初の方だけ微妙だったかなという印象です。きっとまだ現場に慣れてなかったのかな、なて。
私は会津についてはほとんど無知なのですが、こういう土地柄で、こういったイベントや風習があって というのも勉強になりました。補足でも挙げた彼岸獅子は一度見てみたいです。日を合わせるのは難しそうですけれど、きっと美しいんだろうなぁって。
このシーンを見たときは、こういう地域ならではのことも取り上げているんだな…くらいに見ていたのが、後々フラグになっているとは!八重の桜ではフラグを立てて後々回収するという演出が多かったです。私は一気にみたのでなんとか回収できました…なんとか。
勉強になったと言えば、アメリカの南北戦争で使われ、不要となった武器が日本に多くもたらされた ということ。日本にたくさんの武器が輸入されたことに、そんな経緯があったとは。よくよく考えれば、どうしてそんなに多くの武器があったのかとか、日本に輸入できたのか…とか不思議ですよね。そういう背景にまで考えが至れるようになりたいものです。
八重の桜は全50話、あと45話分ありますが、ゆっくりと綴っていきたいと思います!今日はこの辺で❀