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シンプリストになりたいのです

本・ファスト教養 の感想

ファスト〇〇という言葉を日常的に耳にするようになった昨今。誰でも聞いたことがある例をあげるとすれば、ファストファッションや、ファストフードでしょうか。「時短で」「お手軽に」そのジャンルに触れることができるため、とても人気があるように思います。

今回は「ファスト教養」についての本を読みましたので、解説や私見を交えて綴っていきたいと思います❀

昨今の教養とは?

書店で並べられている本のタイトルを流し読みしていると、『30代で身につけておくべき教養〇〇!』や『読むだけで身につく〇〇の教養』といった、教養をプッシュしたものをよく目にします。そういった本が1冊、2冊だけではなく、結構な冊数で置いてあるんです。ただその本をちらっと立ち読みしてみると教養は「ビジネスを円滑に進めるために必要なツール」のように定義されていることが多いようにも感じます。

ところで、突然ですが”教養のある人”と言われて頭に浮かぶ人ってどなたでしょう?

存命の方で考えると、私はスタジオジブリ宮崎駿監督や、エヴァンゲリオンなどで有名な株式会社ガイナックスの元(初代)代表取締役社長をされていた岡田斗司夫さんが浮かびます。人それぞれで想像する方は違うと思いますが、昨今ではその面々に特徴があるそうです。

ひろゆき中田敦彦カズレーザー、DaiGo、前澤友作堀江貴文

この面々は、二〇二二年の年末にエンターテインメントサイト「モデルプレス」で発表された「ビジネス・教養系YouTuber影響力トレンドランキング」の上位陣である。

ここまでの文字列に、何とも言えない居心地の悪さと日本の「教養」への不安を覚える人は少なくないのではないか。断定的な口調でたびたびネットを騒がせるインフルエンサーたちが発信するものは果たして教養なのか?教養とはビジネスの成功者によって語られる概念になったのか?そもそも、「ビジネス」と「教養」は同列に並べられるべきものなのか?

(本書P8より引用)

皆さん、一度は名前を耳にしたことがあるのではないでしょうか。YoutubeSNSなどでの発言が話題になる方や、普段TVに引っ張りだこな方と様々ですが、何かと世間を騒がせる方々であることに違いはなさそうです。

この『ファスト教養』という本では、昨今の「教養」について、その実態や、我々がどう接するべきなのかが書かれています。

最近の「教養が大事」論は、過去のものとはやや位相が異なっているのでないかと筆者は感じている。過去の「教養」という言葉と比較して、今の「教養」が特に色濃く帯びているもの。それは、ビジネスパーソンの「焦り」である。手っ取り早く何かを知りたい。それによってビジネスシーンのライバルに差をつけたい。そうしないと自分の市場価値が上がらない。成長できない。競争から脱落してしまう…。

今の「教養が大事」論は、そんな身も蓋もない欲求および切実な不安と密接に結びついている。

(P9-10より引用)

この「手っ取り早く情報を得たい」というのは、以前読んだ『映画を早送りで観る人たち』という本にも通じます。

yu1-simplist.hatenablog.com

私たちは現在、SNSなどで常にだれかと繋がることができる状態にあります。そのなかで重要になってくることは「人と人ととのネットワーク」です。そのネットワークの中では、良い意味でも悪い意味でも目立ってはいけません。

そして話題になった作品を見ていないということは、そのネットワークに入ることができないということです。そうするとグループから、更には社会から排除されてしまう可能性が出てきます。ですから限られた24時間という時間の中で、いかにコスパ・タイパよく情報を仕入れるかが重要となってくる…というお話がありました。

そういった背景も踏まえて、本書を読み進めていきたいと思います。

ビジネスシーンにおいての教養(リベラルアーツ)

ここで語られている教えやエピソードは、最近改めて聞かれることの多い「ビジネスシーンにおいて教養(リベラルアーツ)が大事」という言説の同意を端的に表していると言えるだろう。立場が上の人(つまりはビジネスにおける意思決定を司る人)の繰り出す話題についていくことができれば、自身の印象を良いものにすることができる。それによって、自分の仕事をスムーズに進められる。その先には、収入アップや出世といった結果が見えてくる…こういった流れを生み出すためのフックとして、「教養」の重要性が各所で説かれている。

(P17より引用)

「楽しいから」「気分転換できるから」ではなく「ビジネスに役立てられるから(つまり、お金儲けに役立つから)」という動機でいろいろな文化に触れる。その際自分自身がそれを好きかどうかは大事ではないし、だからこそ何かに深く没入するよりは大雑把に「全体」を知れればよい。そうやって手広い知識を持ってビジネスシーンをうまく渡り歩く人こそ、「現代における教養あるビジネスパーソン」である。着実に勢力を広げつつあるそんな考え方を、筆者は「ファスト教養」という言葉で定義する。

(P27より引用)

たとえば70~90年代に流行った楽曲や、映画、小説を知ること。自分がそのカルチャーが好きだから調べて、触れて、学ぶというわけではなく、上司や取引先に受けが良さそうだから学んでおく。これが現在を生きるビジネスパーソンの文化への触れ方のよう。

ただ好きでもない楽曲や映画に触れるのに、ただでさえ時間のないビジネスパーソンが時間を費やせるとは思えません。そこでそういった教養を、掻い摘んで重要なところだけ教えてくれるツールが人気になってくるわけですね。

そもそも「教養」ってなに?

ところで、そもそも「教養」とは何のことなのだろうか?単に言葉の定義を確認しているだけなのにも関わらず、実はこの問いに答えるのは非常に難しい。そしてその難しさこそが、昨今のファスト教養的な空間の広がりにつながっていると思われる。

(P28より引用)

言われてみると教養って何でしょう?私の手元にある『三省堂国語辞典(第八版)【小型版】』を見てみましょう。

きょうよう[教養]すぐれた行動力・理解力の成長を助けるものとしての、広い知識と豊かな心(が持てるように自分をきたえること)。

このように書かれていました。ただ知識があるだけではなく、豊かな心が必要ということがわかります。そうなってくると、ビジネスシーンで求められる教養って、果たして教養と呼べるのでしょうか?

よく使われる何となくいい意味を持つ言葉、ただしただ一つの明確な定義は実は存在しない。この厄介さこそ、シンプルな目的意識を持つファスト教養的な価値観が力を持ってしまう所以でもある。定義があいまいだからこそ、時代の空気と使う人によってその意味合いは大きく異なってくる。そして今は教養という言葉に「ビジネスと金儲けの役に立つ」といった意味合いが付与されつつある。

(P29より引用)

(前略)…ここには大きく二つの切り口があるように思える。一つ目は「精神的に豊かになる」「自分自身のなかで咀嚼して育て広げていく」「人生を豊かにする」「存在の深さを耕す」という言葉に象徴される。知識をじっくりと自分の中にしみこませることで生き方そのものを見直そうとするスタンス(ちなみに英語で「耕す」を表すcultivateには「才能・品性・習慣などを養う、磨く、洗練する」という意味もある)。

二つ目は「役に立つから、利益があるから知識を得ようとする、のではない」、言い換えると「学びたいからこそ学ぶ」とでも言うべき考え方。これらの考え方は、先ほど説明したファスト教養の特徴でもある「手早く大雑把に知りたい」「いかにお金儲けの役に立つかが大事」というスタンスとは完全に真逆の価値観を提唱している。いわば「古き良き教養」といったところだろうか。

こういった古き良き教養がファスト教養に押されつつある、というのが昨今の状況に対する見立てである。

(P30-31より引用)

「豊かな心を育む」ために名著を読んだとしても、本当に心が豊かになったのか、計測して証明することはできません。「成長」と言われても何をもって成長とするのかは人それぞれです。どれも身長や体重のように、明確な数字があるわけではありませんから。そういった、ある意味不確定なものを定義するとなると、その定義もどこかふわっとしてしまうのでしょうか。そして、ふわっとしているからこそ、何にでも応用ができてしまうのかもしれませんね。

ファスト教養的に、「読書」は「コスパ」が悪い

広い知識や心の豊かさが教養の土台だとして、それを得るにはどうすればいいでしょう?スクールで勉強する?それとも有識者の話を聞く?私が一番最初に浮かぶのは、やはり「本」で学ぶでしょうか。本は情報の集合体であり、その中には知識も、心の豊かさにつながる教訓も数多く掲載されています。

しかし、先ほども述べた通り、現代ではタイパ・コスパが非常に重要です。

もしも「この本を読んでも確実にあなたが欲しい答えが手に入るかどうかはわからない。載っているかもしれないし、載っていないかもしれない。ちなみに1冊読むのに2時間かかるよ」と言われたら、その本を読めますか?もし答えを手に入れられたとしても、その答えを得るのに2時間もかかってしまう。それはとてもタイパ・コスパが悪いですよね。趣味であれば良くても、ビジネスシーンではなかなか難しいと言えるのではないでしょうか。

今この瞬間に、手軽に、タイパよく、必要な情報を得たい。薬でいうのであれば、ゆっくりと身体の芯から効いてくる漢方薬ではなく、即効性のある特効薬が求められているわけです。

2時間かけて1冊の本を読むよりも、その2時間でコスパよく、より多くの情報を得ることに使用した方がいいわけです。

今では結婚することや家族を持つことまでもがコスパの良し悪しで語られる時代である。短期的な効率の良さがあらゆるものを評価するうえでの重要な基準となりつつある。

努力よりも運・ツキに左右されがちな世の中だから、地道に何かに取り組むスタンスは「コスパ」が悪い。それよりも、最小限の努力で最大限の成果を上げる方法を考えたい――理不尽な負荷を避けようとすること自体は決して悪いことではないのだが、こういった考え方は「物事をハックして成果を上げる」ことにこそ価値が置かれるファスト教養と非常に相性が良い。その点において、ファスト教養の拡大は今の社会のあり方を象徴する現象である。

最近の「教養の流行」が従来の「教養」とは異なる状況を指しているであろうことは、前述の「生活定点」における「知識・教養を高めるための読書を良くしている」という指標の低下にも表れている。先ほどと同じく二〇〇四年と二〇二〇年を比較した場合、二〇〇四年が二三.八パーセントで二〇二〇年が一七.九パーセント。この減少幅は「読書」そのものの減り方よりも大きく(二九.一パーセント→二六.六パーセント)、今の時代の教養が読書によって支えられているわけでは必ずしもなさそうだということを示している。地道な努力が「コスパ」の名の下に忌避される現状においては当然の結果とも言えるわけだが。

(P41-42より引用)

例え読書をする時間がさほど減少していなくても、人々は本から教養を得なくなっている。そうすると一体、どういったツール・方法で教養を身につけているのでしょうか?

コスパ」よく教養を身につける

「時代遅れの遅いメディア」であるがゆえに今の時代に求められる「教養」から切り離されかねない状況に陥りつつある読書という行為に対して、「あっという間に感覚に入る」「ビジュアルな情報」として効率重視のファスト教養との相性の良さを見せるのがYouTubeである。このメディアにはファスト教養を支える情報発信源がひしめき合っているわけだが…(略)

(P43より引用)

本1冊に2時間かかるとして。当然それを読んでいる時間は現代のビジネスパーソンにはありません。ですが、その本の内容が要約された動画であれば数分~数十分でみることができます。しかも音声・画像・動画がついて更にわかりやすくなっている動画も多く、通勤時間や隙間時間にチェックすることが可能です。Youtubeには、そういった本の要約や解説しているチャンネルがいくつもあります。かくいう私もいくつかの要約チャンネルを使用しています。本を選ぶときの参考にしたり、知識の間口を広げるために見ることが多いです。

冒頭に上げたインフルエンサーたちもYoutubeチャンネルを開設していて、情報や時勢について彼らなりの考えを発信しているのをよく目にします。ただそこで発信されている情報のファクトチェックはいったいどのくらいされているのでしょうか?本当にそこで得た情報は、教養になりえるのでしょうか?

教養のない人間は、脱落するしかないのか

ただこうしてみると、教養はあれば あるに越したことはないけれど、必ずしも必要なものなのでしょうか?そこまでして求めるものなのでしょうか? という疑問が湧いてきます。知識はあるともちろん便利ですけれど、なくても命が奪われるわけではありません。それでも何故、ビジネスパーソンは教養を追い求めるのでしょうか?

ここ数年、「VUCA時代」という言葉がビジネス書やビジネスパーソン向けのメディアでたびたび使われるようになってきた。「Volatility(変動制)」、「Uncertainty(不確実性)」、「Complexity(複雑性)、「Ambiguity(あいまいさ)」を意味する単語の頭文字をつなげたこの言葉は、今の時代がいかに不安定であるかを示す際に登場する。そして、多くの場合「そんな時代にビジネスパーソンとして対応するために必要なのは〇〇」と続く。

(P51より引用)

「VUCA時代にこそ教養が大事」という命題は、そこに含まれる言葉の定義を吟味しない限りにおいてはそのとおりと言って差し支えないだろう。テクノロジーの進化のスピードがどんどん速くなる中、ハウツーに拘泥していては時代の流れからあっという間に取り残される。また、新型コロナウィルスの流行を経て、社会のルールが一瞬で変わってしまう状況を多くの人たちが経験した。そんな状況下で、人間そのものへの理解を深めるための視点として教養に頼るのは筋の悪い話ではない。

ここで指摘したいのは、「この状況を過剰に煽るために教養が都合よく持ち出されているのではないか」という点である。

(P51-52より引用)

なるほど。この不安定な時代であるからこそ、広い知識と豊かな心を育み、自分自身という地盤を確かなものにしなければいけない!というのは理解できます。そして、筆者が指摘する、過剰な煽りも理解できます。

私たちは「〇〇がなくなるかもしれない」「××がないと困るよ」と言われると、それを過剰に求めますよね。それはトイレットペーパーであったり、米であったり様々ですが、誰しもが記憶に新しいのではないでしょうか?そしてそれは、物体に限らないいうことです。

(前略)…「教養が必要」という漠然としたメッセージと「教養を学ばないとやばい」というそこはかとない不安が増幅されていく。そこから生まれるのは「学びの楽しみ」や「自己成長への期待」といったポジティブな感情ではなく、「転落への恐怖」とでも言うべきネガティブなものである。

(P52より引用)

変化の大きい時代で「脱落」しないために教養を学ばなければならない。そんなスタンスに立った場合、「人生を豊かにする教養」を悠長に学んでいる暇はない。「教養が足りないとビジネスシーンで使えない」「使えない、つまりは稼げない」という恐怖に苛まれる中で、教養に触れる際にもビジネスにとって重要な「スピード感」「コスパ」が重視されるようになる。そういったビジネスパーソンのニーズと課題に対して過不足なくミートしているのがファスト教養、という構図である。

(P53より引用)

教養はないよりあった方がいいものという私の認識は、ビジネスパーソンにとっては「何を甘いことを!」と、お叱りを受けるかもしれません。

「これくらいのこと、知っておかないと、この業界じゃやっていけないよ」という知識ってどの業界にもあると思いますけれど、それがどんどんと多岐に渡っているようです。業界の専門知識ならいざ知れず、それは教養という広い知識にまで広がっているとは。

「この業界でやっていけない」というのは即ち、「使えないからいらない」「クビ」に繋がります。今、教養のあるなしは死活問題になっているということがよくわかりました。そしてビジネスパーソンは常に、そんなプレッシャーに押しつぶされないよう踏ん張っているのですね。

自己責任論

「教養」と呼ばれる領域の知識を大雑把に手早く仕入れて、「話を合わせるためのツール」としてビジネスシーンで活用する。そんな行動をとる背景には「成功への欲望」と「使えないという烙印を押されることへの恐怖」がある。こういった大きな流れを、ファスト教養という言葉で説明してきた。

このような考え方のベースにあるのは「効率的に成果をあげることこそ正義」という発想である。ゆえに反対側にあるとされるものについて向けられる視線は驚くほど冷たいものになる。

(P78より引用)

「社会における居場所の確保は各人の経済力によって実現される」という考え方がオーソライズされている現状は、ファスト教養の隆盛にも影響を及ぼしている可能性が高い。「お金を払えない人」が社会における存在意義を認めてもらえないのであれば、そのゾーンに「転落」しないためにも何とか自力でお金を稼がなくてはならない。そんな空気が蔓延する中で、前章で触れた「脅し」としての教養論はますます機能する。「教養がないあなたは、このままでは中間層から脱落します」というメッセージを、自信を持って跳ね返せる人は決して多くはないだろう。

「自力で金を稼ぐ人ほどえらい、社会において存在価値がある」「それができない人は存在価値がない(社会から支援を受けられなくても仕方ない)」。こういった考え方こそがファスト教養を支える土壌になっているのだとすると、そんな極端な文化はどのように形成され、どのようなプロセスで社会に広く内面化されるに至ったのだろうか。

(P80-81より引用)

メンタル的にあまり良い影響はないので、あまり見ないようにしているのですけれど。それでも時々SNSで話題になっている時事ネタを見ることがあります。ギスギスとした意見のなかに「それって自己責任ですよね」といった文言を目にすることがあります。自己責任や自助は完結で分かりやすい反面、それで片づけるのはちょっと乱暴な気がしてなりません。

更にこの自己責任論は「する・しない」だけでなく「できる・できない」にまで広がっているので困ったものです。「する・しない」は自分の意思ですが、「できる・できない」は自分の意思とは関係のないことです。

勉強を例にしますが、勉強をする・しないは確かに個人の自由です。しかし、勉強をしても理解できない人もいるのです。そこを考慮しないで「勉強してこなかったのは自己責任ですよね!」と責め立てているのを見ると、とても胸が痛くなります。一見すると「する・しない」の問題でも、よくよく調べてみると「できる・できない」の問題であったり環境による問題の可能性もありうるというのに。

更に自己責任論の次には「自分の身は自分で守れ」という価値観が続きます。もちろんこの考え方自体は必要な考えだと思います。しかしです。

たとえば、満員電車に露出の高い服装の女性がいたとします。もし、彼女が痴漢の被害にあったとします。どんな状況であろうと痴漢する人間が悪いに決まっているし、皆常識の範囲内で好きな服を着ればいいんです。でもきっと「そんな服装で満員電車に乗る女が悪い」みたいな意見が出てくるのではないでしょうか。

「自分の身は自分で守れ」という考えは、「自分の身を守れないやつは、守れないやつが悪い」と同じ土台に立っています。それでは守れなかった立場の人の状況は悪化するばかりですよね。

そういった考え方が「教養」にも押し付けられているとしたら、そりゃあファスト教養に頼りたくもなります。ビジネスにおいて、成功=お金が「正」です。「自分の金は自分で稼げ」そして「自分で稼げないやつが悪い」につながるのではないでしょうか。

背景にあるのは、「自己責任」と「自助」をベースにした「能書きをたれずに自力で金を稼いでいる人にこそ価値がある」という世の中の空気である。

ファスト教養の隆盛は、その対極にある「グッドオールドな教養」への「それって役にたつの?」つまりは「それっていくらお金を稼げるの?」という懐疑的な視線が存在するからこそ成立している。

(P119より引用)

こういった考え方は、できる側にばかりに目がいきますが、できない側を見ることができていないように感じます。一見すると華々しいその世界を目指すことは素晴らしい努力ですが、できなかったときはどうなってしまうのでしょうか。

ただ、「自分が生き残ること」にファーカスした努力は、周囲に向ける視線を冷淡なものにする。また、本来「学び」というものは「知れば知るほどわからないことが増える」という状態になるのが常であるにも関わらず、ファスト教養を取り巻く場所においてはどうしてもそういった空気を感じづらい。

(P124より引用)

知識を得ることで全能感を持ち、他者に対して優越感を覚えながらサバイブに対する自信を深める学びのあり方は、どうにも幼稚に感じられる。堀江や橋下がたびたび協調する「シンプルな決断」というのは、本来は何かを学べば学ぶほど難しくなってくるはずである。だが、ファスト教養的な世界観が浸透した先にあるのは、未知のものへの畏れや例外的な出来事への配慮、違う立場に対する想像力や思いやりが熟成されることなく、ビジネスシーンで求められる「シンプルな意思決定」ばかりがあらゆる場面で持て囃される社会である。

(P125より引用)

こんな社会で、いったい私は生き残っていくことができるのでしょうか?

ファスト教養を解毒する

「ファスト教養とどう向き合っていくべきかを考えたい」と前章を締めくくった。しかし、普通に考えるのであれば、このようにもったいぶった問いを立てる必要はない。単純に、「もっと勉強すればいい」のである。

ビジネスに役立つなどと小賢しいことを言わず、大雑把に物事を知ることに満足せず、さまざまな領域に対して探求心を持って取り組む。それこそが、ファスト教養がはびこる世の中における本来あるべき知的態度である…。というようにまとめることができたら、どんなに楽だろうか。

(P186より引用)

ここまでの引用では伝わらないかもしれないのですが、筆者は「ファスト教養を悪とし、古き良き教養を善とする」わけではなく、あくまで中立的な立場でファスト教養について述べられています。ファスト教養が必要とされる現代で「もっと勉強すればいい」という回答は、古き良き教養の時代に戻れというのも同じことです。そうではない、現代にあった解決策が必要になります。

そもそも多くのビジネスパーソンは、何かを深く勉強するには時間がなく、そのうえ何を深く勉強すればいいかもよくわからない。彼らは自己責任論がはびこる社会で「成果を出さなければいけない」と駆り立てられ、生き残るために躍起になっている。その結果、お金との関係が明示されない領域への興味はほとんどプライオリティを押し下げられるとともに、仮に勉強したいテーマがあったとしても、それらとじっくり向き合う精神的な余裕も奪われていく。

(P186-187より引用)

では、こんな状況でいったいどうすれば良いのでしょう?

この問いに答えるためには、新自由主義的な流れを全肯定せず、一方で「お金につながらない勉強こそ大切だ」という言説を安易に振りかざさない、ファスト教養以降の思考のあり方を見つける必要がある。

(P190より引用)

(前略)…誰もが「成長」に躍起になっている。転職する際の動機として「もっと成長したい」というフレーズも定番であり、筆者もたびたび直接耳にしている。このような言説では、なぜ成長したいかは重要ではなく、成長することそのものが絶対正義となっている。

ビジネスパーソンにとって本来必要なのは、この前提を問い直すこと、すなわちなぜ成長したいのかをもっと考えることである。深い考えもなく成長を目指したところで、自分の中での指標や具体的な目標がなければ、自己実現を果たすどころか労働者として使い倒されるだけである。

単に成長を志向するたけでなく、「そもそも自分にとっての成長とは?」といった問を育てることが、自らの仕事や人生を見直すきっかけになり、ひいてはファスト教養に抗うための出発点になるだろう。

(P190-191より引用)

以前、読んだ「神時間力」という本にもありましたが、まず「何故それをするのか」=「ゴールは何か」が明確になっていなければ、それらの頑張りはほとんど意味をなさず、ただ時間や労力を無駄にするだけです。

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同様に「教養を身につける」ということも「何故それをするのか」自分に問いただす必要があります。…とはいえ、それをするにも時間や思考力が必要になりますよね。

前提を問い直す必要性と、前提を問い直すことの難しさ。これらを踏まえて、ファスト教養と対峙するための考え方として導き出されるのは、成長というものの意味を問い直す視点を持ちながら、一方ではビジネスの世界で結果を残そうとするスタンスである。前者だけに耽溺するのは残念ながら理想論すぎるし、後者のみを盲目的に追及することは現状の自己責任論社会を加速させるだけである。ビジネスで一定の成果をあげることで精神の平穏を保ちつつ、自分にとって「成長」とは何かという大きな問いに立ち向かうのが、ビジネスパーソンの目指すべき姿だろう。

(P191-192より引用)

要は、ファスト教養と古き良き教養のどちらかに偏りすぎず、その間。バランスの良いところを目指していくということでしょうか。

この姿に少しでも近づく、言い換えると「効率的な差別化」からも「根源的な内省」からも逃げない態度を身につけるために必要なものは何か。それは気持ちを奮い立たせる成功者のエピソードではなく、専門的な知見に裏打ちされた確かな知識である。この「自己啓発ではなく知識」という考え方は、ファスト教養の世界から脱却する上での一つのキーワードとなる。

ここで重要になってくるのは、知識への入り口は人文知ではなくビジネスにまつわるものであっても問題はないという点である。

(P192より引用)

成功者のエピソードというのはどれも情熱的でスリリングで、読んでいると自分にもできるんじゃないか?あとに続かなくては!と思わされるものが数多くあります。それを楽しむ分にはいいと思います。モチベーションを上げるのも必要ですから。けれど、それをもって教養とは言えないのではないでしょうか。

「ビジネスの場で株についての知識が役立つから株の本を読もう!」と決心したとします。そこで選ぶのはどういった本でしょうか。『株で1億儲かった話』みたいな武勇伝を綴った本を選んでしまうと、それはただのモチベーションアップで本来の株の知識が身につくとは言いづらいです。ですから『株入門』みたいな有用な概念をわかりやすく解説してくれる本を選ぶことが重要になってくるわけですね。本書では具体的にどういった書籍が有用であるのか、例が挙げられています。

要はビジネス書がだめというわけではなく、ビジネスについて学ぶときはきちんと知識が得られる本でとことん学べばいいということです。

自己啓発ではなく知識」についてさらにひも解くと、ここでの「知識」とは「専門性や情報量を背景に備えたコンテンツから得られる普遍的な知見」のことを指している。

(P198より引用)

ここで大事になってくるのは「トレンドを追わない」ということだろう。

(P199より引用)

「普遍的な知見」とはそう簡単に手に入れられることはできません。一朝一夕で手に入れることのできるトレンド情報とはわけが違います。もしトレンドを追い求めてしまうと、そこにはまたファスト教養を追い求める自分が待っていることでしょう。

自己啓発より知識が大事だが、「新しい知識を得なくては」という感情だけが先走ると何もいいことがない。この状況に陥らないように自身を制御することこそ、ファスト教養と向き合ううえでの防衛戦略である。そのために重要な観点が、「繰り返す」ことである。

(P200より引用)

繰り返すうえでポイントになってくるのは、能動的な「好き」という気持ちである。好きな本だからこそ、負担を感じることなく繰り返し読める。そう考えると、この「好き」こそがファスト教養に対抗するうえで重要なものであると言える。

(P201より引用)

普段、絵を描かない方が繰り返し絵を描いて練習するというのは、なかなか難しいことではないでしょうか。私は、下手なりに絵を描くことが好きなので、繰り返し練習することは苦ではありません。きっとスポーツや勉強も同じことだと思います。

よもやま話

本書はさらにこの自己責任論がはびこる世の中をどのように緩和していくのか、これから我々はどのように「教養」を考えていくのかが示されています。また割愛しましたが、どうして「ファスト教養」やその背景が広まったのか、具体的にどういった人物がどういったことがしたのかという紹介は非常にわかりやすかったです。もし興味を持たれた方は是非、一度読んでみてください。

この社会で情報に触れないでいることは非常に困難です。そのなかで、自分がどのように情報を手にして、知識し、さらに教養につなげていくか。そういったことを考えるうえで、今の社会を知ることはとても重要なことだと思います。

はてさて。

ここまで真面目に綴ってきましたけれど。ちょっとここで私のお話も。私は現在、選択子なしの専業主婦ですから働いてはおりません。ですからビジネスパーソンみたいに、急いで教養を手に入れなければ!という状況ではありません。

にも関わらず、私は「ファスト教養」寄りの情報収集をすることが多いように感じています。より多くの情報を手に入れておかなければ…あれもこれも知っておかなくては、世間から孤立してしまう…みたいな。微かにですけどそういった焦燥感が拭いきれないのです。

だから私の知識は浅いのかも…とちょっと反省しております。もう少し、深みのある人間になりたいものですねぇ。