早いものでもう梅仕事の季節ですね。我が家の梅仕事といえば梅酒を仕込むこと。無事昨年仕込んだ梅酒は飲み頃となったようで、夫がたまに炭酸水で割って飲んでいるようです。
梅と言えば、「梅切らぬバカ」という言葉をご存じでしょうか?
今回は2021年に公開された「梅切らぬバカ」という映画を見ましたので、感想をネタバレ交えて綴っていきたいと思います。
あらすじ
年老いた女性 山田珠子は占い業を営みながら、50歳を迎える息子の忠男との二人暮らし。忠男は忠(ちゅう)さんと呼ばれ、母からの愛情を一身に受けて育ちます。
忠さんにはある特徴がありました。それは彼が自閉症であること。いつも通りの動きの流れが乱れると混乱し、また音にも敏感です。
とある日、山田家の隣に里村という一家が越してきました。両親と草太という一人息子の3人暮らしです。父の茂が衝動買いで購入したその一軒家には1つ困ったことがありました。
山田家の庭には、立派な梅の木が生えています。その枝は、庭を通り越し道にまで広がっていたのです。通行の妨げになるその枝に、里山家の両親はやんわりと苦情を入れます。
珠子も いつか切らなくてはならないと思いつつも、できないでいました。なぜなら、庭に生える梅の木は、忠男にとって亡き父の象徴だったのです。
「忠さんの父親が植えたんだよ」
『ご主人は…?』
「うちじゃ死んだことになってるから。いつでも庭から見てんだよ。悪いことはできないよって。おかげで忠さん、いい子に育ってくれた」
『忠さんがいい子に育ったのは、お母さんのおかげだと思います』
「お宅の息子さんもね」
(劇中より引用)
里山家と山田家は少しずつ距離を縮めています。そんななか、珠子は自分にもしものことがあったときのことを考えて、忠さんをハンデを持った人々が共同生活を送るグループホームに入れることにしました。住宅街の一角にあるグループホームに対して、周辺住民には反対意見もありました。それに対して珠子は、困ったときはお互い様であると諭します。
それからたった一人の生活。食事もすべて一人。珠子は少し憂鬱気味でした。忠さんも自分の時間通りに行動ができないストレスや、環境の変化など様々なことが重なり、ついにグループホームを抜け出してしまいます。
その最中、里山家の長男 草太と出会います。珠子から忠さんは馬が好きであることを聞いていた草太は忠さんをとある場所に誘います。それは夜、人がいなくなった乗馬クラブでした。
当然、そんなイタズラはすぐに見つかってしまいます。草太は走って逃げますが、忠さんにはそんなことはできません。しかも騒ぎの最中にポニーが一頭、乗馬クラブから逃げ出してしまいました。そのポニーに驚いて、自治会長をつとめる女性が怪我をしてしまいました。
この騒ぎのせいで、グループホームに対する周辺住民の不満は爆発します。署名活動や、抗議活動が繰り返され、グループホームにも無名で誹謗中傷のFAXが送られてくるようになるのです。行政もあくまで中立という立場ですから、たいして手助けをしてくれるわけでもありません。
草太も最初は口をつぐみますが、自分のしたことがいかにいけないことだったかに気が付き、両親に真実を告白するけれど…。
山田家、里村家はどうなってしまうのでしょうか。
「梅切るバカ」とは
『”せんてい”?』
「無駄な枝が伸びるといい花や実がつかなくなるだろう?”梅切らぬバカ”っていうのよ」
『だったらどうして放っておいたの?』
「どうしてかなぁ。忠さんがいるうちに切ろうと思ってさ…」
(劇中より引用)
この”梅切るバカ”という言葉、私はこの作品で初めて知りました。「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」という言葉から来ているそうです。
桜は枝を切ると花が咲かなくなるだけでなく枯れてしまう事があり、梅は反対に枝を切らないと良い実がつかないところからきているそうです。同じ種類でありながら、桜は切り口から腐りやすいので枝を切ることは避けますが、梅は枝を切ると切り口から小枝が密生し、枝振りがよくなり、よく伸びて花をつけ、実を結ぶのです。つまり、「桜切るバカ、梅切らぬバカ」という言葉の意味は、樹木にはそれぞれの特徴や性格があり、その特徴や性格に合わせて世話をしないとうまく育たないという戒めでもあります。
この言葉は人間にも当てはまります。
(以下URLより引用)
梅を切れば確かに枝振りは良くなり、良い実が結ばれるのかもしれない。けれど、それは梅本来の自由な成長ではありません。言ってしまえば、剪定者が求める型に相手を無理やりはめ込むということでもあります。
現代社会、特に学校教育の現場では、個性を切り取り、ある程度 統一された人間であることが重要になることは、多々あります。
それをあえて切らないということは、自由に成長してほしいという親心でしょうか。はみ出た梅の枝は忠さんを表しているのかもしれません。庭を出て道まではみ出した枝は確かに、周囲の人からしたら迷惑でしょう。自閉症であるということで、周囲に迷惑をかけてしまう事もあります。不安にさせてしまうこともあります。
けれど、それはきっとお互い様なのですよ、というメッセージかもしれませんね。
感想とよもやま話
たとえばの話を少々。
今回のようなチャレンジャーの方々を支援するための施設であったり、認知症などが原因で徘徊していまうといった行動を起こしてしまう方を支援する介護施設など。これらは世の中になくてはならない施設ですよね。
それが市内に建つと聞いても「そうかそうか、そういう方々を支援する施設って必要だよね」と思うだけでかもしれません。少なくとも私はそう。
けれど、それがもし自分の家のすぐ横に建ちますよって言われたら、どうでしょう?さらに、もしまだ小さなお子さんがおられるとしたら?
こういったチャレンジャーの方をテーマにした作品だと、そういった施設に反対する人というのは、どうしても悪人のように描かれてしまいます。しかし、作中では、反対している人のなかにも誰かに反対されてやむを得ず反対しているという立場の人がいます。それが乗馬クラブのオーナーです。ままならないものですよね。
結局のところは「お互い様ですよ」ということなんですけれど、これを自分に置き換えて考えてみると結構難しいなぁと思いまして。そう簡単に「お互い様だね」と言えるだろうか、と考え込んでしまいました。
この映画は、最終的には「解決してハッピーエンド」というわけではありません。幸せに包まれていますけれど、それはあくまで一歩前進しただけ。いつ後退するのかわかりませんし、問題も解決したわけではありません。
でもけれが現実なんだよなと思います。解決しても新しい問題が出てくるでしょう。
忠さんがグループホームに入ることができ、珠子さんが自分にもしものことがあっても忠さんは大丈夫、と一見すると解決しました。けれどそれは束の間で、結局 忠さんはグループホームを抜け出してしまうのですから。そういった日々の繰り返しなのだろうなぁ…と。
ただ、だからかわいそうでしょう?ということを言いたい作品ではないんです。お互い様だよねって、歩み寄るといえばいいのでしょうか。そんな提案をしてくれる作品のように感じました。