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シンプリストになりたいのです

おでかけ記録(仙台・瑞鳳殿②)

「旅せよ平日!JR東日本たびキュン♥早割パス」というお得パスで仙台に日帰り旅行に行ってまいりました。前回は伊達政宗公の霊屋である瑞鳳殿について綴りました。

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今回は瑞鳳殿境内にある善応殿、感仙殿について綴っていきたいと思います。

瑞鳳殿

瑞鳳殿から少し歩いたところに善応殿、感仙殿はあります。この階段を上っていきましょう。

少し脱線しますが、伊達政宗公といえば灯篭のイメージが強い私。

こちらは2023年1月にお邪魔した日光東照宮で撮影したもの。手前2つの灯篭が、徳川家康公のために伊達政宗公が寄進した鉄灯篭です。ポルトガルからわざわざ鉄などを運び作らせたもので、月の模様が入っています。なんとも伊達政宗公らしいなぁ…としみじみしたのを思い出しました。

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感仙殿・善応殿

階段を上ってまず目の前に飛び込んでくるのが感仙殿。こちらは二代藩主である伊達忠宗公の霊屋だそうです。

瑞鳳殿同様にとても絢爛豪華な佇まいですが、よくみると瑞鳳殿よりは幾分か抑えめな装飾になっています。柱や壁の装飾はシンプルですね。これはこれで黒色の重厚感がかっこいいです…!

ところで、伊達政宗公は存じ上げていましたが、二代藩主の忠宗公はどんな方だったのでしょうか?気になったら調べる、それが私の鉄則です。

伊達忠宗公は藩祖伊達政宗の二男として、1599年大阪城下に生まれ、幼名を虎菊丸と称した。

1636年 父政宗の死によって38歳で家督を継ぎ二代藩主となった。その人柄は謹厳実直で、何事も派手であった父政宗とは違い、柔和な人物と評されている。一方で、「戦国の世に生まれたかった」と家臣に語り、鉄砲や弓術などに秀で、また狩りなどを頻繁に行うなど、武勇にも富んでいたとされる。

忠宗は法治主義により藩政を確立し、仙台城二ノ丸の構築や仙台東照宮をはじめとする寺社の造営の他、寛永の総検知や年貢御定、新田開発など、仙台藩の経営面に多くの治積を残した。

こうしたことから忠宗は”守成の名君”と称されている。

(以下URLより引用)

www.zuihoden.com

感仙殿の両脇にも供養塔が。こちらも戦災によって破壊されてしまいましたが、感仙殿を再建する際に同じく立て直されたそうです。

感仙殿の左横には善応殿が。

善応殿と感仙殿との2つが並ぶと同じ建物が2軒連なっているように見えますが、よーく見てみると柱に描かれている家紋や、壁に描かれている花が感仙殿は桜なのに対して善応殿は蓮であったりと細かい違いがあって面白いです。

善応殿は三代藩主伊達綱宗公の霊屋です。善応殿は焼失以前の資料が乏しかったため、綱宗公が好んで描いた「鳳凰」と「牡丹」を装飾に採用しているそうです。

伊達綱宗公のお人柄はどんな方だったのでしょうか?

伊達綱宗は二代藩主伊達忠宗の六男として1640年仙台城二ノ丸に生まれた。

1658年忠宗の死去により、綱宗は19歳にして仙台藩62万石を襲封し、三代藩主となった。しかし故あって1660年在職わずか2年にして綱宗の逼塞隠居が幕府より命じられた。

以後綱宗は江戸品川の屋敷で、幼少の頃より恵まれた芸術的天分を発揮し、和歌、書画を楽しみ、能や茶道に精通した。特に画は狩野探幽に学び、人物、山水画に秀作を残している。また刀の治法を国包に受け、この方面でも名高いものがあったとされる。その他、蒔絵、彫刻、茶器の自製など、逼塞隠居の身ではあったが文化人として優雅な生活を送っている。

(以下URLより引用)

www.zuihoden.com

伊達騒動という歌舞伎を聞いたことがありますが、それの登場人物であるのがこの伊達綱宗公らしいです。実際に歌舞伎の内容は詳しくありませんが、言葉は聞いたことがありましたので、あぁ、あの伊達さんかぁ…なんてしみじみ。

ちなみにですが、瑞鳳殿の際に私が推した獅子頭の2匹ですが、こちらの感仙殿・善応殿にも。こちらは金に緑・青の獅子です。ちょっと怖めの顔付きです。とはいえ、やはり肉球はかわいらしい…!ここだけをいつまででも見ていられそうでした…!

よもやま話

瑞鳳殿の境内にはこの他資料館や溝海上人供養碑、弔魂碑などさまざまな史跡や施設があります。興味のある方はぜひ実際に見てみてください❀

京都の金閣寺や栃木の日光東照宮が雪景色が荘厳美麗といえばいいのか、普段の豪華絢爛なきらびやかな眩しさが雪に包まれることでより神聖なものに見えるといいますか。そんな様子が好きな私。雪の瑞鳳殿もきっと美しいことでしょうね。雪景色の瑞鳳殿も見てみたいものです。

次回は仙台城跡に移動して、ある美味しいものをいただきますよ。ではでは❀