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シンプリストになりたいのです

本・ビブリア古書堂の事件手帖 7

変な癖がありまして。

読書を趣味としている方とお話していると、結構同様の方がおられたので、珍しい癖というわけではありません。どんな癖かといいますと、物語の最終巻を読まないっていう癖です。

全てに当てはまるわけではないのですけれど、たまにそういう作品が現れるのです。今現在最終巻を読めていない作品は『銀魂』。チラっと最終話だけは見たのですけれど、それも途中でやめました。なんというか、それを読んでしまうと自分の中での『銀魂』という物語が終わってしまうというか、『銀魂』のキャラクターたちの生活はそれぞれ続いていってるのでしょうけれど自分だけが置いていかれてしまったような、そんな感覚になってしまい読めないのです。

映画でも同様で、『ハリーポッター』も最終巻である『死の秘宝』だけ観ることなく…。まぁハリポタに関しては原因がありまして…電車の中でネタバレを聞いてしまったんですよね…推しが死んでしまうというネタバレを…。それで余計に見れなくなってしまって10年近く経ちました。さすがに、向き合おうと思って昨年重い腰を上げたわけです。推しの死は涙なしには観ることができませんでした…でも観て良かったです。

そんなわけで、漫画にも映画にも、当然小説にも最終巻だけ観ていないというものがちょこちょこあります。今回はそれに向き合ってみましたよ。

ビブリア古書堂事件手帖について

『ビブリア古書堂事件手帖』の1~6巻は刊行される度にきちんと読んでいた作品でした。当時の私にとっては「本のことをテーマにした本」ということが新鮮だったように記憶しています。この『ビブリア古書堂事件手帖』は、主人公大輔君は、良い感じの凡人ポジションです。そして彼が縁あって勤めるようになったビブリア古書堂の女店主栞子さんは古書に関しては超天才的な知識を持っている探偵ポジション。美人でお胸も大きく、さらには古書に関して意外はポンコツという愛され要素もしっかり有しています。そして毎回、ビブリア古書堂にやってきた古書から謎を解決すべく奮闘するといった物語です。

何かに特化した知識のある人が、それを元に謎解きをしていくという設定は私の大好物です。原田マハさんが書かれた『暗幕のゲルニカ』や『リボルバー』も大好き。今思えば、そういった作品が好きになったきっかけはこの『ビブリア古書堂事件手帖』だったんじゃないかなぁと。

また、いわゆるライトノベルに興味をもったのも『ビブリア古書堂事件手帖』がきっかけでした。それまでライトノベルとは、なんとなく距離があったのです。けれど、『ビブリア古書堂事件手帖』と出会って、印象がガラリと変わりました。「読みやすい!」「面白い!」「なんでいままで読まなかったんだろう!」と後悔するほどに。それからしばらくメディアワークス文庫で気になったタイトルを読み漁る日々が続いたことを、思い出しました。

それからそれから、ご当地が舞台になった小説に興味をもったのも『ビブリア古書堂事件手帖』が大きいです。それまでの小説も、舞台設定がどの時代のどの地域と書いてありましたがそこまで意識することはありませんでした。けれど「北鎌倉」という舞台がとてもセンセーショナルに感じたんですよね。(未だに自分でも原因は不明です)それからというもの、浅草●●とか鎌倉××とか、ならまち△△というような小説も集めていました。 当時ちょっとしたブームだったように思います。

いろんなきっかけをくれた『ビブリア古書堂事件手帖』。だからこそ、自分のなかで終わらせることができなかったのかもしれません。発売されてすぐに購入した最終巻は、それからずっと私の積読棚に並ぶことになってしまったのでした。

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以前映画版を観ましたが、まぁこれはこれで…と言いますか。ただ帯にアニメ化のことも書かれていたのですが、それに関する情報は見つけられず。ドラマ・映画が不評で頓挫してしまったのでしょうか。アニメなら見てみたいなぁとも思うのですけれど。

ビブリア古書堂事件手帖 ~栞子さんと果てない舞台~ あらすじ

北鎌倉にある一軒の古書店「ビブリア古書堂」。美しい女性店主の篠川栞子と店員の五浦大輔の元に、また奇妙な縁が巡ってくる。太宰治自家用の『晩年』を巡りやってきた一人の男性 吉原は、横浜に構える「舞砂道具店」の店主だった。彼は1冊の本を置いていった。それは、ウィリアム・シェイクスピアの『ヴェニスの商人』こと『人肉質入裁判』だった。彼はなぜ『人肉質入裁判』を栞子に授けたのか。そこから彼女は祖父によって張り巡らされた罠へとはまっていき…。

ざっくりと導入はこんな感じです。

気になったフレーズ

ここからはネタバレを交えて綴っていきたいと思います。

『ビブリア古書堂事件手帖 7巻』はウィリアム・シェイクスピアの『人肉質入裁判』をテーマに話しが展開されます。この『人肉質入裁判』とは『ヴェニスの商人』のことを言うそうです。

実は大学の授業でシェイクスピアの物語はいくつか勉強したことがあるのです、それに佐々木蔵之介さんの舞台『マクベス』でも触れたことがあるんです。ですが、ほぼシェイクスピアについては記憶にありません。タイトルはいくつか浮かびますけれど、中身までは。今回、栞子さんの解説によってはじめて「ヴェニスの商人」がどういったお話なのかも理解することができました。

世の中が舞台

「海外での生活が長いせいか、芝居じみた話し方をする癖がついてしまいました。特に欧米人には日本式の曖昧な表現は通じませんのでね。最初は慣れませんでしたが、今は世の中が舞台のようなものと割り切っております。誰でもなにかの役を演じなければなりません」

老人は意味ありげにウィンクする。最初は慣れなかったのが本当だとしても、今はずいぶん楽しそうだ。この人の性格に合っていたのだろう。

(P38より引用)

この「世の中は舞台のようなものと割り切っております。誰でもなにかの役を演じなければなりません」という吉原の台詞。さらっと読んだだけでも印象に残りましたが、最後まで読み切ってから吉原という男性のことを考えると、この台詞が一番印象に残っていて、吉原という人間にしっくりきました。

この世の中で自分に宛がわれた役をまっとうに演じ切ることに生涯をかけていた男性ですから、それが綺麗かどうかや完遂できていたかどうかは置いておいて、私は嫌いになりきれないキャラクターでした。勝手に俳優の六平直政さんで想像していたからかもしれません。笑

この「誰でもなにかの役を演じなければなりません」というのは実際そうで、母親であれば母親というペルソナを、教師であれば教師というペルソナをかぶります。そういった仮面をつけて「それらしく振る舞う」というのは、意識していなくてもごくごく普通のことです。そこをあえて言及して述べるあたり、彼の執念というか、こだわりといいますか、もっといってしまえば怨念のようなものを感じました。

ハムレット

「"To be,or not to be,that is the question."『ハムレット』ですね」

(P63より引用)

「〇〇か、××か、それが問題だ」という言葉をよく耳にするのですが、ネタ元がここであるということを初めて知りました。「そうだったのか…お前だったのか」とごんぎつねの兵十のような台詞を呟いてしまいました。

喜劇?悲劇?

シェイクスピアの戯曲の題名には法則性があって、悲劇や歴史劇などのシリアスな内容のものは登場人物の名前だ題名になっているんです。この『ヴェニスの商人』もそうですけれど、喜劇はどれも違いますよね」

(P65)

『ロミジュリ』、『ハムレット』、『オセロー』、『マクベス』、『リア王』。確かに悲劇であったりは誰かの名前が題名についています。打って変わって喜劇はというと『お気に召すまま』、『から騒ぎ』と名前以外の題名になっています。今まで何度も目にしてきたシェイクスピアの戯曲のタイトルですが、法則性があるなんて気が付いていませんでした。中身を知らないという無知と、更に物事を深く追求しようとせず、みてはいるけれど見れてはいないのだなと気付きました。些細な事でもどうしてだろうと思える自分でいたいです。

ヴェニスの商人

ヴェニスの商人』ではキリスト教徒によるユダヤ人迫害が肯定的に描かれていると指摘する栞子さん。それに対し、大輔君は過去に とある漫画の表現が障がい者差別にあたると抗議をうけ、コミックスに収録されなくなった過去があると 栞子さんから教わったことを思い出す。

「今も上演されているんですよね?」

(中略)

「世界中で上演されていますね。問題のある戯曲ですが、一方で多様な解釈を許す内容になっています。シェイクスピアシャイロックを平凡な悪役ではなく、傷つき怒る人間としてきめ細かく描いています。自分の信仰や職業を否定され続けて、復讐のためにアントーニオを殺害しようとする…娘がキリスト教徒と駆け落ちしたことを嘆く場面は特に有名です。自分を蔑み、大事なものを奪っていくキリスト教徒に、シャイロックはこう叫ぶんです。

ユダヤ人には目がないか?ユダヤ人には手がないか、五臓六腑、四肢身体、感覚、感情、喜怒哀楽はないのか?キリスト教徒と同じものを食い、同じ武器で傷を受け、同じ病気にかかり、同じ治療で治り、同じ冬の寒さ、夏の暑さを感じないというのか?』」

(P70より引用)

民族差別が公に否定されていなかった時代にシェイクスピアはこうして、差別される側の登場人物にこういった台詞を言わせる。なかなか、すごいことだったのだと思います。信仰や職業や性別や、何かが違うというだけでの差別は、自分の首をも締めていることに早く気が付いてほしいと思う今日この頃です。とはいえ、この頃も今もあまりかわっていないのかもしれませんね。

境界線

ふと、栞子さんの話を思い出していた。「世界が舞台で人間はそれを演じる役者」。裏返せば舞台もまた世界の一部で、登場人物も本物の人間と変わらない。境目が壊れるような快感を楽しんだのかもしれない。

(P 117より引用)

舞台とは少し異なるけれど、物語の舞台が知っている場所だと境界線が不明確になる。まるで本当のリアルな世界に「ビブリア古書堂」はあるのかもしれない。作中にでてくる特殊な本が存在しているのかもしれない。どこまでがリアルでどこからかフィクションなのか解らなくなる感覚。これはこれで楽しいものです。

私の中にある日本地図では京都では森見登美彦さんが書かれた狸一家が暮らしていますし、京大付近には「私」や黒髪の乙女、小津が学び舎を楽しんでいるし、奈良市では鹿男あおによしですし、北鎌倉にはビブリア古書堂があるし…と物語が現実の上に覆いかぶさるようにしています。現実を生きる私はただの専業主婦だけれど、物語の一部なのかもしれない。何かを演じているのかもしれない。なんともいえないアンビバレントな感覚が堪らなく好きだったりもする。

自分自身と覚悟と。

「その時々でこれこそ自分と言いきれるのが本当の自分。単に感情の強度があるだけで、人間はその強度に応じて決断すればいい。」

(P243より引用)

自分らしい、自分らしくない。それが良く解らないで迷走しているような感覚がいまだにある私。三十路を超えるまでにある程度固めておくような、自分の核がいまだにありません。巷にあふれる本ではみんな、その核のようなものがあって、それにならって行動されている。それができないでいる私は、同じ土俵に立つ事さえできない。そんな感覚。自分らしいって、何なんだろうなぁ…としんみり。

「もっと自信を持てよ。お前自身の覚悟がすべてなんだ。残りの人生なんてどうせ誰にも分かりゃしねぇ」

(P256より引用)

自分らしさで考えると私は本当に覚悟が足りない。楽な方楽な方へ流れて生きてきて、今、専業主婦という立場におさまっている。そろそろ覚悟を決めて。動かなければならない。

「覚悟がすべてです、栞子さん」

志田の言葉がなぜかするっと口から出てきた。急に栞子さんが驚いたように目を瞠った。

「それ、『ハムレット』からの引用ですね。"The readiness is all."…第五幕第二場、レアティーズとの決闘に赴くハムレットが自分の決意を語る名台詞です」

(P291より引用)

誰か私のおしりに火でもつけて、動けるようにしてくれないだろうか。なんて、だらだらとしながら考える。なんとも矛盾した昼下がりでしょうか。これからは何かを始めようとしたときに「覚悟がすべて」と口にしてみてもいいかもしれません。ダイエットも覚悟がすべて!うん。なんだかいけるような気がします。

まとめ

マンガ『銀魂』や映画『ハリーポッター』同様、10年以上関わりがありつつも最終巻と向き合えていなかった『ビブリア古書堂事件手帖』。最後は大団円を迎えすっきりと卒業することができそうです。

…と、ここまで書いておいて何なのですけれど。実は続編がでているんですよね。栞子さんの娘 扉子さんへとバトンが引き継がれていくような感じだそうな。2巻まで購入しているのでまた、そちらも追々読んでいきたいと思います。

『ビブリア古書堂事件手帖』全巻、お疲れさまでした。たくさんの「へぇ~そうなんだぁ」を教えてくれてありがとうございました❀