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シンプリストになりたいのです

映画・本 土を喰らう十二か月

自分の知識の限界、思考の限界を知るのは、自分が無知であるということを知ったとき。「無知の知」なんていって、自分に知識がないことを自覚するという概念だそうですけれど、いくら気が付いても改善しなければ所詮はただの無知です。

本を読むたびに自分の無知を思い知らされ、グーグル検索の履歴はたまる一方で、知識がたまっているという感覚がまるでないのでよろしくありません。

自分の無知を痛感した映画・本に触れましたので、それについてネタバレ交え綴りたいと思います。

土を喰らう十二ヵ月

まず映画「土を喰らう十二ヵ月」について。

作家・水上勉の料理エッセイ「土を喰う日々 わが精進十二ヵ月」を原案に描いた人間ドラマ。

長野の人里離れた山荘で1人暮らす作家のツトム。山でとれた実やキノコ、畑で育てた野菜などを料理して、四季の移り変わりを実感しながら執筆する日々を過ごしている。

そんな彼のもとには時折、担当編集者である歳の離れた恋人・真知子が東京から訪ねてくる。2人にとって、旬の食材を料理して一緒に食べるのは格別な時間だ。

悠々自適な暮らしを送るツトムだったが、13年前に他界した妻の遺骨を墓に納めることができずにいた。

(映画ドットコムより引用)

eiga.com

雪深い長野の山荘。訪ねてきた恋人である真知子はコートを脱ぐこともなく、囲炉裏で冷えた身体を温めている。そんな彼女を抹茶と皿に飾った干し柿をもってもてなす。細やかなハレの料理。ツトムは食いしん坊な彼女のために、自分の分の干し柿も譲り渡し、それを真知子は嬉しそうに頬張る。

素朴なケの世界の中に時々見せる、彩のあるハレが美しいと思う映画でした。四季それぞれに採れるものをとって食べる。食材の処理は丁寧に、だけれども味付けは簡単な質素なものに。それが私には憧れる世界観ではありました。

ただ、全体的に答えを見せてくれない。日本の、特に平成までの空気感の映画だと思います。今風ではない、そんな感じ。それが心地よいと感じる一方、物足りないと感じるのも事実でした。

どうしてだろうかと思って考えてみると、食べ終えるシーンがないのです。ご馳走様というシーンが食材に対して非常に少ない。なんだったら食べるシーンも少ない。そういう所謂 食を楽しむ映画作品では、美味しそうに食べるところまでがセットという先入観があることに気が付きました。美味しそうに食べているのは恋人である真知子や村(山?)の女性陣だけ。要はもてなされている側だけ。ツトムは終始淡々と食事をしています。でも実際のところ、普段の食事ってそうですよね。毎回毎回自分で作った食事を「美味しい~」なんて言わない。そう考えると、そのシーンは言わなくても解るだろう的な感じでカットされるのは納得できるような気がします。

そんな感じでこの映画は全体的に最後までは見せてくれません。1年という暦の中を生きるツトムという男性の人生のワンシーンを要所ごとに飛ばし飛ばしザッピングしていくような、そんな感覚にもなりました。

土を喰らう十二ヵ月の台所

私のような「答えが欲しい!」という人にオススメなのが、こちらの1冊。

土を喰らう十二ヵ月の台所

映画「土を喰らう十二ヵ月」の料理はどのようにして作られたのか。

料理を担当した土井善晴さんと監督・脚本の中江裕司さんが映画の料理を振り返りながら語り合います。食材、献立、器、道具の話も満載。

(Amazonより引用)

このシーンは何故こうしたのか、何故このような道具を使ったのかを事細かに解説されている一冊です。これを読んで初めて理解できたシーンや、気が付いたシーンも多く、冒頭でお話した無知を痛感したわけでございます。それは言われないと解らないよ…というシーンはきっと解説されていないだけで他にもたくさんあるんだろうな…と。きっと見る度に見つける物がたくさんあるんだと思います。私個人としては、この本を読み終えて初めて映画1本を観終えたような、そんな感じでした。

土井善晴さん

以前、土井善晴さんの「一汁一菜でいいという提案」という著書を拝読して以来、食に対する考え方が少しずつ変化してきた私。

yu1-simplist.hatenablog.com

お正月や祝い事のハレの日と、普段のつつましやかに暮らすケの日。今まで私の中にあまりなかった発想でしたから、読んだときは目から鱗が落ちるとはこのことという感じでした。この「土を喰らう十二ヵ月」という映画はその「土井節」が作品の端々に詰め込まれている作品です。

器の1つから、漬物石、食材の洗い方に至るまで、考え込まれて、そうなるようになっているシーンだったのかと「土を喰らう十二ヵ月の台所」を読んで気が付かされました。

芋の機嫌

『土を喰らう十二ヵ月』の物語は合理的な予定調和とか、現代の設計主義みたいなものとは全然違う世界ですね。山の暮らしは自然に応じるより仕方ない。だから、映画の撮り方も自然に沿っている。いかに自然という時間に、映画という時間が近づけるかということですね。いわゆる一定の時計の時間とは違う世界がありました。

(中略)

漬物や干し柿、味噌、酒みたいなものは保存の延長にあるわけで、漬物が乳酸発酵する時間、干し柿ができあがるまでの時間というような、時間で計れないそれぞれの時間がある。そういう自然の時間を尊重しながら、人間がどうするかという物語がある。だから人間の都合で「早くこの芋、煮上がれ」と強火にしたら、芋はご機嫌が悪くなってに崩れたり、汁が蒸発したりする。芋がご機嫌でいられるように、見守るだけです。

人間が芋の時間に合わせてやる。それを見ていたら楽しくなります時間通りに間に合わせなければいけないとなると、物や自然にとってえらい迷惑な話なんですわ。

(P38より引用)

食材の時間。ジャムをつくるようになって気が付いたことに、ジャムを強火で煮込んではいけないということがあります。確かに水分は飛んでくれるから時短になるし、ジャムという形にはなります。けれど無理に飛ばした水分のせいでジャムは固くなってしまうし、アクが出きらないのか味が落ちるのです。そうではなくて、弱中火でことこと煮る。こまめになべ底が焦げ付かないようにかき混ぜて、アクをとる。目安は20分~30分だけれど、食材によって、というかその時によって時間は変わります。同じ食材でも、熟れている度合いや水分量は違うから言ってみれば当然のことなのですけれど。そんな当たり前のことも、試さなければ気が付かなかったですし、言われなければ気にも留めなかったでしょう。

食材のご機嫌を損なわないようにするためには、丁寧に接してあげる必要があるのだなとこの歳にして気付かされたのでした。

料理はよい悪いなんてものはない世界

今の日本人は西洋人のように、料理は「味付け」だと思っているんです。「レシピ」に依存して、調味料の分量を軽量する。和食の味付けって本来飾りみたいなものなんです。食べられるようになった食材に塩をパラっとして、醤油を垂らしてたべたらいいわけで、それがお刺身でしょ。食べる人がそれぞれ好きにしたらいい。

ところが味付けが料理となると、つくる人は大変ですし、ちょっと濃い、薄いと食べる人が文句を言い出します。料理する人には、それがプレッシャーになるんです。

フランスの家庭では、各自食べる人が好きにしてるんですよ。料理をどう考えるかで、苦しくも面白くもなる。

人間中心に考えると問題が起こるんです。良い悪いができるし、競争になる。料理は本当はよい悪いなんてない世界です。今日採ってきたトマトがまだ熟してないとか、青臭いとか甘いとか、そんなん自然に言ってもしゃあないでしょ。まだ青臭いことを喜ぶ、甘く熟したことを喜ぶ、それぞれにおいしさがあるんです。

(P39より引用)

今までにも何度か料理が苦手という話をしましたけれど、私が苦手なのがこの味付け。私の好んでいる味付けと、食べる相手の好む味付けが同じとは限りません。ちょっとの塩加減で美味しいともまずいとも言われる。それがとても苦痛でした。自分のために料理することはさほど苦痛ではなくても、誰かのために料理をするということが苦手だったのです。

その点、土井さんの仰っていることは本当にありがたいお話で、全人類聞け…!と内心叫びました。それくらい、そのままを楽しむことができればと思っています。とはいえ、毎日そのままというわけにもいきません。レシピに頼った料理とそのままを楽しむ料理といい塩梅で進めることができればと思います。

ぞんざいにしないということですね。土から採ってきた野菜を洗うというのは自然と対話する行為で、人間の方がそこからいろんなことを受け取っているんです。上手下手じゃなくて一生懸命やるということがすでに美しいですからね。

(P46より引用)

こんな風に、毎日の食卓を一生懸命続けていくことができれば、それでいいのにと思えるようになりたいです。

自分の未熟さを知る

中江(監督):この映画では完成した料理をスチールのように撮るシーンや、食べるシーンはあんまりない。「料理の工程をていねいに見せたら、食べるシーンは撮らなくてもいいんじゃないですか」と土井さんがおっしゃって、その通りだなと思ったので。

土井(さん):テレビでは今、食べるシーンを重要視して、おいしいとか、どんな味がするかとかばかりですが、そういうのはいらないと私は思っているんです。それよりどんな場所で食材をとったか、おばあちゃんがどんな気持ちでお料理をしているか、一生懸命な姿から、おいしさ以上のものが伝わる。それを見せてくれたら食べなくても満足できると思います。どう食べて、どんな味がするかは、和食ならすでに見えていることです。自然のなかで生きる人間の美しさにしても、おのずから見えてくるもんです。

(P54より引用)

冒頭でお話した、物足りなさ。それはあえて作られてものでした。理由をいわれて初めて、確かにと納得したのです。私は土井さんのおっしゃる「食べるシーン」を重要視したものばかりみて、その背景を観ていなかったのだな…と反省いたしました。気が短くてよろしくない。土井さんのお話を聞いていると、節々で自分の未熟さを痛感するのでした。

けじめ

今、私たちが神社にお参りするときにお水で清める「禊」を必ずするように、昔から村の入り口や火のある家のなかに入るとき、すなわち神様のいるところに入る前に、必ず手を洗ったんじゃないかと思うんです。それが「けじめ」ですね。もちろん料理は神様に触れる行為ですから、料理をする前に手を清めるように洗うのは当たり前だと思います。今の私たちがやっていることとまったく同じで、何も新しいことではありません。山の上でも生の魚を食べることができるのは、そうした清潔感あってのことですね。長野で山に毎年入ることで、そうした自然と人間の関係をより実感することができました

(P63より引用)

映画の中で何度か出てくる手を洗うシーン。映画を観ている最中も「手を洗うシーン多いな」と思いました。と言いますのも、言ってしまえば料理をする前に手を洗うことなんて当たり前なことで、わざわざそのシーンを撮って、数秒入れ込むという必要はないのです。けれど、そのシーンをわざわざ入れることに意味がある。土井さんのお言葉でいうのであれば「けじめ」の表現。料理をする前に身を清める、そういった意味があるのだといわれるまで気が付かなかったのです。本当に無知って怖いです…。

まとめ

冒頭でお話した「無知の知」。知らないことを知るということをこの映画、本を通して再確認いたしました。インプット・アウトプットを今まで続けてきていても、まだまだ知っていることはほんの少し。根来器という美しい器があること、「ハレの日」は柳田國男が見出した日本人の世界観であること、麹菌が日本の国菌に認定されていること、雪の下の大根は凍みてしまうから、雪が降るより前に収穫しなければならないこと。これらは知りもしなかったし、きっと今まで知ろうともしなかったこと。

土を喰らうように、知識を喰らいたい。