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シンプリストになりたいのです

映画・君の名前で僕を呼んで

TVを全然観ないため、今現在世間でどういったものが流行し、どういったタレントさんが活躍されているのかをよくしりません。もともと流行に疎いので、尚更ですね。そんな私ですので情報は受動的ではなく、能動的にとりにいかなければ浦島太郎になってしまいます。映画情報もしかりです。ただ映画情報に関しては、劇場ではあまり観ないので、どちらかというとプライムビデオやネットフリックスにどういった作品が公開され、その中でお勧めはどういった作品なのか を調べることが多いように思います。

そんな調べものの中で出会った作品、「君の名前で僕を呼んで」について、ネタバレ交えて綴っていきたいと思います。

君の名前で僕を呼んで

舞台となるのは1983年夏。17歳の青年 エリオは両親とともに、とある北イタリアの避暑地にある別邸にきていました。父親は大学教授をしており、その生徒であるオリヴァーをひと夏の来客として招きました。オリヴァーはアメリカからやってきた24歳の大学院生。通った鼻筋に、高い背丈、まるで彫刻のような美しさをもった青年です。まだ17歳のエリオですが、どんどんと オリヴァーに惹かれるようになり、性に芽生えるようになります。そしてオリヴァーもまたエリオに惹かれるのでした。

ひと夏の間、少しずつ近づいた2人は次第にお互いの愛を認識し、深く確かめ合うようになります。しかし、オリヴァーの出立する日は刻一刻と違づいてきています。もっと早く気が付いていたら…。そんな二人の関係を察した両親は、オリヴァーが調査のためにむかうベルガモへエリオも同行してはどうかと告げます。そして二人の旅が始まるのでした。しかし、幸せな時間はあっという間。唐突に二人に別れの時がやってくるのでした。

1人、駅のホームに残されたエリオ。なすすべもなく、母に迎えに来てほしいことを伝え、帰りの車内でも泣きじゃくります。傷心したエリオを見守る母と、優しく言葉をかけて受け入れる父。二人はエリオを暖かく受け止めたのでした。

そして数か月の時がたち、冬。一面雪に覆われた世界。ユダヤ教の年中行事のひとつであるハヌカを祝うために、エリオと両親は別邸を訪れていたのでした。そこで電話が鳴ります。電話の相手がオリヴァーであったことにエリオは喜びますが、電話の要件はオリヴァーが帰国したアメリカで結婚することが決まったという報告だったのでした…。

 

全体を通して思ったことが、美しい作品だということ。演者が美しいということもありますが、映像や音楽が静かでそれでいて美しいのです。また、最近観た中では随分と 余白 が残った作品だという印象でした。以前「映画を早送りで観る人たち」という著書を紹介したときにも触れましたが、最近は余白の少ない作品が多いように思います。全ての答えが作中内で出ている感じですね。それが、この「君の名前で僕を呼んで」では、全ての答えを明確にするのではなく、カメラアングルでそれを示唆しているのだろうというカットがありました。同性愛への葛藤、宗教的な葛藤、自身の性欲への嫌悪感など、きっと私が気が付いていないだけでもっとたくさん散りばめられているのだろうと思います。

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2人の青年のたったひと夏の恋、しかも悲しい恋です。しかしそれがとても瑞々しく映るから不思議です。作中、お互いが自身の名前で相手を呼ぶ。エリオがオリヴァーをエリオと呼び、オリヴァーがエリオをオリヴァーと呼ぶ。まるで2人で1人なのだと、自身の半身であるかのようにその名前で呼ぶ、ある意味儀式のような行動に愛の深さを感じました。ラストシーンで、エリオがオリヴァーを「エリオ…エリオ…」と呼ぶシーンは切なくも暖かい気持ちになりました。これは時間をあけてまた観たいと思います。

この作品が好きな方にお勧めしたい作品

キャロル

こちらも同性愛をテーマにした美しい作品でした。1952年のニューヨークが舞台となっています。誰もを魅了してしまう気品ある美しさとミステリアスな雰囲気を纏うキャロルと、彼女に惹かれる 純真な少女 テレーズ。二人の葛藤と、当時の時代背景がよくわかる作品でした。

彼らが本気で編むときは、

こちらはLGBTや家族問題など複数のテーマをうまくひとつにまとめた作品でした。生田斗真さんが演じられるリンコさんが素敵だとい点も大きいのですが、反対に差別的意識のある女性の役を演じている小池栄子さんの圧倒的な存在感が素晴らしい作品でした。昨今問題となっている話題がいくつかありますが、それを多角的にみるのに最適な作品なのではないでしょうか。

まとめ

今回、ジェンダーという大きな括りでこの3作品を紹介してみました。いわゆるストレートといわれる私には、こういったジェンダーにまつわるお話は余所者でしかありません。当事者である知人もおりませんので、深いお話を聞くこともかないません。私が気が付いていないだけで周りにもいるのかもしれませんが、いまのところはおられません。ただだからと言ってスルーしていいというわけではなくて、認識であったり、理解であったりをしていきたいと思っています。

自分が知らないこそ、知りたい。わからないからこそ、わかりたい。エゴかもしれません。それでも、なにもしないよりいいかなと思っています。