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シンプリストになりたいのです

本・さようなら、私

小川糸さんの小説「さようなら、私(新装版)」を読みました。感想をネタバレ交えて綴っていきたいと思います。今回はセンシティブな内容を含みますので、どうぞご注意くださいませ。

さようなら、私

「恐竜の足跡を追いかけて」「サークル オブ ライフ」「おっぱいの森」の短編3つが収録された『さようなら、私』。

3つの物語の主人公は女性で、何かしらの問題を抱えて苦悩しながらも生きています。タイトルが「さようなら、私」というのは、過去の自分や今の自分との決別。すなわち、彼女たちが、今までの自分 から 新しい自分へと変化していく というのがこの本のテーマなのではないかと思います。

それではそれぞれの物語について触れていきましょう。

恐竜の足跡を追いかけて

中学時代の同級生 山田君が、22歳という若さで 自ら命を絶ってしまった。

お別れ会のために帰郷した主人公 美咲は、久々に地元の商店街を歩いていると突然頭上から声を掛けられました。そこにいたのは同級生のナルヤ。一流企業に内定をもらったと風のうわさで聞いていたはずの彼が、ニッカポッカという作業着に身を包み、土方作業員として働いていたのです。清潔で爽やかな好青年というイメージから野性的な男性へと変貌していました。

誘われて訪れた昔なじみの喫茶店で話題になるのは、やはり山田君のこと。山田君も美咲もナルヤも同じグループで、あの頃はあんなにも一緒に遊んでいたというのに高校、大学になってからはそれぞれ疎遠になっていたのでした。

ナルヤが仕事に戻るために店を去る際、美咲に自分の連絡先を書いて渡します。

「もしよかったら、俺の育ての親に、会いにこない?」

(P13より引用) 

大学生時代からアルバイトをしてようやく念願の正社員になれた出版社に、数日前、辞表を提出していた美咲。ナルヤの誘いに乗ることにしました。

しかし、行き先はまさかのモンゴルだったのです。

なんとナルヤはモンゴルの遊牧民族の男性と日本人女性の間に生まれた子でした。まだモンゴルが社会主義の時代、モンゴルの薬草を研究するためにナルヤの母は度々モンゴルへやってきていました。そんななかで遊牧民族の男性と恋に落ち、ナルヤをお腹に宿します。しかし当時は携帯電話のない時代。翌年、父親を再び見つけるためにモンゴルを訪れますが、遊牧民である彼は別の場所に引っ越していて見つけることはできませんでした。

一足先にモンゴル入りしていたナルヤと、幼馴染である男性の”秘密くん”が美咲を迎えに空港までやってきました。これから向かうのは、ナルヤと母が昔からお世話になっている夫婦のもとで、ナルヤにとって彼らは自分の育ての親でした。

空港からゲル(遊牧民族の家)まで長い道のりを車で進みます。舗装されいていない道はがたがたと揺れ、延々と同じ風景が続き、走っても走っても景色は一向に変わりません。陽が暮れかかってきたころ、ようやくゲルに到着しました。出迎えてくれた中年の男女はナルヤと美咲を快く迎えてくれます。そうして美咲はナルヤに連れられ、モンゴルの暮らしを体験してくのでした。

 

主人公の美咲は不倫の恋を経験し、その後、編集者の仕事という夢も破れてしまったことで「笑わない」と心に誓います。それが初恋の相手ナルヤの優しさ、モンゴルの自然によって、少しずつ少しずつほぐされていくといった物語。

夜空を見ているだけで、心が空っぽになる。体が少しずつ、砂のような細かい粒子となって、星達の隙間に紛れていくようだ。私は、何かに導かれるようにふらふらと辺りを彷徨い歩いた。あまりにも興奮して、目が回りそうになる。

(P33より引用) 

すべてが綺麗なだけではありません。モンゴルの肉が中心の食生活、あまり衛生的とは言いづらい環境、日本とは何もかもが異なります。それに対して、不満を募らせる美咲が幼稚にみえ、逆に優しくフォローしてくれるナルヤが大人びてみえます。このあたりの成長度合いの違いも見ていて面白いところではないでしょうか。

ここからは気に入ったシーンをいくつか。

「今度こっち来る時に、日本の包丁砥ぎを持ってきてあげたら」

悪銭苦闘してじゃが芋の皮を剥きながら、何気なくナルヤに言った。けれどナルヤからは、予想とは違う反応が返ってきた。

「俺も、一時期は同じこと考えてた。ここのあまりの原始的な暮らしに啞然として、日本から便利な物をせっせと持ってきてたんだ。もちろん、両親は喜んでくれるよ。でも、見てると結局使わないんだよね。使い方がわからないわけじゃなくて、自分達の意思で使っていないんだよ。そういうものは、彼らにとってゴミにしかならない。遊牧民っていうのは、物を持たない暮らしなんだ。とにかく、物に執着しない。彼らは、何千年とそうやって生きてきた。それを無理やり変えようとするのは、それこそ傲慢な話なんだ」

(P57-58より引用)

お湯を沸かすのも、ご飯を炊くのも、カレーを煮込むのも、同じ鍋を使っているのだ。その都度、お母さんは丁寧に鍋を洗う。なるべく貴重な水を無駄にしないよう、工夫しながら。

「私だったら、ミルクを温める鍋とか、フライパンとか、パスタ用の底が深い鍋とかいろいろ揃えてしまいそうなのに。すごくない?ねぇ、お母さんって、実はめちゃくちゃすごいよ!」

ナルヤにもこの興奮を届けたくて、声を張り上げた。それがどこまで伝わったのかはわからないけれど。

「そうなんだよな。俺ら、いっぱいいろんな道具を開発して、スイッチ一つ押せば使いこなしている気分になっているけど、壊れたらもう何にもできなくなる。こっちの人は、自分の車とかバイクが壊れたら、全部自分で直すんだよ。直すためには、きちんと仕組みとかが頭に入っていないとできない。結局、頭使って生きるのって、こういう原始的な暮らしを送っている人達の方なんだよな。一見、俺達の方が先を進んでいるような気分になるけど、どう考えても、俺らの方がアホ化している」

ナルヤが必死に伝えようとしてくれていることが、私にもなんとなくわかった。

ナルヤと熱心に話をしている間に、ご飯を炊いている香ばしい匂いが漂ってきた。見上げると、うっすらと茜色に染まり始めた空に、細長い雲が竜のようにたなびいている。その時不意に、自由ってこういうことを言うのかもしれない、と思った。遊牧民の人達の心の軽さ、それは物を持たないということで成り立っているのでないかと気づいたのだ。

もちろん、遊牧民だからと言って、全く物を持っていないというのではない。ゲルの中には仏壇だってあるし、一見生活するのには必要がなさそうな、ナルヤも含め、息子達や孫達の写真などもたくさんある。でも、きっとこの人たちは自分にとって何が大切か、必要かがわかっているのだ。そして大切だと思う物に関しては、たとえ生活必需品ではなくても、ずっと大事にする。本当に必要な物だけに囲まれた生活なのだ。

(P61-63より引用)

以前から遊牧民の方々の物を最小限に生きている姿に憧れがありました。私の身の回りにはたくさんの便利なものに囲まれています。もちろん、最低限の便利なものを手放すつもりはありません。洗濯機を手放して洗濯板で洗うとか、この暑い日本で冷蔵庫を手放すというのも、もちろんそういった方がいるのはいいと思いますが、私の中では現実的ではありません。

でもどこか、ミニマリストを目指していた身としては、遊牧民の方々のような生活に憧れのような、尊敬のような感情があります。大切な物、必要な物だけに囲まれた生活ができればいいなぁと日々痛感しておりますので、とても響く文章でした。

「これは、俺の数少ない人生経験から得た教訓だけど」

ナルヤは、丁寧に前置きをした。

「もし自分に行き詰まったら、もっと広い世界に飛び出して、自分よりも上をみるといいんだ。狭い世界でうじうじしていたら、もっと心が狭まってくだらない妄想に取りかれるだけだもん。自分のことなんか誰も知っちゃいない、屁とも思っていない世界に自ら飛び込めば、自分がいかにもちっぽけな存在か、嫌でも思い知らされるよ。そうすれば、開き直って、もっと成長できる。自分に限界を作っているのは、自分自身なんだ」

ナルヤは、わかりやすい言葉を選ぶようにして話してくれた。

(P114より引用)

最近、ちょっと考えていることがありまして。専業主婦という立場である自分への葛藤です。そろそろ環境を変えたい…でも何をしていいのかもわからない。失敗するくらいなら何もしたくない、でも何もしないというのも罪悪感がある。…そう思っていた私には、とても刺さる言葉でした。環境であったりを言い訳するのだけ上手になっている最近の自分を少しずつでも変えていきたいな…なんて。

サークル オブ ライフ

主人公の楓は、行きつけのバーでキングサーモンを食べながらふと思い出し、つぶやきました。

「そういえば私、来月取材でカナダに行くんですよ」

(P146より引用)

するとマスターは百年に一度の鮭の大産卵が見られることや、鮭の生態についていろいろと教えてくれます。

「四年に一回、生まれた川に戻ってくるんだよ。冬季五輪の年と一緒。だから俺は、冬のオリンピックがあるっていうと、落ち着かなくて。そりゃあもう、すごい光景なのよ。川面が全部、真っ赤に染まって」

「でも、どうして自分の生まれた川にちゃんと戻ってこれるんでしょうねぇ」

私の場合、鮭に関する基礎知識はかなり乏しい。知っていることと言ったら、それくらいしかない。

「それがさ、わからないの」

マスターが、自信たっぷりに断言した。

「自然の摂理なんじゃないか、って言われている一方、大陸横断鉄道を工事したからなんじゃないか、っていう学者もいて、いまだ謎なのよ」

(P148より引用)

そんな会話をしていたら、マサシ君が店に入ってきました。彼は、バーテンダー見習いで楓よりも7歳ほど若い青年です。たまたま公園で会ったことをきっかけに仲良くなり、それから交流を深める間に、恋人同士になりました。

時は流れて。出張のために楓はカナダへと旅立ちます。十時間近いフライトをおえ、バンクーバー空港へ。預けた荷物を受け取りに向かうと、一つ目の黒いスーツケースはすぐに出てきたというのにもう一つがなかなか出てきません。しばらくして、やっと見慣れたスーツケースが出てきました。花柄の布地はほつれかけ、ところどころがガムテープで補強されたボロボロのスーツケースです。楓は、自分でもどうしてこんなものを持ってきてしまったのか、よくわかっていませんでした。疲れた体を休めるために、楓はホテルへと向かいます。部屋に到着して用事を済ませると、急激に睡魔に襲われ、そのままベッドに横になりました。

それからしばらくして、携帯電話の着信音で目を覚まします。電話の相手は春子おばさんでした。春子おばさんは、母の妹です。家族関係に恵まれなかった楓にとって、唯一の家族といってもいいかもしれません。そして母親からの迷惑に楓と共に苦労した人でもあります。

楓の母は、一か月ほど前に施設で他界していました。そして、最後に楓に遺されたのが、ぼろぼろの花柄のスーツケースだったのです。

こんな時、私は決まって思うのだ。人間には、二種類いると。

親に恵まれた人々と、親に恵まれなかった人々だ。

この二種類の人達は、互いに一生、相手を理解することはできないだろう。親に恵まれた人達は、私のような親に恵まれなかった人間の苦しみや葛藤、悲しみを、心から感じることはない。哀しいけれど、そうなのだ。

(P169より引用)

私を産んだ母親は、ヒッピーかぶれだった。

十代の頃、勝手に実家を出てからは、音信普通だったそうだ。

自由や平和を掲げる集団に属し、世界中を転々としていたらしい。その都度、森の中に自分達のコミュニティを作り、自給自足の暮らしをしていたという。そして、私を身ごもった。当然、父親が誰だかなんてわからない。もしかしたら私には、まだ私が行ったことがないような遠い土地に暮らす人種の血が混ざっているのかもしれない。私は背が高いし、鼻も鉤鼻で、平均的な日本人より彫が深い。普通に町を歩いていても、よく外国語で話しかけられたりする。私はどこから来たのだろう。じっと、迷路の中を彷徨っている。

記憶の底の底の方で、うっすらとだが、森の中で暮らしていたことを覚えている。母親は私を抱いたまま、よく何か棒状のものを口にくわえていた。今から思うと、きっとマリファナか何かだったのだろう。それを、片時も手放さなかった。

(P173より引用)

そんな生活しかしらない楓はその中で成長し、大きくなっていきます。そんなある日、事件が起こるのでした。それによって楓の心には今も大きな傷が残っています。母親に助けを求めても相手にしてもらえず、今思うと半ば母親公認だったのかもしれないその行為が幾度か繰り返されました。そして楓はとにかく逃げ出そうと、自力でコミュニティから抜け出したのでした。

戸籍もない楓を日本で迎えるため、奔走してくれたのも春子おばさんでした。そしてそのコミュニティがあった場所というのが、カナダだったのです。

母親はその後、男性に貢ぐようになりました。日本に帰国し、親戚中に借金をし、それを繰り返しているうちにホームレスになって、道端で倒れていたところを施設に保護されたのです。そんな母親はもうこの世にいない。それでも楓は、ふとした瞬間に母の影におびえ、また男性との深い接触に対して恐怖するようになってしまったのでした。

そんなわけで今までずっと避けていたカナダ。仕事のためとはいえ、再び足を踏み入れることで、楓はこれまでの自分や、母親に対しての感情がすこしずつすこしずつ変化していくのでした。

「楓さん、オーロラって実際はどう見えるか、知っていますか?」

と、いきなり質問した。意味がよくわからないながらも、

「オーロラでしょ。ピンクとかエメラルドグリーンが混ざっている、光のカーテンみたいに見えるんじゃないの?」

あえてそんな質問をするということは、答えは違うんじゃないかとうすうす感じながらも、そう返事をするしかない。

「確かに、そんなふうに見える時もあるんだそうです。でもそれって場所ににもよりますが、十数年に一度くらいの特別な夜で、いわゆるオーロラとして僕達がイメージするのは、そういう特別な夜に写した写真だったり映像だったりするんだって。それだけに命をかけてるようなカメラマンが、やっと撮った奇跡の一枚だったりするんですよ。それで普段のオーロラはどうかって言うと、デジカメで撮ると確かに緑色っぽく写るんだけど、肉眼ではほとんど白にしか見えないんだって」

「えーっ、信じられないよ、今更、そんなこと言われたって」

私にとって、オーロラはやっぱり光り輝く虹色の帯だ。白かったら、何の意味もない。

「僕も、最初にそれを聞いた時、がっかりしてさ。もうあればイメージとして定着しちゃってるし。でも、実際に見ると、本当に、雪とか煙とか月明りみたいにしか見えないだって。これを教えてくれたのは、僕の姉貴夫妻で、旦那さんがどうしても一緒にオーロラを見たいっていうんで、新婚旅行に冬のアラスカまで見に行ったんだ。その結果が、さっき話した通りで。結局、自分達の住むアパートから見る夕焼けの方が、ずっときれいだって気づいたらしいんだよ」

(P199-200より引用)

 

一話目に比べ少し重い内容を含んでいながらも、どこか軽やかに進んでいく物語でした。ところどころ、いやそれは違うだろう…と思うところもありました。でもその考えは言ってしまえば、私から主人公への余計なお世話なんです。

円柱は真上から見ると円に見え、横から見ると長方形に見えます。それと同じで見る方向を変えるだけで見え方って大きく変わることもあります。それでその人の苦痛が少しでも和らぐのであれば、わざわざ忠告するのは野暮というもので。それに今まで真上からしかみていなくて、これは丸いものだ!そうに違いない!と信じ込んでいても、環境の変化などで視点が変わって、あぁ長方形に見えるという視点もあるんだ!と気が付くというのも、大切なことだと思うんです。

そういった変化で、新しい自分に前向きに変化していく姿がちょっと眩しくもあった物語でした。

おっぱいの森

夫の喧嘩して、家を飛び出してしまった 主人公の美子。スウェットパンツにTシャツというラフな寝間着のまま、行く当てもなく、近所の遊歩道に設置されたベンチでひとりうずくまっていると、色白でふくよかな女性に声をかけられました。

「いっぱい泣けばいいのよ」

(P222より引用)

その言葉につられたのか今まで我慢していた涙がとめどなくあふれるのでした。しばらくすると女性は美子を駅前の雑居ビルの一室へと案内します。奥からは女性を迎える男性の声がします。女性は”ダリア”と言うそうです。

思い切ってもう一歩足を踏み入れると、そこは、ボードに仕切られただけの簡素な部屋だった。私は瞬時に、産婦人科の待合室を思い出した。部屋の隅で回っている扇風機が、店長の机の上に置いてあるノートやメモ用紙をさらさらと靡かせている。

けれど、さっきは確かに男性の声がしたのに。私達に背中を向けて収納棚の上の方に手を伸ばしているのは、明らかに女の人の後ろ姿だ。あれ?と思った時、店長が振り向いた。

「びっくりしたぁ?そんなに口開けてぽかんと見られたら、恥ずかしくなっちゃうじゃないの」

(P226より引用)

ダリアに連れてこられたのは何かのお店のようでした。そして店長は男性だけど女性の恰好をしていて、名前は”オカマの早苗ちゃん”だと言います。ダリアは自分の仕事が終わるまで、ここで美子を預かっていてほしいと店長に頼むのでした。美子はその部屋で、店長とコーヒーを飲みながら談笑します。なぜかこの場所は美子にとって、落ち着ける場所だったのでした。

早苗さんは少ししんみりとして言った。

「あることがあってね」

たったそれだけを言っただけなのに、早苗さんはすでに涙ぐんでいる。けれど、有機を振り絞るように、言葉を続けた。

「私、もう生きるのがすべて嫌になったの。死んで、生まれ変わりたい、って思ったのよ。だけど、私が命を無駄にするような真似、できないじゃない。そうしたら、私は地獄に堕ちて、天国にいる息子とは二度と会えない、って思ったの。だから、私どうしても、死んだら天国に行って、もう一度息子に会いたいの。それで、家族をやり直したいの。

こんなおかしな商売してrけど、これはこれで、私にとっては、人助けのつもりなのよ。人によっては、風俗だとか、宗教だとか、今流行りの癒しだとか言う人がいるけど、私にしちゃあ、どれでもないの。必要とする人と、必要とされる人がいる。ここはその、仲介役みたいな所なの。あら、私ったらまた喋りすぎちゃったみたい」

(P240-241より引用)

早苗には妻子がいた過去がありました。しかし息子を失っていたというのです。その話は美子の胸に響くものでした。

美子はつい最近、産まれたばかりの赤子を亡くしていました。突然死で誰のせいでもありません。けれど美子は自分のせいだと思い、周りもそう思っているのだと思っています。この苦しみは誰にも理解されません。授乳のために腕に抱いていた我が子は、母乳でどんどんと大きくなっていきます。それなのに。まだ四十九日も過ぎていない美子が絶望の淵に立っていたからこそ、早苗の言葉が響いたのかもしれません。ダリアはそういった、どうしようもない悲しみを抱えている人を放っておけないのだと言います。それで美子に声をかけたのでした。

その日の夜、帰宅して横になっていた美子は胸の痛みで目が覚めました。我が子であるコウちゃんを失っても、美子の体はまだ母乳を用意し続けます。コウちゃんに飲まれるはずだった母乳を毎日、流しの中にひとりで絞り出していたのです。

翌日、美子は自らの足で、昨日訪れた駅前の雑居ビルに向かいます。そして店長である早苗に雇ってもらえるように話すのでした。そのお店は”おっぱいの森”でした。そして店長は美子に”サクラ”という源氏名を付けました。

来店した客は店員の胸の写真から指名をし、目隠しをした状態で個室へと案内されます。店員は客の趣くまま乳房を差し出し、客はそれに吸い付くのでした。客層は様々で高校生からサラリーマン、男性だけではなく女性の来店もありました。皆、背景に何かを抱え、ここにやってくるのです。サクラはその行為に性的なものではなく、我が子のコウちゃんへの授乳を思い出すのでした。

私は、ただぼんやりと突っ立っている夫の姿を、上から眺めた。「の」の字のつむじを見て、それがコウちゃんもそっくり同じだったことを思い出す。愛し合って、やっと授かった命だった。窓から下を見る私のそばに来て、店長は柔らかい声で言った。

「サクラちゃん、ここは決して、悲しみの背比べをする場所ではないのよ。ここはね、人生の疲れをいやして生まれ変わる、そういう場所なの。素敵な旦那さんじゃないの。あなたが捨てるなら、私がもらっちゃうわよ」

そして、私の肩をいつまでも黙って抱いてくれた。

(P271より引用)

 

小川糸さんの小説は、不思議なもので自然と涙がこぼれているということが多々あります。ごくごく普通のありふれたシーンでも、自分の中の何かが揺れ動かされて、自然とあふれ出るんです。この物語ではそういったシーンがいくつもありました。概要だけ見ると、我が子を失って悲しみに暮れる女性が風俗店て働いて、悲しみを乗り越える物語…なんですけれど、この物語は実際に読んでみないとわからないものがたくさん詰まっているように思います。

辛い内容だけれども、大切な人の死と向き合うという悲しみを優しく、どこか真綿のように軽やかに、まるで詩を読んでいるかのように伝えてくれる。そんな感じです。とりあえず、読んでみてほしいです。

よもやま話

小川糸さんの紡がれる文章は女性的な曲線美があるように思います。読んでいる最中は、わがままな登場人物たちにイライラしたりすることもあるのに、読み終えてしばらくしたら、それらがほんわりと中和して、まるで少し使いこんだ奇なり色の木綿に身を包むような、そんなベールが纏わっている感じ。これが好きなんです。エッセイも好きですけど、やっぱり小説もいいなぁ。