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シンプリストになりたいのです

おでかけ記録(富岡製糸場 ガイドツアー)

1/27-28で群馬を観光してまいりました。27は草津温泉を、そして28は富岡製糸場を巡りました。今回は富岡製糸場について綴っていきたいと思います。

富岡製糸場とは

明治5(1872)年に明治政府が日本の近代化のために設立した模範器械製糸場です。明治維新後、政府は日本を外国と対等な立場にするため、産業や化学技術の近代化を進めました。そのための資金を集める方法として力を入れたのが、生糸の輸出でした。政府は生糸の品質改善・生産向上と、技術指導者を育成するため、様式の操糸器械を備えた官営の模範工場をつくることに決めました。こうして富岡製糸場が建設され、現在までほぼ変わらぬ姿で残されています。

(以下URLから参照)

www.tomioka-silk.jp

私が初めて名前を聞いたのは2014年、富岡製糸場世界遺産に正式登録されたときのことでした。

古都奈良に法隆寺と歴史的な寺社仏閣に囲まれて育ち、気軽に古都京都へ行け世界遺産が身近だった私。そんな私には世界遺産=誰でも名前を知っているような古い建物や自然というイメージがありました。ですから当時は近代建築である富岡製糸場がどうして世界遺産に選ばれたのか、ピンとは来なかったのですね。

bunka.nii.ac.jp

そのままとくに調べることもなく、何かすごいんだろうけれど何がすごいのかわからないまま大人になってしまいました。

どうして世界遺産に選ばれたんだろう?明治に建てられた建築で今も残っているものは他にもあるのに、富岡製糸場が選ばれた理由って何なんだろう?

そんな疑問を抱えたままやってきました富岡製糸場

大きな建物であることは遠目でもよくわかります。まるで学校のようなたたずまいです。

入口にはレトロなポストと「旧富岡製糸場」と書かれています。そのうえによーくみると「世界遺産・国宝・重要文化財・史跡」と書かれています。なんかもう、これだけですごそうですよね。

絶対におすすめしたい ガイドツアー

ちょうど入場券を購入したタイミングで受付の方が「5分後にガイドツアーが始まりますよ」と教えてくれました。

こちらの建物の左側に受付がありましたので、そちらに直行しました。なんと料金は40分で200円!安すぎます。

受付を済ませるとカードを渡されます。これがガイドで使うイヤホンの引換券のようなもののようです。距離が離れてもよく聞こえるように専用のイヤホンを借りることができます。

普段こういったツアーにはあまり参加しない私ではありますが、今回 富岡製糸場についてほとんど何も知らない状態できています。200円で解説していただけるのであればちょうどいいと参加したのですが、これがもう大満足すぎまして。

ルートがこんな感じ。今回もグーグルマップさんから写真を拝借してまいりました。

まず最初に集合していた場所が富岡製糸場 東置繭所。黄緑色のルートを巡り、ピンク色でマーカーした部分について詳しい説明があります。

東置繭所

ぐるっと裏に回って東置繭所についての説明をお聞きします。

まず、まずです。この建物の資材、ほとんどが当時のままだそうです。明治5年に建設されてからですよ。ペンキは定期的に塗り替えているそうですが、煉瓦も扉も蝶番も柱も瓦も当時のまま残っているそうです。

そして煉瓦と煉瓦の間にある柱ですが、ずっとコンクリートか石なのかしらん?と思っていたのですが、これは木だそうです。この建物は「木骨煉瓦造」で、要は木材で骨組みが作られ、壁には煉瓦を用いる建築方法ですね。ハーフティンバーともいうそうです。

ちなみに木は石の上に乗っているだけです。特に石に埋め込まれたりしているわけではありません。木の側面を煉瓦の横幅に合わせてけずり、煉瓦がはめ込まれているそうです。この木はクッションの役割もはたしていて、今までの地震でも倒壊しなかったのはそのおかげなんだそう。

煉瓦の積み方はフランス積み。個人的には規則性があって一番すきな積み方です❀

この扉は…蝶番は…と1つ1つ説明を聞くことができます。

東置繭所を横から見るとこんな感じ。一見すると三階建てのようにも見えますが、二階建てのようです。風が通りやすいようにどこからみても窓が大きいですね。

置繭所ということですから、当然繭を置いていたわけですが、どのくらいの繭が置かれていたと思いますか?

正解はなんと32トン。約8000袋の繭がこの東置繭所に保管されていました。そしてこの置繭所、実は西にももう1棟ありまして、合計すると62トンもの繭が保管されていたことに…。もう多すぎてそれがどのくらいの量がわかりませんね。

ぐるっと表の方に回って、受付前に通った場所へ。こちらはアーチ部分にある石ですが「明治五年」と書かれています。要石と呼ぶそうです。本当に明治5年なんだ…と歴史を感じます。

建造物の主要資材は石・木・煉瓦・瓦。柱部分でも使われている杉や礎石は群馬県内で調達されたそうです。

ですが明治5年ですとまだ煉瓦というものは一般的な建材ではありません。東置繭所にはふんだんに煉瓦が使われていますよね。ではどこから調達したのか…といいますと、フランス人技術者が瓦職人に作り方を伝え、瓦とともに焼き上げたのだそう。そのほかの鉄枠のガラス窓や↑の写真でも使われている観音開きの蝶番はフランスから輸入されました。

ここでちょっと余談なのですけれど。最近鉄道関係の知識がグングン増えてきている私。ここでちょっと気になることがありました。

この富岡製糸場から約40㎞はなれたところに埼玉県深谷市があります。富岡製糸場のゆかりのある人物である渋沢栄一の出身地として有名な場所であり、また深谷は煉瓦のまちとしても有名な場所です。誰もが見たことがある東京駅の駅舎で使われている煉瓦もこの深谷市で作られたものです。深谷駅も「ミニ東京駅」と呼ばれ、東京駅とそっくりな駅舎だと聞きます。(深谷駅は煉瓦ではなく、模造したコンクリートだそうですが)

この深谷の煉瓦と富岡製糸場の煉瓦ってつながってるんじゃない?と思って調べてみたところ、なんと煉瓦をつくるために呼ばれた瓦職人さんは深谷市(当時は明戸村)から来れれていたそうです。深谷で採れる土から瓦や煉瓦が作られていたとのこと…

「ここでつながるのかー!!!」と一人大興奮なのですが、夫にはあまり響かず…ここでこの感動を供養したいと思います。

繰糸所

繰糸所とは繭から糸を撮る作業が行われた工場です。こちらも国宝に指定されています。

前からみるとこんな感じ。

学生の頃によく見たこのフダ。ここで再会しようとは。

入ってみるとこんな感じ。こちらはなんと140mもの長さがある巨大工場なのです。両サイドに器械がありますが、これがズラァーーーーーーっとずっと続いています。圧巻です。300人の工女さんが一度に作業をすることができたんだそう。

↑の写真の画面上部にある黄色いL字型の部分、先に大量の繭が入っていて、補充するのに使われたそう。

手前部分は器械にビニールがかかっていますが、奥の方は器械部分も見ることができます。ガイドツアーでは奥部分にはいきませんので、後ほど見てみたのですが…なんかわからんけどすごい!

↑画面下部の肌色の皿部分で繭を湯がいて中段で糸を巻き上げ、上段に行くにつれてこよられて糸になる…という仕組みだと思います。

ちなみに繰糸所の屋根は2段になっています。これは屋根裏部屋があるとかではなく、蒸気を逃がすため。換気するための窓なので、内側から開閉することができるようです。繭から糸をとるには湯がく必要がありますから、蒸気が充満しないためには必要な設備だったと思われます。

首長館(ブリュナ館)

富岡製糸場を設立するにあたって、計画・建設・創業のすべてにかかわったポール・ブリュナ。フランスで生糸技術者をしていたそうです。

そのポール・ブリュナが家族と住んでいたのがこちらの首長館。とても日当たりの良い場所に建てられ、周囲はベランダで囲まれ、窓も大きく風通しもよさそうです。しかし、よくみると随分と床が高いことがわかります。これ、なんと地下室があるからなんだそう。

通常非公開ですが、煉瓦つくりの地下室があり、食料品の貯蔵庫として使われていたと考えられています。ポール・ブリュナはここに赤ワインを貯蔵していたとも言われているそうです。

ブリュナが去った後は、工女さんたちの学び舎として使われ裁縫や行儀作法、生け花なんかを学ぶ場所として使われたようです。よくみると、ところどころで資材が異なっているところがあり、増設・改造がされてきたことがよくわかります。

裏からブリュナ館をみるとこんな感じです。なかなかに大きい建物ですね。

この他にも、検査人館や女工館、診療所について、更には下水の処理について、工女さんの待遇はどうだったのか、お給金は…と様々なお話をお聞きすることができました。40分があっという間。わかる範囲であれば質問も受け付けてくれるとのことで、皆さん様々なことを質問されていました。

どうして富岡製糸場世界遺産に選ばれたんだろう?と思っていましたが、ツアーガイドをお聞きしてたらよくわかりました。日本の近代化には欠かせないというだけでなく、日本の技術が世界に及ぼした影響はとてつもないこと、さまざまの要因で世界遺産に選ばれたのだな…と感動いたしました。

時間が許すのであればぜひガイドに参加してみてほしいです。

次回はツアーガイドでは巡らなかった場所について綴っていきたいと思います。では、また❀