SIMPLE

シンプリストになりたいのです

言葉選びについて、少し考えてみる

普段何気なく使う言葉で、自分達にとってはさほど深い意味を持たない言葉、むしろネタ的なライトの意味合いを持つ言葉でも、聞き手によっては不快であったり、深い意味を持ってしまう。そんな言葉ってありますよね。

今、こうして文章を書く日常をおくるなかで、ふと気になってしまったことがあります。今日はそれについて私が思うことを綴ってみたいと思います。

小川糸さんの『真夜中の栗』を読んで…〇〇難民

小川糸さんの『真夜中の栗』というエッセイを拝読しました。そのなかに「さまよう人たち」という難民の方々についてかかれたお話があります。

日本にいると、難民という生き方を強いられた人たちが遠い存在に思えるけれど、ヨーロッパでは、もっと身近な問題だ。私は、最近日本語で良く見聞きする、「ランチ難民」とか「買い物難民」とか、○○難民という表現が気になって仕方ない。

もっと、当事者の苦悩に寄り添うべきじゃないだろうか。そして、自分は幸い、日本という国に生まれて恵まれた生活を送っているけれど、もしかしたら自分も難民にならざるをえなかったかもしれない。そのことを忘れてはいけないと思った。

(P117~118より引用)

この○○難民、今も使われている場面を目にしますが、本来「難民」とは、どういう意味なのでしょうか。

なんみん[難民]①〔思想や人種などのちがいで〕迫害のおそれがあるために、他国にのがれてきた人たち。②〔災害や戦乱などで〕他国にのがれてきた人たち。

〔俗〕〔サービスが受けられなかったりして〕不自由している人たち。例)介護難民、〔災害時の〕帰宅難民

(三省堂国語辞典 P1126)

あくまで1つの辞典からの考えですが、このように見ると○○難民と軽く使うのには、小川糸さんのおっしゃる通り違和感があります。言葉の本来の意味を無視して、雰囲気だけを持ってきてこじつけて後ろに繋げたような、そんな感じ。

ネットミーム

つい最近、とある映画についてのニュースを拝見しました。アメリカでの一部の人間たちが盛り上がっていたネットミームに対し、映画の公式が乗っかってしまったというような内容です。タイトルについてはここでは言及しないでおきます。そのネットミームの内容というのが、その映画の登場人物たちが、原爆のキノコ雲の前で笑顔でポージングしている…というものでした。

なんというか、ネタにしていいものと、よくないものってあると思うのです。日本人にとって、絶対にネタにはしてほしくないことをして喜ぶ人がいる。そして、それを映画の公式も面白おかしく便乗する。個人でする分には、もう好きにすればいいと思いますけれど、公式が乗っかるというのは、さすがに救いようがありません。怒りというよりも、冷ややかな目で見てしまうというか。

映画の内容自体は「女性差別について」と耳触りの良いことを言っておきながら、「人種差別について」はもっとやれー!と公式が認めているようなもの。気になっていた映画ではありますが観に行かないと決めました。ある意味、ボイコットですね。

ふと、手を止める。

そんなことが重なって、もやもやとしていたある日。ここで文章を書いていた時でした。つい「飯テロで」と書こうとしている自分に気がついて手を止めました。勿論悪意は全くありません。それでも「〇〇テロ」っていう言い方はどうなんだろうか?と。

そこでいろいろと思考をめぐらしてみると意外とこういった言葉が溢れていることに気が付きました。

小川糸さんの本で読んだ『○○難民』や、ネット上で自分が「好きではない」ものや「受け付けないもの」に対して『地雷』という言葉。深く考えずに使ってしまうことはあります。きっとこれをみて傷つく!という方はいないかもしれません。それに言葉狩りをしたいわけでもありません。けれど、それを使う自分はどうなのだろうか…とふと思ったのです。

人の振り見て我が振り直せ

自分が選ぶ言葉1つ1つは吐き出してしまえばそれはもう、口に戻るということはありません。それは行動も同じです。そして、ここでの文章も。一度書いて、インターネット上にアップされてしまえば、それはもう取返しのつかないことです。勿論、修正することは可能です。けれど、もしかしたら誰かが私のその言葉をスクリーンショットしているかもしれないです。

某映画のネットミームのように、私はなりたくない。

だからこれからは自分が使う言葉はもう少し顧慮していきたいと思います。もしかしたら、ぼーっとしていてそういった言葉を選んでしまうことがあるかもしれません。少しずつ、そういった言葉を使うことを減らしていけたらなぁと思います。

そのためにも、言い回しができる語彙力をつけないといけませんね!