SIMPLE

シンプリストになりたいのです

本・鉄道デザインの心 の感想

以前、山梨にお邪魔したときのこと。帰路の際に 富士山ビュー特急 という電車に乗車しました。

yu1-simplist.hatenablog.com

(山梨旅行に関しては↑こちらから)

深みのある赤で塗装されたシックなボディ、そして美しさと温かみを兼ねそろえた内装。私は鉄道に関しての知識はほとんどありません。しかし、自らの琴線に触れると言えばいいのでしょうか、求めていたものを見つけたようなそんな気持ちになったのです。

鉄道好きの夫は乗車して間もなく「さすが水戸岡鋭治さんのデザイン。みたらすぐわかる」と申しておりました。それくらい、個性のあるデザインということだと思います。

三十代半ばになって最近よく思うのは、自らの琴線に触れるものは年々減ってくる ということ。ですから、そういった数少ない物事をスルーせずに大切にしたい!

…ということで。水戸岡鋭治さんの『鉄道デザインの心 世にないものをつくる闘い』という著書を読みました。感想や気になった部分を拾いながら綴っていきたいと思います❀

デザイナーとアーティスト

Wikipedia水戸岡鋭治さんのことを調べると冒頭に”日本のインダストリアルデザイナー(工業デザイナー)、イラストレーターである。”というふうに記載があります。1947年に岡山でお生まれになり、御年77歳。これまで車両デザインだけでなく、駅舎などの建築物のデザインをされています。

水戸岡鋭治 - Wikipedia

「デザイナー」と聞いて、みなさんはどのような印象を持たれるでしょうか?

(P002より引用)

本書はこんな一文から始まります。デザイナーのイメージというと、私がパッと浮かぶのはファッションデザイナー。パリコレなんかで時代の最先端をいく洋服をデザインする方々が浮かびます。アーティスティックで、センセーショナルで、常人には理解できなくて…みたいな雲の上の人物といった印象でもあります。

デザイナーの仕事って、かっこいい、優雅なものではありません。ひらめきだけで、楽しさだけで、感性だけで、ささっと線を1本描く。アーティストのような仕事ではありません。自分の中からわき上がってくるものを作品にするアーティストとは違うのです。

デザイナーというのはもっと手間ひまかかる面倒なブルーカラーに近い仕事です。闘いと説得の連続です。顧客の要求を汲みとり、交渉し、妥協し、予算を管理し、値切りし、請求書を発行し、地べたを這いまわってものを創り上げていく。アーティストというより、むしろ技術者、設計者、いや職人の仕事に近い、つまり”ものづくり”の仕事なのです。

(P002より引用)

デザイナーって、完成図のイメージ画を考えて絵に起こすのようなお仕事と思っていたのですが、それだけではないようです。もちろん、そうではない人もいるでしょうけれど、あくまで水戸岡鋭治さんは職人気質のデザイナーということですね。

だから、できたものを”作品”とは呼べない。僕自身は”商品”と呼ぶんです。ただ、全てが商品になるわけではありません。うまくできれば商品になれるけど、そうでなければ”製品”でしかないのです。ただ必要な条件だけを組み合わせて、要求仕様をクリアしたものは”製品”です。それにプラスアルファの何とも言えない、みなさんが喜ぶような、楽しいような、時代を超えるような、錯覚を起こすようなマジックがかかったものだけが”商品”と呼べます。

(P002-003より引用)

作品は別として、商品と製品の違いって特に意識していませんでした。言われてみると付加価値的なものがあるのかないのか…違うような気がします。確かに私も、素敵な雑貨屋さんにおかれた可愛らしい小物やインテリアを”製品”とは呼びません。この感覚の違いを、しっかりと明確にされ、言語化されているところが、そもそもの意識の違いなのかもしれません。

デザイナーというのは、顧客と職人とをつなぐ仕事です。絵はそのためのコミュニケーションのツールです。

(P003より引用)

文字だけの企画書だとピンとこない、図面だと図面を読める人にしか通じない。しかし絵は誰にでもそのイメージを共有することができます。そのため絵を”絵言葉”という言葉で表されています。

絵はデザイナーの仕事を進めるための言葉です。手段であって目的ではありません。アーティストが描く絵は目的であって手段ではありません。だから、デザイナーは絵を描くけれど、アーティストではないのです。

(P005より引用)

JR九州との闘い

JR九州とはよく闘いました。25年間の闘いでした。よくクビにならなかったと思いますね。僕はJR九州鉄道車両のデザインをたくさんしています。

(P008より引用)

水戸岡鋭治さんの提案に対し、直接現場に関わっている方や営業の方から大抵反対意見が出るのだそう。逆に、上層部は会社のおかれた立場を理解しているので、会社を守るために あえて”水戸岡さんの選んだ道”に賛同してくれるそう。

最大の戦場は素材選びです。木を使うこと、ガラスを使うこと、革を使うこと・・すべての提案は猛反対を食らいました。

(P008より引用)

水戸岡さんのデザインといえば、木目調で統一された車内に、美しいガラスによる間仕切り…といったイメージですが、それらを使うのにも苦労があったのだそう。

そもそもどうして木やガラスや革を使っている車両って少ないのでしょうか?少し考えてみました。

例えば、やっぱり金属より木材の方が燃えやすいですよね。何かしらの原因で車内で火事が起こってしまったとき、木材であれば燃え広がりやすく危険です。それに木材のテーブルがあったとして、そこにスマートフォンを落としてしまったらキズを付けてしまいそう。そこでジュースをこぼしてしまったら、シミになってしまうかもしれません。

ガラスだと、ぶつかって割れてしまったときに破片が飛び散ってしまうと危険です。それにプラスティックより重量もありそうなイメージです。

革だと、均一な素材を手に入れるとなるとコストがものすごく掛かりそうです。つり革くらいの小さな部分であれば問題なさそうですが、シート部分となると結構大きな革が必要です。牛革を使うとして、もとは牛ですから生体なわけです。ケガをしてしまう事もあれば、シワが入ってしまうこともあります。そういった革の個性が入っている部分って、均一的な革が並んでいる中でだと悪目立ちしてしまうのかも…?それなら合成皮革とかの方が、ずっと楽そうです。

このように考えると、確かに他の素材の方が安全性とか重量とか加工性とかコスパとかいろいろクリアしてくれそうです。けれど、水戸岡さんの考えはそうではありません。

まず木からいきましょう。僕は車両の床は木にするべきだと思います。木は人間の体温を保ってくれるので、人間にとっては心地いい、自分を守ってくれる素材なんです。土も、紙も、草も、わらも、竹も、石もみんなそうです。僕たち日本人にとってもともと、一番心地いい素材なのです。

鉄やアルミはそうではない。熱伝導率が高くて体温を奪ってしまうので、あまり心地よくないんです。

(P010より引用)

水戸岡さんの意見は経済優先で考えると、確かにナンセンスかもしれません。でも乗客である私たちからすると どうでしょう?心地よく乗れる車両の方が嬉しいですよね。冬場、車内にある金属製の手すりに手が触れて あまりの冷たさにびっくりすることがあります。これが木材だったら、もっと優しい温度だったんじゃないかなぁ…と。

どっちを優先するかという問題です。僕はガラスもアルミも使います。それぞれに適材適所で使うべき場所があります。でも「天然素材第一」という大方針は譲れません。これは大原則です。

(P010より引用)

それでもやっぱり”安全性を重視しなくていいのか”という点は重要ですよね。でもよくよく考えてみると、本当に木材って燃えやすいのでしょうか?最近っていろいろ技術が進んでいるわけで、安全な素材で 燃えにくくなるようなコーティングをした木材であれば問題ないようにも思います。

「安全のために燃える素材を使わない」というのは正しい。しかし「安全のために木材を使わない」というのは正しくない。問題は安全かどうかです。木かどうかではないのです。

(P012より引用)

技術の進歩とは本当に目覚しいものです。鞄屋で働いていた際、スーツケースの販売もしておりました。スーツケースの成長は本当に日進月歩でした。常に最軽量が更新されるし、機能も充実していくし、フレーム部分は軽いだけでなく頑丈になっていくし…そしてそれがリーズナブル。小さなスーツケースひとつでも、それだけ日々成長していくのですから、車両を制作する技術の発展もすごいのではないでしょうか。

彼らは「燃えないものを使う」という要求を、自分で勝手に「木を使わない」に読み換えてしまっているのです。技術で対策すればいいという大原則は、「燃える」だけでなく「傷つく」「腐る」についても同じです。

(P012より引用)

それに加工や技術だけが全てではありません。

特に木の場合、耐久性の意味、傷の意味が違ってきます。プラスチックや金属は傷がついたらマイナス点にしかなりませんけど、木に傷がついたり、色が変ったりする経年変化は”味”と受け取れるんです。つまりプラス点です。そう思って前向きに使えばいいんです。

(P128より引用)

木も革も使い込めば使い込むほど、艶や色の深みが増しますよね。最初は角のあったところもどんどんと丸みを帯びていく。これらは経年劣化ではなく経年変化ととらえることができると思います。

本書では様々な技術を用いて木材、ガラス、革を使う方法が紹介されています。こんな技術があるのか…とか、そんなところまで作るのか!と勉強になりました。

このようにJR九州に盾突くのにはわけがあります。僕は本当の顧客に尽くしたいのです。この25年間、ずっとJR九州の仕事をやってきました。ただし、JR九州は雇い主ではありますが、本当の顧客ではありません。本当の顧客は最終ユーザーです。列車に乗るお客さんです。子供やお年寄りなどの利用者です。それから車内で働くスタッフも大切です。

(P026より引用)

企業が目先の経営のことだけを考えると、コスパの良い素材やデザインを選んだほうが良いのでしょう。けれど、エンドユーザーが納得していない製品ばかりでは、その企業が長く経営を続けていくことは難しいかもしれません。

利用者から見たときに、この値段でちゃんと価値があるかどうかで勝負します。予算にあった、適正なものができているのか、というのが一番のポイントだと思います。公共のものの場合は特にそうです。JR九州にとってはわがままな、難しい面倒なことを、採算の取れないことを僕は言っているわけです。「そんなことができたら世話ないよ」と言われそうです。

この点はJR九州に確認してあります。「JR九州側に立たないでデザインしていいですか。僕は利用者の代表としてデザインしたいのです」とお願いしました。JR九州は「いいです」と答えた。それを前提に発注してくれるんだからありがたい。

(P026より引用)

素材の話のときに「心地よさ」にとても重きを置いていることが書かれていましたが、それも利用者のため ですよね。同じ値段でも、〇〇円払ってこれかぁ…としょんぼりするより、〇〇円払ってこんなに!と嬉しくなる方が良いに決まっています。もう1回があるかどうか はこのとき しょんぼり だったのか、嬉しかったのか で大きく変わってくるでしょう。もちろん企業としては採算が難しいこともわかっています。この帳尻合わせが難しいポイントなんだろうなぁ…と思います。

自分たちの期待しているものとか、想像しているものとか、思っているものと違って、より心地よかったり、楽しかったり。そういうものが次々と目の前に現れてくれば意識が変わってくるんです。生意気ですけど、意識を変えるような、人生観を変えるような、価値観を変えるような「もの」や「こと」や「ひと」が絡むような装置ができれば、それはすごいなって思います。

(P026-027より引用)

意識が変わるって、なかなか難しいことですよね。「電車とはこういうものだ」という固定概念を覆すような何か。そう簡単にできることではないと思います。

(前略)…、といった技術を開発することで、より本来の木製に仕上がりを近づけました。それに枠を付けたり、モールを付けたりという、クラシックに表現するのは今回が初めてです。

「枠を付けることで何かいいことがあるのか」って、本当のところは僕も分かりません。「これは様式だから」と言っても、分からない人には分からない。ただ、僕たちの世代は「高級なものとか贅沢なものはこういうものだ」と認識しています。

壁一枚見たときに、白い壁もあれば、黒い壁もあれば、木の壁もあれば、額絵もあれば、タペストリーもあれば、窓もあればという、型や様式の”言語”、色とか素材の”言語”をたくさんちりばめてあればあるほど、人はやっぱり心地いいし、楽しい。同じ言語でできた空間とは違うんです。旅をするとか、癒される時間を過ごすときに最先端の空間なんかいらないです。

(P014-015より引用)

少し戻りますが、こんな描写がありました。

確かに”言語”が多いことで、癒され楽しい人もいます。逆にミニマリスト的な空間が好きな方には、”言語”が多い事でうるさく感じてしまう人もいるでしょう。これはもう感性だから仕方ありません。

ですが、美学と表現すればいいのでしょうか。何をもって美しいか考え、デザインして、理想を追求して表現するというところは、どんな空間を好む方にでも通じるものなのではないかなって思います。”意識が変わる”瞬間って、こういう美学に触れたときに訪れたりするのかなぁとふと思いました。そして目に見えるものだけじゃなくて、その奥にあるものを感じ取れるようになるためには、やっぱり知識って必要なんだろうなぁと。

お客様が応援してくれて「面白いからもっと頑張って」と言ってくれると、それによって仕事がもっとやりやすくなるんですね。たくさん買ってくれたり、申し込んでくれたり、それがどんどん期待値自体を変えていって、今まで以上にステップアップしていくことになる。そういう中で、期待以上のものをつくっていく原動力は、人の情熱と意識なんです。

意識は思っているだけではできてこない。意識ということは考えるっていうことですから、確実に考えて、意識を活字にするとか、言葉にするとか形や色にするとかしないと人に伝わりません。伝わらないとものがちゃんとできてこないし、人も動かないから、期待値も超えられない。だから、意識のレベルが非常に大事です。

(P036-037より引用)

熱血だなぁ…と思う自堕落な私と、かっこいい!と思う2人の私。私はどうしても やらない理由を探してしまう人間なので、こういうところとかを参考にしたいなぁとしみじみ思いました。

職人

ななつ星」では約100の匠にお願いしました。僕がJR九州に盾突いたように、彼らも僕に盾突いたね。僕は盾突かないで「100パーセント命令に従います」なんて言う職人は信用できません。

(P040より引用)

この本の中でも特に印象に残ったのが、この太字にした部分。序盤で”商品”と”製品”の話がありましたが、製品を作る職人では「ななつ星in九州」という高級なクルーズトレインを完成させることはきっとできなかったでしょう。

”職人”と言っても世間では”芸術家”として名の通っている方も大勢いらっしゃったそうな。制作を進めていくなかでの主導権はどちらに?という事ですが、時には理想の半々とはならないことも。

作家としての意識が強すぎて、60パーセントぐらいから引けない人とは仕事はやりにくいですね。作品とは違って、やっぱり良質な道具なんで、使い勝手とか機能性も考えてくれないと困ります。

「自分の造るものが多くの人に使われると嬉しいことだ」っていうふうに思ってくれる人とは仕事ができます。ちゃんと主張はしてくれるけど最後には妥協する。正しい妥協、美しい妥協、積極的な妥協。そういう納得のいく妥協点を見つけてくれる人は助かりますよね。

「分からない人は使わなくていいんだ」という上から目線の”芸術家”は困るんです。僕らが頼もうとしている職人は、みんなデザイナーでもあるわけです。

(P041より引用)

本書では水戸岡鋭治さんがこれまで出会ってきたデザイナーであり職人であり、芸術家でもある人々のお話しがいくつも紹介されています。…といっても、世界的に有名な〇〇さん!とか大企業で××を作った△△!みたいな感じじゃないんです。

井上産業は5人ぐらいでやっている小さい会社ですから、JR東海さんのような超大手鉄道会社とはなかなか付き合えないでしょう。すがたかたち や ラットエンジニアリングに至っては1人です。

例えば、JR東海日立製作所に発注する。日立は商社を挟んでメーカーに発注する。そのメーカーが井上産業みたいな5人でやっている企業だと、商社に相手にしてもらえないんでえす。規模が小さいだけで信用がないとされてしまう。だから一般的に少人数でやっている人の、作家的、作品的なものは、鉄道車両に乗らないんですね。ある程度量産した、実績のあるものしか使わない。この辺の会社が鉄道車両メーカーと取り引きすることは、僕のようなデザイナーが間に入らないと無理なんです。

(P054-055より引用)

5人で経営されている会社や、1人で活躍されている職人さんが作りだす”商品”だときっと量産することは難しいでしょう。大手企業が悪いというわけではありませんが、やっぱり大きな工場で量産できるものって”商品”というよりは”製品”に近いのではないでしょうか。車両という大きな”商品”を作るには、やっぱり小さな”商品”を集めないといけないと思うんです。扉であったり、照明であったり、椅子であったり、テーブルであったり。それらがもし”製品”だったら、きっと車両も”製品”になってしまうのではないでしょうか。

ある会社で決定権を持ちながら、それでかつ、その遊び心を持ってる人ってそんなにたくさんはいないんです。そういう出会いがない限り、こういう仕事はできないのです。

だから人との出会いで自分のデザインが変っていくって感じですね。私自身がどうかというよりも、出会う職人さんとか。そいう人によって自分の表現方法はいつも変わっていくってことです。

(P062より引用)

ここでふと思い出したのはピカソのことでした。別段ピカソに詳しいわけではありませんけれど。

ピカソって聞くと一番に思い浮かぶのは「泣く女」などのキュビズムの時代の絵画ではないでしょうか。一見はちゃめちゃに見える絵画で、大した画力ないのでは?なんて思ってしまいますよね。でも実はとても写実的でアカデミックな絵画を描く才能のある人なんです。ピカソは周囲との人間関係による心のバランスや、彼の試行錯誤の結果 画風がどんどんと変わっていきます。そのため青の時代や薔薇の時代、キュビズムの時代…と時代区分がなされているわけですね。

なんとなく この話が浮かびました。人に歴史あり なんて番組が昔ありましたが、まさに だなぁと。

”製品”でなく”商品”を造る

僕は商品を造ることを心がけてきました。日本のメーカーの方が造っているのは多くの場合が”製品”であって、”商品”ではない。”製品”を造るのはそんなに難しくないですよ、答えが見えているんだから。だって値段はこうしようとか、この重さにしようとか、この機能付けようとかって全部分かっているわけですから。要するに試験勉強と一緒ですよ、答えが存在している中でものを造っているんですよ、予測できる範囲で造ればいい。

ところが”商品”は、答えがないんです。何がヒットするか分からないけど、分からない中で自分たちが切磋琢磨して、世界の中で誰もやってないものにぶつかっていくっていう作業ですから、答えがないんですよね。そういう挑戦をする勇気を失ったんですよ。いつも答えが存在することにしか取り組まなくなってしまったんじゃないでしょうか、いつの間にか。

(P072より引用)

映像作品や物語のなかで商品開発をするシーンでは重役が「市場調査のデータは?」みたいなことを言っているイメージがあります。実際にそういう仕事をしたことがないので分かりませんけれど。やっぱりデータ上、これは大丈夫だろうと思われたものが、市場に出回るわけです。企業としては、売り上げがとれないと困りますから、当然と言えば当然ですけれど。そうした結果、市場に出回るのは”製品”ばかりになってしまいます。

以前日本から世界に飛び出していったものって、みんな高品質ですよ。ソニーの「ウォークマン」にしたってクルマにしたって、カメラにしたってみんな高品質で、その当時は世界で最高のものを造って出していたわけじゃないですか。むしろ、今の方が高品質のものを造ろうとしてないように思えます。

そのころは何が高品質だったかというと、機能的にもデザイン的にもすごい、そういう価値の高いものを造っていたわけです。世界でも誰も造ってないものを造った。今は、日本で造っているものも韓国で造っているものも、中国もヨーロッパも、変わらないじゃないですか。そこにもないオンリーワンのもの、ではないんです。

研究者や技術者だって本来はデザイナーです。機械の設計や製造に限って話をすること自体がおかしいんで、機械であろうがほかのものであろうが、造る人であろうが売る人であろうが、思い・考える人はみんなデザイナーですから。ある見事なものを考えてそれをお客さんに渡す、そのときに満足感と感動を提供する。お客さんは費用対効果で得した感じになる、という価値がなくてはいけないと思います。

(P073より引用)

本書は10年程前に出版されている本なので、この”以前”とは更に以前です。ですが、大変おこがましいのですが、分かるわぁ…と。以前、私が鞄屋で働いていたときのことを綴ったことがありました。(以下のURLです)

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最初は”商品”を販売するショップだったのが、いろいろあって”消耗品”、要は”製品”を販売するお店になってしまった…というお話しです。製品を悪者にしたいわけではないのです。私だって製品にはお世話になっていますし、時と場合によっては製品の方が良いんです。けど、どうしても販売員側としての”達成感”のようなプラスアルファは”商品”にはあっても”製品”にはなかったんですよね…。

いいものは壊されない?

序盤に木やガラス、革を素材として使おうとすると、大抵反対されるというふうにありました。反対意見の中には、どうせ子どもに傷をつけられる、汚されてしまうといった意見もあったようです。

木も本革も、誰も汚さないですよ。だって心地よく、かっこ良く、ぜいたくだから。期待値を超えているんです。大人のそういった思いが、子どもには伝わるんですよ。それを、どうせ不良だからって、こんなもんプラスチックでいいやって考えて造ると、やられますよ。「バカにしてんのかこいつら」っていうふうに、もう本能的に感じちゃうんです。

そこは、ちゃんと伝わると私は信じています。信じない人はやられるけど、信じていればやられない。観念的かもしれないけど、そういうもんだと思います、人間は。

本物の貴重な工芸品を使う意図は、顧客の目を楽しませることだけではありません。壊したり、傷つけたりしたら大変、と思う気持ちから丁寧に使う作法が生まれ、それを使う人が美しく見え、質の高い作品として映えるという関係が生じるのです。つまり、顧客も自身の度を上質なものにしていく上での役割を担っている、という考え方です。

(P084-085より引用)

1つ前にも書きましたが本書は10年前の著書。今は少し変わってきてしまっているようにも感じます。大切に作っても壊してしまう人…増えたように感じます。それが自己顕示欲なのか、宗教的、社会的な理由なのかはわかりません。けれど歴史ある建物に落書きしたり、美術館で展示されている作品を故意に壊してSNSにその動画を流したり…私には理解できない所業ですけれど。その建物や物の背景を考えられない人とか、それを壊してしまうとどうなるのかを考えることすらできない人が増えたのか、それともニュースになることが増え世に出るようになっただけなのか…どっちにしても悲しいことです。

性悪説に立ってしまうと、何もできなくなってしまいますよ。全部守りに入ってしまって、つまらない方向に行く。素材も形も色も、全て安全で無難な方に行くんですよ。そうすると個性のない量産品になっていってしまう。特注品にする必要は全然ないし、洗面台もプラスチックで十分、柿右衛門なんか要らないっていうようになってしまいます。

(P086-087より引用)

今まさに、そういう時代になりつつあるのかなぁなんて思ってしましました。

毎日使うもの だからこそ

ななつ星」はお客様が高いお金を払って、自分で選んで乗ってくる車両ですが、そうじゃない普通の電車は、好き嫌いにかかわらずみんなが毎日否応なく乗るものです。どれだけデザインの豊かさがちゃんと感じられるものとして提供できるかどうかが大切です。だから通勤電車でも手を抜かないことが大切なんです。

(P095より引用)

普段の通勤・通学の電車の素材をイメージすると、やっぱりプラスチックや金属であって木材ではありませんよね。企業としてもどれだけ木材が良いと分かっていても、やっぱりメンテナンスとか加工とかが大変そうですから、ただでさえ劣化の早い通勤・通学電車に木材は難しい。我が子が使うものだから心地よいものをと思う意見と、一社員としてコストのよいものをと思う意見と。どちらも理解できます。

幼い頃に経験したことを常識だと勘違いしてしまうことってありませんか?それが実は特別なことなのに、日常になじんでいるから、それが普通だと思ってしまう。

九州の方が羨ましいなと思うのは、日常のなかで自然と水戸岡鋭治さんのデザインした車両を使うことができること。幼い頃から、良質な木やガラスや革でつくられて商品に囲まれて、それが当たり前だと思い込むことができるということ。

僕が大事に思っているのは、世の中の底上げをするために公共の道具をどこまで質の高いものにするかで、そう思って仕事を進めているわけです。

(P133より引用)

個人の家がどれだけ素晴らしくても、企業のエントランスがどれだけ美しくても、それが”全ての人”に届くことはありません。誰しもに”届けられる”とすればそれはやはり公共のもの。受け取るか、受け取らないかは別として。ですから水戸岡鋭治さんのデザインは車両だけでなく、駅舎やその周辺の まちづくり へと続いていくのですね。

私は底上げ とは 教養をつけることだと思っています。日常的に良いものに触れる、例えば音楽や芸術。どちらも大切な教養です。良い車両を作り、それを公共交通の車両としてを使うことで、自然と教養が広がる。教養が広がれば、それはまちを良くするでしょう。更に まちづくり が広がれば企業や人々を潤すことができる。良い連鎖だと思います。

僕が提案したものを面白いと思って決めてくれるからうまく行ってるけど、これ、ほかの大手鉄道会社に持って行ってもみんな却下でしょう、きっと。こんなぜいたくなもの造ってどうすんだよお前って、言われると思います。現場からも、こんなもの誰がメンテナンスするんだって、きっと言われて、みんな反対でつぶされちゃうでしょう。

だけどJR九州はリーダーが決めてくれる。JR九州の場合は、「面白いよねって社長は言ってますけど、水戸岡さんやってみましょうか」って、そう言ってもらえるからやってこられたんです、僕は。それはもうリーダーにつきる。リーダーがJR九州を地方区から全国区、世界区にしているわけです。

それは、思慮深い哲学を持ち、歴史学と経済学を分かった人だからできるんですよ。この3つがなければ、ちゃんとした仕事はできないですよ。普通は経済学だけしかやってないから、全然面白くないですよね。哲学と歴史学が、そしてちょっぴり笑いがないとね。

福沢諭吉が言っているんです、昔。「学問ノススメ」の中に、取りあえず何といっても哲学、歴史学、経済学の三つを以てちゃんとしないとものごとはできないんだ、って書いてあるんですよ。そういった総合教育をしているかどうかの問題ですね。

(P152-153より引用)

私は別にリーダーになりたいというわけではありませんが、人として深みを増すために哲学や歴史学、経済学を学ばねばなぁ…とおもっておりますよ。特に歴史。学びたいと思っている今がチャンスですからね❀

たくさんピックアップしたように見えますが、これはほんの一部です。このほかにも勉強になることが数多く書かれていました。鉄道の歴史として興味深い点、もの作りとして参考にしたい点などなど…まだまだたくさん書かれておりました。

感想

ページを閉じて一番に思ったこと。それは「私もこんな職人さんになりたかった」でした。

私は何か才能があるわけでもなければ、何かを成し遂げたわけでもありません。ロールプレイングゲームでいうところの村人Dが関の山でしょう。決して勇者のパーティに入ることのない、凡人の1人です。

これは別に悲観しているわけではありません。だって村人には村人なりの大切な役目がありますから。でも勇者パーティの活躍を目にしてしまった日は、彼らに羨望のまなざしを向けてしまうものなのです。私はきっと何か才能がある人や、何かを成し遂げた人になりたかったのです。

この現実世界に勇者はいませんが、私から見てそれに準じた人ならたくさんいます。芸能人やスポーツ選手、大成功した実業家や、人気クリエイター。あげだしたらキリがありません。そんななかでも、私が特に素敵だなと心惹かれるのが匠の職人です。優れた技術を有し、それを存分にいかせる人。何かを突き詰められる人って、かっこいいなぁと思うんです。水戸岡鋭治さんは間違いなく、私が思う「かっこいい人」でした。

ちなみに私が思う「かっこいい人」ですが、他にはジブリ宮崎駿監督とかがいます。本書を読んでいると、水戸岡鋭治さんの仰っていることと宮崎駿監督が仰っていることがなんだか似ているような気がしました。活躍されている世界は違うけれど、もしかしたら似た何かを持っていらっしゃるのかもしれない…なんて考えてしまいました。実際は全然違う方だと思うんですけれどね。

2015年6月29日に初版発行がされていますので、今から9年ちょと前の本です。約10年となると、今現在の社会とは合わないかもと思う部分もあります。私自身も「ん?それはいかがなものかしらん?」と思う部分もありました。ですが、こういう仕事における哲学というか、情熱というか、そういったものを追求していく姿は神々しいとさえ思いました。だから「私もこんな職人さんになりたかった」と思ったのだと思います。全てを迎合することはできません。しかし自分なりに取捨選択をして、きちんと自らの血肉としたいと思った1冊でした。

今回得た知識を基に、また水戸岡鋭治さんがデザインされたものに触れてみたいと思います。乗ってみたい車両も、行ってみたい場所も増えましたから、夫に相談しなくては❀

私と水戸岡鋭治さん

冒頭でも触れましたが、本書に触れるきっかけとなったのは、富士山ビュー特急でした。

美しい赤いボディ

内装をみると、足元や窓枠、天井、壁などいたるところに木材が使われているのがわかります。以前はシートがカラフルだ~というところにばかり目がいっていましたが、読み終えてみると また印象が変わります。

木目の美しさ、ランプの温かみ、そしてシートの座り心地…。何をとっても最適だったことを今でもしっかりと覚えています。

富士山ビュー特急 | 富士山に一番近い鉄道 富士急行線 富士山麓電気鉄道株式会社

でも実は、水戸岡鋭治さんがデザインされた車両に乗るのは この富士山ビュー特急が初めてではありません。

2020年に乗車した 特急ゆふいんの森 号が、水戸岡鋭治さんとの初めましてでした。

特急ゆふいんの森 | JR KYUSHU D&S TRAINS D&S列車の旅

当時は今以上に鉄道というものを理解していませんでした。鉄道系のYouTubeチャンネルも見ていなかったですし、ときたま夫(当時は恋人)から教えてもらうか、自分で実際に目で見て体験したことくらいしか知らなかったのです。出先でも、夫が鉄道好きだから私もついていく くらいのスタンスでした。

そんななかで乗車した 特急ゆふいんの森 号。これが衝撃的だったんです。私のなかで鉄道とは、デザイン性よりも機能性が重視されており、素材は自然のものではなく、プラスティックや金属である と思っていました。

普段の通勤・通学車両はもちろん、旅行の際に乗車する特急や新幹線にもデザイン性を求めるということはありませんでした。更にデザインと言っても温かみのあるデザインであなく、最新鋭の技術が詰め込まれた近代的なデザインのものばかりだと思っていたのです。

ジブリ映画『千と千尋の神隠し』の終盤に出てくるようなレトロな車両は、もう出会えないのだ。あってもそれは超が付くほど高級な寝台列車とかくらいで、私には縁もゆかりもないのだと。

ですから、特急ゆふいんの森 号がビックリだったんですね。超高級な寝台列車じゃないのに(もちろん安価ではないですが)、こんなに美しい列車に乗車することができるなんて!と。車内は落ち着いた色味の木材が優しく、温かみを感じさせ、グリーンの座席にも高級感がありました。照明もただ照らすことが務めではなくて、世界観の演出をしている…。こんな車両に乗れるだなんて、すごい!と感動したことを覚えています。

このときに初めて水戸岡鋭治さんのお名前を知り、今に至るのです。

よもやま話

愛のあるものを綴ると、どうしても文章量が増えて困ります。本書がどんな本であるかを説明した部分(目次 どんな本?)を抜いた状態で2500文字くらいでしょうか。この よもやま話 もいれたら、もっとですね。

本の内容説明が多いときは、それ以外を少な目にしようと思ってはいるのです。けれどテーマによってはどうしても一緒に綴りたいことがでてきて、ズルズルと長文になってしまいます。

でも皆さんもきっと推しについて語ると、こうなると思うんです!…ということで良しとします。今回はこの辺で❀