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シンプリストになりたいのです

映画・ヘルプ の感想

大学時代、私は訳あって就職活動をしませんでした。卒業後はショッピングモール内にある文房具屋と映画館でアルバイトの掛け持ちをして、生活していたのです。

朝9時40分から17時まで文房具屋、18時くらいから深夜1時くらいまで、遅い時だと明け方の4時くらいまで働いていました。当然、身体も心もズタボロになってしまって、長くはもちませんでした。

けれど、映画館のアルバイトは悪い思い出ばかりではありません。座席が空いていたら上映中の作品を見ることができて、レミゼラブルとかは何度も見ました。早番で入っていたりすると、勤務時間後に1本映画を見て帰る…とかができてうれしかったなぁと。

その当時に「ヘルプ」という映画を見たのですが、久しぶりに見たいなぁと数年前から薄ぼんやりと考えておりまして。やっと実現することができましたので、感想をネタバレ交えて綴っていきたいと思います。

ヘルプ 心がつなぐストーリー のあらすじ

1960年代のアメリカ、ミシシッピ州ジャクソン。

スキーターは上流階級に生まれた白人女性です。大学在学中は実家を離れていましたが、卒業を機に地元に戻ってきたのでした。スキーターは作家になることを夢見ており、経験を積むために出版社で働くことになりました。仕事内容は、家事などにまつわるコラムの代筆でした。

当時、裕福な白人家庭では黒人メイドが家事や、子育てをする…そんな暮らしだったのだそう。しかしスキーターが実家に帰省すると、自分を大切に育ててくれた黒人メイドのコンスタンティンが居なくなってしまったことに気がつきます。

再会することを楽しみにしていたスキーターは、何故彼女がいないのか母親に尋ねます。しかしシカゴにいる家族と住むために突然仕事を辞めたとこと以外を答えてはくれないのでした。

コンスタンティン「誰だって秘密はあります」

スキーター「男子が私をブサイクと。ママは州の美人コンテストで3位だったのに」

コンスタンティン「自分を憐れむのはおやめなさい。それこそブサイクですよ。”ブサイク”は心の中に育つもの。イジワルで人を傷つける男子そっくり」

(作中より引用)

コンスタンティンはスキーターにとって育ての親でした。そんな彼女が自分になんの連絡もなく辞め、その後連絡が途絶えるとは考えられません。何が起こったのか突き止めようとしますが、家族も誰一人答えてはくれないのでした。

 

スキーターが久々に友人のエリザベスの家に訪れました。そこで定期的に集まってトランプゲームをしているのです。その中でのリーダー的ポジションにいるのがヒリーです。

ヒリーは、各家庭に黒人用トイレをつくるべきだと主張しています。そして、スキーターに会報誌にキャンペーン記事を載せるように言ってきたのです。それに対して、スキーターは黒人たちが差別されている現状に違和感を覚えます。

スキーターはコラムの代筆の仕事のために、エリザベスの家でメイドをしているエイビリーンに取材をさせてほしいと頼みます。コンスタンティンがいなくなってしまい頼める人がいないのだ…と。エリザベスは渋々了承するのでした。

そこで、黒人メイドたちが今どのような境遇で、どのようなことを感じているのかを取材し、本にしようと考えます。ニューヨークの編集者にもインタビューができるのであればと後押しされ、実行にうつそうと考えるのでした。

しかし、そんな簡単に取材ができる訳がありません。当時、白人と黒人の交わりはタブーのような扱いを受けており、もしインタビューに答えようものならエイビリーンの命は危険に晒されるのです。エイビリーンの親戚は黒人が選挙の投票所に行ったというだけの理由で殺されました。そして、自身の子どもも黒人であるからというだけで、不当な扱いを受けて命を落としていたのです。

エイビリーン「私が怖いのは 視線 です。人種分離法(ジム・クロウ)よりも」

スキーターが何度か説得しても、エイビリーンの心は変わりませんでした。

しかしある日、エリザベスはヒリーの言葉をうけて、黒人用トイレを作ることに決めました。しかも場所は室外でした。エイビリーンは、絶対にインタビューを受けたのが自分だとバレないようにとスキーターに釘を刺し、インタビューに受けることに決めたのでした。

それからミニーという女性も加わり、更にはメイドの仲間が不当な扱いを受け逮捕されたことをきっかけに大勢のメイドたちがインタビューを受けてくれることになるのでした。

原稿の最後の締めくくりは、自身のこと。そう、コンスタンティンのことです。真剣に母親に尋ねたところ、スキーターはコンスタンティンについての悲しい現実を突き付けられることになるのでした…

感想

黒人差別をテーマにした映画を見たのは、きっとこれが初めてだったのではないかと思います。12年ほど前は、黒人差別ってよくないよね!とかそんな感想を抱いたんじゃなかったかなぁと。それから、「ドリーム」や「ヘアスプレー」を見て、差別を受けている人々が声をあげることが、いかに危険か…命に関わることなのか…ということを知りました。

「人生を切り開いて」というのがラストメッセージかなって勝手に思っているんです。この映画はハッピーエンドでありますが、見方によってはハッピーエンドではない。もちろんバッドエンドでもないけれど。当時はハッピーエンドとしか思わなかったので、今と当時では感じ方が変わったのかもしれません。

あらすじでは触れませんでしたが、扱っているテーマは黒人差別だけではありません。女性の就職や、結婚・出産に関しても触れられています。

序盤にスキーターが戻ってきて、久々に友人たちと再会するシーンで”いつまでも帰ってこないから”といった描写がありました。それに対して、スキーターは”大学は4年あるのよ”と答えます。言ってしまえば、彼女たちは大学が4年生であることを理解していなかった…ということですよね。それくらい、大学への進学が一般的ではなかったということでしょう。

そして、高校卒業後、彼女たちはいっせいに結婚をして、ベビーラッシュに乗り遅れないようにと子どもを産みます。エイビリーンはそれを”子どもが子どもを産む”と表現していました。でもそれが、当時のその地区では一般的な生き方だったのでしょう。

また、大学を卒業し、就職したスキーターに対して母親はあまり好意的ではありません。男性の気配を見せないスキーターの結婚の心配ばかりをしています。スキーターがそこでは一般的である生き方を選んでいないことが、不安で仕方なかったのかもしれませんね。

そういった、今と1960年代との価値観の違いも勉強になったように思います。

yu1-simplist.hatenablog.com

よもやま話

映画を見ていて「区別と差別の境ってどこなんだろうか…」とふと思いました。

作中で”黒人と白人は違う。だからトイレは別にしなければいけない。これは区別であって、両方つくることが平等であること”と言ったことをヒリーが言うんです。

今、現代を生きる私たちはこれに対してNOと言えます。それが差別であると、理解しているから。でも、当時の人々にとっては差別ではなく、区別であると理解しているのだとしたら…。

ここ数年、日本もトイレで揉めていますよね。女性用トイレをなくし、男性用トイレと男女兼用トイレだけを残すという場所もあります。新幹線だってそう。女性専用のトイレは設けられていないことが多いです。逆に女性専用車両はあるのに、どうして男性専用車両はないんだ!という声もあります。痴漢問題や、トランスジェンダーの方への配慮であったり、いろんな問題が背景にありますから、どうすればいいと一言で言えないのが難しいところ。

私は今、この『性別』というものを区別だと考えているけれど、50年先はどうなんだろう?もしかしたら未来の人々には”トイレって昔は生物学上の性別で分けられていたんだよ!同じ人間であることに違いはないのに、これって性別による差別だよね!”なんて思われてしまうんだろうか。

それはちょっと嫌だなぁ、でも女性用トイレがなくなるのも嫌だなぁ…なんて感じてしまうあたり、私もヒリー達と変わらないのかもしれないません。

もちろん性別と肌の色を同列で考えてはいけないのかもしれません。けれど、それぞれ考えて、いろんな視点を持つことが、今私にできる最大限のことなんだろうな…と思っております。

はてさて、次はなんの映画をみましょうかね?