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シンプリストになりたいのです

本・本が読めない33歳が国語の教科書を読む の感想

学生時代、国語の授業で取り扱いされた物語について覚えていますか?

私はほとんど覚えていなくて、記憶にあるのは、高校時代に芥川龍之介の『羅生門』や夏目漱石の『こころ』を読んだくらいでしょうか。あとは古典の作品がいくつか。それらももっとちゃんと読んでおけばなぁ…なんて今になってみると思うわけですが。

2025年の11月に みくのしん さんと かまど さんが書かれた『本を読んだことがない32歳がはじめて本を読む』という著書を拝読しました。(『本を読んだことがない32歳がはじめて本を読む』についてはこちら↓)

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これまで読書をしたことがなかった みくのしん さんが、かまどさんのサポートを受けながらも一緒に読書をしていく、ただそれだけのお話し。なのに、とても面白かったんです。『走れメロス』をこんなに瑞々しく読むことができるなんて。同じ本を読んでいるとは思えない…と、羨望のまなざしをおくらないではいられませんでした。

実は、続編がありまして。今回『本が読めない33歳が国語の教科書を読む』を読みましたので、感想や参考になった点についてなどネタバレ交えて綴っていきたいと思います。

どんな本?

『本を読んだことがない32歳がはじめて本を読む』は発売以来、多方面で注目され大ヒットしたそう。「走れメロス」や「杜子春」といった作品を読み終えたのですから、我々はみくのしんさんは、もう”本が読めるようになった”と考えてしまいがちです。ですから、ついつい「本を読めるようになって、人生がどう変わった?」と聞きたくなります。けれど。

しかし、これらの無邪気な質問の数々に、みくのしんはうまく答えることができずにいました。気まずそうに「いや、本が読めるようになったわけじゃなくて…」と答え、その度に、「え?なんで?」とキョトンとされていた時期があったんです。

どうやら、世の中の人たちは、「本を読んだことがない」を卒業したら、その次には、当然「本が読める」になると思っているようです。

かくいう僕もたちも、その2つの間に大きな隔たりがあることに全く気づいていませんでした。そして、その隔たりを超える長い道のりが待っているなんて、そのときは知る由もありませんでした。

この本は、「本が読めない」みくのしんが、国語の教科書を読むだけの本です。そして、その隔たりを超えようと試行錯誤してきた日々の記録でもあります。

(P002-003)より引用

参考になったところや感想

二度目の読書に挑んだ日のこと

みくのしんさんが人生で2冊目に読もうとチャレンジした本は、中島敦の『山月記』でした。『走れメロス』を読了したことで、以前と比べると、本を読むことができないという緊張感は減ったようでした。けれど、実際に読んでみると一行目、いえ一文字目から読めなかったのです。

≪隴西の李徴は博学才穎、≫

みくのしん 1文字目から読めない。なんだよそれ!いま、俺の身に何が起きてんの?!

かまど  「山月記」の冒頭って難しい単語が多いよな。でも、ニュアンスが分かれば正確に理解しなくても大丈夫だからさ。

みくのしん そういう次元の話じゃねえんだよ!

(P010より引用)

巻末の注釈を読んでも、その意味すら分らない。一語一語を拾っていってもまるで読経しているようで、内容が全然入ってこなかったのだそう。

こうして、みくのしんの人生2冊目の読書は、彼にとって苦い思い出として刻み込まれてしまいました。

(P013より引用)

実は私も、いつだったかに授業で「山月記」を読んだことがありました。たぶん、高校の古典の授業だったかな…?そのときは、全然ちゃんと読まなかったので、再読したいなぁなんて思っていたのです。けれど、みくのしんさんの追体験をするように一緒に読んでみると、「あれ?こんなに難しかったっけ…?」と全然読めません。これでは私も「山月記」はギブアップかも…。年に数冊は本を読んでいる私でも無理って投げてしまいそうになるんですから、本に苦手意識のある方だと尚更、本を読むこと自体が嫌になってしまうのも理解できます。

この一件があってから、みくのしんの「本が読めない」という自意識が再熱。あれから、本を読もうとする度に、「もっと勉強しとけばよかった」「ちゃんと教科書を読んでいれば…」と弱音を零すようになりました。「走れメロス」を読んだ直後には、「本が読めるようになった!」と喜んでいたのに、なんてもったいない。

ですが、そんな彼の姿を見るうちに、ふと、こんなことを考えました。

「じゃあ、国語の教科書を読んでみればいいじゃないか」

「学び直す」なんて大げさなことじゃなくていい。「大人になった今、教科書に載っている作品を読んでみる」ただそれだけで、きっと彼の中で何かが変わるような気がします。そして、それは今からでも決して遅くはないのです。

ということで、実際に国語の教科書を取り寄せて、みくのしんと一緒に読んでいくことにしました。これは、本が読めない男が、また「本が読めるようになった!」と思えるようになるまでの、長い道のりの記録です。

(P015より引用)

小学校「やまなし」

そんなわけで小学生の教科書に収録されている宮沢賢治の「やまなし」を読むことになった みくのしんさん。随分と久々に見る教科書に大興奮です。ちなみに「やまなし」は小学6年生の教科書に収録されているそうなのですが、それに対して既に渋い顔が…。私は「やまなし」は読んだことがないので、みくのしんさんと一緒に読めるようでワクワクです。

≪小さな谷川の底を写した、二枚の青い幻灯です。≫

みくのしん ちゃんと難しいじゃねえぁ!!!!

かまど 一行目から波乱の幕開けだな。

(P020より引用)

開始早々、前途多難な予感がしますね。でもやっぱり、みくのしんさん。景色や時間の感覚に鋭いんです。

≪それは、ゆれながら水銀のように光って、ななめ上の方へ上っていきました。≫

みくのしん なるほど!川の流れがあるからね!真上じゃなくて、ゆら~っと流されながら上がっていくんだ!いいねぇ、川の中のイメージがゆったり溜まってきてる気がする!

かまど 「溜まってきてる」って感覚なんだ。それはイメージを思い描くとは違うの?

みくのしん なんだろ。「怒られすぎて、涙があふれる」の逆って感じかな。言葉を伝えられすぎて、イメージが溢れような気がするんだよ。描かれていない景色まで見えてくるというか。

かまど それが見えてくるやつは、もう読書苦手じゃないだら。

みくのしん かまどがよく言う「情景を味わう」ってこういうことなのかもね。

かまど 俺は、こんなに口いっぱいに頬張るような情景の味わい方したことないよ。

(P027より引用)

宮沢賢治が書かれた物語だと、『セロ弾きのゴーシュ』や『注文の多い料理店』などいくつか読んだことがあります。けれど、どれも世界観を掴むのが難しく、その文章の意味を理解していくだけでいっぱいいっぱいで情景を思い描く…という楽しみができなかった記憶があります。それをここまでイメージが溢れるなんて、すごいなぁ。勿論、作者との相性というのもあるんでしょうが、みくのしんさんと自然の描写の多い宮沢賢治は相性が良いのかもしれないですね。

≪波から来る光のあみが、そこの白い岩の上で、美しくゆらゆらのびたり縮んだりしました。≫

みくのしん なにこれ?!水面に反射してモアンモアンってなってる光のこと?!それを…それを、こんなに簡単な言葉にしてんの?!こいつ大泥棒じゃねえか!!

かまど 落ち着け落ち着け。急に何を騒ぎ出したんだよ。

みくのしん なんかこう…こんなに簡単な言葉で、思いもよらない表現をされると「日本語が取られた!」って思わない?もうこの表現は俺には使えないというか、この日本語は最初に言った人のものになるというか…。

かまど 独特な感性してるなぁ。俺は日本語の所有権なんて考えたことないよ。

みくのしん これが難しい日本語だったら「すごい人がすごい言葉を操ってんな~」で済むんだけど、簡単な言葉でサラリと表現されると「同じ日本語を使ってた俺は、なんで思いつかなかったんだろう」って悔しくなるんだよ。

(P031より引用)

当然ながら私も日本語の所有権なんて考えたことはないのですけれど。でもちょっと感覚が分かるなぁ…と。流行語が毎年発表されますけれど、それを口にすると、その真似をしているみたいに感じることってありませんか?自分から自然にでた言葉なのに、まるで誰かの言葉を使ってしまったみたいで、複雑な気持ちになることがあるんですよね。なんとなくなんですが、みくのしんさんの意見がわかる気がします。

それにしても”波から来る光の網”って素敵な表現ですよね。これは私も使いたい表現だなぁと思いました。

中学校 「少年の日の思い出」

お次はヘルマン・ヘッセの『少年の日の思い出』、ドイツの物語です。中学生の教科書に収録されているのですね。私は教科書で読んだ記憶は1㎜もないのですが、夫に紹介されて読んだことがあります。確か、夫と学生の頃に教科書でどんな物語を読んだか みたいな話を4年ほど前にもして、そこで『少年の日の思い出』を読んだと聞いたんです。

それでどんな物語なのかと気になって読んだんですが…。あまり楽しめなかったというか、自分の過去の嫌な思い出が芋づる式に思い出されて「んー…」ってなっただけでした…。はてさて今回はどんな気持ちになるのやら。

≪すると、私たちの顔は、快い薄暗がりの中にしずんだ。≫

みくのしん すみませんでした…。

かまど 次から次へどうしたんだよ。

みくのしん ごめんなさい。「快い」←これはなんて読むんですか?

かまど 「快(こころよ)い」だね。どうした?いまさら読めない漢字があったって気にならないだろ。

みくのしん でも…これには何も注釈が書かれていないんだよ?ワモンキシタバは教えてくれたのに、「快い」はヒントなし。これって、みんな知ってて当然の言葉ってことじゃん…。

かまど そんなこと考えてたの?別に気にすることないって。

みくのしん そういや、国語の授業っていつもこうだったな…。読めない文字がある度に、「どうしよう!」ってパニックになってたもん…。

かまど まあまあ。今は、「こころよい」の読み方さえ分かれば、意味も分かるんでしょ?

みくのしん そりゃ、まぁ…なんか気持ちいいんだろうな~くらいはなんとなく分かるけど…。

かまど それで十分だよ。ここまで、いい調子で読めてたんだから、気にすることないって。

みくのしん 本当に言ってんの?読めない漢字があるのに、いい調子なはずがないだろ。

かまど いいや、絶好調だね。漢字は覚えれば誰でも読めるけど、ランプのフタを閉じる音は誰にでも聞こえるわけじゃないんだから。

(P080-081より引用)

読書をしていると自分の語彙力の低さ、漢字の読めなさにズーン…と気が重くなる気持ち、わかるなぁ。書籍によっては、ところどころの漢字にルビが降られていることがありますよね。その中で、ルビが降られていないのに読めなかった漢字なんかがあったりすると、あぁこのルビを降った人にはこれは読めて当たり前な漢字なのに私は…って思ってしまうことが多々あります。以前読んでいた『シャーロック・ホームズ』シリーズでも、注釈がないものだと、あぁこれは常識的なことで、それをしらない私は…って思ってしまったんですよね。

でも、漢字も語彙も、常識も覚えればいいだけなんですよね。かまどさんの「気にすることないって」っていう言葉がちょっと嬉しかったです。

≪そういう場合は、僕はしばしの間、子供だけが感じることのできる、あのあんともいえない、むさぼるような、うっとりした感じに襲われる。≫

みくのしん 分かる!「没頭」ってやつだよね!もうそれしか考えられなくて、友だちとかも目に入らないんだよ。頭がズゥワ~ッと夢中になっていく感じ!

かまど 昆虫採集の経験はなくても、この少年の熱中する感覚自体は共感できるんだね。

みくのしん 分かるからこそ、「このあと、嫌なことが起きそう…!」と不安になってくるよな。夢中になってた記憶って「その後に怒られた」とセットで覚えてるもんだから…。

かまど そうとは限らないでしょ。いい思い出として残ってるものもあるはずだよ。

みくのしん でも、何かに夢中になってるときって、そういうもんじゃない?その最中には自分で気づけないけど、人に怒られたり、人と比べて落ち込んだりして、目が覚めたあとに「あのとき周りが見えてなかったな…」って分かることの方が多い気がするんだよな~。

かまど 夢の中にいるときは自分が夢中だと気づかない…みたいなこと?なるほど、言われてみれば、たしかにそういうもんかもなぁ。

みくのしん だから、こんなに「あの頃は夢中だった」って話をされると、このあと夢中じゃなくなる「何か」が起きる気がしてならないんだよ。ドキドキしてきたな…。

(P086-087より引用)

みくのしんさんに解説されるまでは、かまどさん同様、「そんなことなくない?」と思っていたのですが、言われてみると確かにそうですよね…。何かに夢中になっているときって、理性的に行動できる訳じゃないから、自分のダメな本性的な部分が出てしまって、周囲に迷惑を掛けたり、わがままになってしまったりするんですよね。子どもの頃であれば、それが”怒られる”に繋がるし、ある程度大人になってくると、周囲が怒ってはくれないから、後で自分で気が付いて”自己嫌悪”になる。そうすると、夢中になる=良くない になってくるんですよねぇ…。ほら、夢中になるとお金遣いも激しくなって、後になって後悔するんですよねぇ…。「夢中」という一見するとポジティブな言葉から、それが過去になった瞬間ネガティブに見えるというのは、個人的に大きな発見でした。

みくのしん さすがにボロボロじゃねぇか?

かまど そう言ってやるなよ。子どもがやる標本なんてこんなもんじゃない?

みくのしん そうかもしれないけど…この同級生もちょうのことが好きだから、こう言っちゃうんだろうなぁ。主人公と同じくらい採集が好きだから、難癖のつけどころが分かるんだよ。

かまど 先生の息子の肩を持つのは意外だね。ケチをつけられて、ムカついたりはしないんだ。

みくのしん それも分かるけど、「はいはい、よくできました」っていなされるよりは良くない?同じ趣味を持つ者同士でちゃんと見てくれてるって分かるから、俺は嬉しいけどな。これって実は一番の友だちになれる可能性があるってことだからね。

かまど このシーンって、そういう読み方もできるんだ。みくのしんらしい明るい視点だね。

(P099より引用)

主人公がエーミール(先生の息子)に、その辺りでは珍しい蝶の標本を見せに行くも、あれやこれやと難癖をつけられてしまう…というこのシーン。私が読んだときは、特に意識はしませんでしたが、そういう読み方もあるのか…と気付きがありました。私はただ、主人公が自尊心が傷つけられた…くらいのシーンに思っていたのですけれど。

言われてみれば、エーミールは主人公を同じ趣味の仲間として同列に扱ってものを言ってくれているんですよね。みくのしんさんはエーミールをドラえもんに出てくる出木杉君、主人公をのび太君でイメージされているのですが(このイメージがピッタリなんです)、出木杉のび太君ではやっぱりいろんなレベルが違うわけです。勉強も財力も何をとっても出木杉は一段、二段と上にいる。少なくとも、のび太君の中ではそういうイメージができている。でも、出木杉君の方はそんなことはなくて、同じフィールドに立って意見をしてくれている。そんな良いシーンだったのか…。

大人であればわざわざ難癖付けなくてもいいじゃんって思うことも、正義感溢れる子どもだからこその言ってしまうエーミールの気持ちの今なら分かるなぁ…なんて。

≪僕は、この欠点をたいしたものとは考えなかったが、こっぴどい批評家のため、自分の獲物に対する喜びはかなり傷つけられた。≫

みくのしん まあまあ。子どもからすると、これをイジワルって思っちゃうのも分かるけどね。

かまど この段階で「こいつと友だちになれるかも」とは、なかなか思えないよな。

みくのしん でも、出会いは最悪だけど、なんだかんだで一緒に遊ぶようになる気がしない?同じちょうを追いかけてるうちに、いつの間にかいろんな話をしてさ。夏休み明けには「あれ?お前らってそんなに仲良かったけ?」って言われる関係になる可能性も全然あると思うんだよな。

≪それで、僕は、二度と彼に獲物を見せなかった。≫

みくのしん そっか…。まぁ、「人に見せる」って第一歩を踏み出しただけでも偉いよ。俺は、それすら怖くて弟に見せるだけだったからなぁ。

(P100より引用)

私はこの『少年の日の思い出』を読んだ際に、主人公とエーミールが友だちになれるという未来を予想することすらありませんでした。でも、もしかしたら歯車が少しでも違うように噛み合っていたら、そんな未来もあったのかなぁ。そういう妄想をするのはちょっと楽しかったです。主人公が、「君がそういうなら、これならどうだい?」みたいな感じで、エーミールにちょうを見せるのが習慣になって、少しずつ主人公の標本つくりにもスキルが高まっていく。エーミールも友人として、そして ちょう仲間として認めていって…みたいな、そんな未来。

≪「結構だよ。≫

みくのしん 許してください…。

かまど 国語の教科書を読んで号泣するやつ、初めて見たよ。

みくのしん 「結構だよ。」って言い方が切なすぎる…。このせいで、少年は大人になった今、「もう結構。」って言うようになっちゃったんだ…。エーミールに言われた言葉が、そのまま自分の言葉になってるんだ…。

かまど ろうそくの火といい、「結構」という言葉といい、みくのしんは、大人になった現在との繋がりを見出しながら読んでるんだね。面白い読み方だなぁ。

(P125より引用)

「よく覚えてるな」…と驚愕したがこのシーン。冒頭にでてきた言葉をちゃんと覚えていて、フラグとしてみくのしんさんは解釈されたのですね。私は、既に通り過ぎて忘れ去ってしまっていましたけれど。一語一語に全集中して読む、みくのしんさんだから気が付けるんだろうなぁ…。言葉を通り過ぎながら読むと、こういうフラグをスルーしちゃうので、もう少し深く読み込めるようになりたいものです。

高校 「山月記

みくのしんさんが「山月記」に挫折してから1年半。その間にも様々な本を読まれたようです。

ですが、「山月記」だけは読破できずに、ずっと未読のままになっていました。読み切れなかった本があること自体は、別に何の問題もありません。誰だって、途中で投げ出した本の1つや2つ(もしかしたら、数え切れないくらい)あるものです。

しかし、彼の中では、人生2冊目の読書で挫折したことがよっぽど苦い経験だったのでしょう。いまだに新しい本を読もうとする度に「次は、山月記みたいになるかもしれない」と思ってしまうと言います。たしかに彼の読書を隣で見ていると、本のページを開くまでに、ずいぶん時間をかけているように見えました。

みくのしんは、「本が読めない男」から、とうの昔に卒業したと言ってもいいはずです。ひとたび本を開けば、毎回、感情をフルスイングさせながら文章を味わい尽くし、誰よりも読書を楽しんできました。それなのに、新しい本を読む度に、「読めなかった頃の自分」が顔を出してしまう。彼自身は「本が読めない自分」のまま動けずにいました。

本を読み始めるまでに、読書に向けて体の凝りをほぐすように時間をかける彼の姿を見ていると、ついこんなことを考えてしまいます。今、もう一度「山月記」を読んだらどうなるんだろう。初めて読んだときは、手も足も出なかったけれど、たくさん読書を重ねてきた今なら、また違う読み方ができるんじゃないだろうか。

(P136-137より引用)

そんなわけで、1年半ぶりに「山月記」リベンジです。…が、早速1行目から躓いてしまうみくのしんさん。

みくのしん はぁ…。ごちゃごちゃ言っててもしょうがないか。ここまできたら読むしかないもんな。

かまど まあまあ。無理なら途中でギブアップしてもいいからね。

みくのしん そういうわけにもいかないだろ!これまでいろんな本を読んできたのに、それでも読めなかったら本当に終わりじゃん!かまどは本が読めなかった経験がないから、俺の気持ちが分からないんだよ!

かまど そんなことないよ。俺だって途中で投げ出した本なんて数え切れないくらいあるぞ。

みくのしん …そうなの?

かまど そうだよ。本を読んでて挫折するなんて、本当によくある話だから。全然恥ずかしいことじゃないよ。

みくのしん そっか…。

(P140-141より引用)

これ、めちゃくちゃ分かります。私も以前は、本は最初のページから最後のページまで読まないといけないと思ってとても辛かった時期がありました。それができない=その本を挫折する みたいふうに感じて、この本も読めない私はなんて馬鹿なんだろう…って。でも、そのときの私には合わなかっただけで、年齢や環境が変われば読めるかもしれないし、経験を積めば読めるようになるかもしれない。

あくまで途中で投げ出すってことは、今は読めないと諦めるくらいなんだな…と思えるようになりました。原田マハさんの『たゆたえども沈まず』も、原田ひ香『喫茶おじさん』も、『FACTFULNESS』も、『サピエンス全史』も。途中でやめてしまったけれど、また読めると良いな。

みくのしん ほら、この文もそうだ。「文名」の意味は分からないのに、「。」まで読むと「有名になれなくて、貧乏になってきた」ってなんとなく分かるんだよ。

かまど 一つ一つの単語は分からなくても、全文を読むとニュアンスって伝わるものだよな。

みくのしん なんだか、ゲームで処理落ちしてる道を走ってるみたいだね。なんとか「。」までたどり着くと、ロードされて、途端に景色が描画される感じなんだよ。

(P148より引用)

要は途中で分からない単語があっても、とりあえず句点まで読んでみると、なんとなく意味が分かる というお話しなんですけれど。たーしぃーかーにー!今まで意識していませんでしたが、言われてみるとそうですね。無意識ですが、私もそうやって読んでるかも。

句点まで読んでもわからなければ、辞書引っ張って来るみたいな読み方をしている気がします。これも面白い発見です。

かまど 文章は絶えず難しいけど、ここまでなんとか読めてるね。昔のみくのしんだったらとっくにギブアップしてただろうな。

みくのしん たしかに。相変わらず時間はかかるけど、今回はどうにか前に進めてる気がする…。やっぱり、「。」まで読んでるからじゃないかな?もし「。」がなかったら窒息すると思う。この先に空気があるって知ってるから今は読めてるけど…。

かまど …空気?窒息?どういうこと???

(P149-150より引用)

読書で窒息とは一体どういうことでしょう。でもなんとなく、意図していることはわかる気もしないではありません。

みくのしん 何冊も読書してきて、俺の肺活量が鍛えられたのもあるんだろうけどさ。やっぱ「。」があるから息継ぎできるってのも大きいと思うんだよな~。

かまど ちょ…ちょっと落ち着いて説明してくれる?分からないけど、多分大事なことを伝えようとしてる気がする。

≪中略≫

みくのしん 例えば、こういう難しい文章を読むと切って、「洞窟の中の水たまりに潜っていく」みたいな感覚がしない?

かまど (…?分からないけど、とりあえず聞いてみるか)

みくのしん かまどって「クレイジージャーニー」を見たことある?

かまど 洞窟探検とか、過酷な取材しているテレビ番組だっけ?それがどうしたの?

みくのしん ああいう番組でさ。探検家が洞窟の奥に進むために、水に潜って向こう側に行くシーンとかあるじゃん。あれ、めっちゃ怖くない?

かまど 分かる分かる。見てるこっちも息が詰まりそうになるよね。

みくのしん 潜った先に空気があるかも分からないし、もしかしたら、この先ずっと水が溜まってて、一度潜ったら戻れずに溺れちゃうかもしれない…。

かまど 想像するだけで息苦しくなるよな。その極限のサバイバル状態がどうしたの?

みくのしん おれにとって「難しい文章を読む」って、この感覚と似てるんだよ。

かまど んん?これが読書と繋がってくるの??

≪中略≫

みくのしん 例えばこの文章も、始めは、向こう側に空気があるか分からないまま、とにかく読み始めるでしょ?

かまど 空気ってのは分からないけど…初めて読む文章は、「その先に何が書いてあるか分からない」という感覚なのかな?

みくのしん そうそう。それどころか、その文章がどれだけ長いか、どこまで理解できるかすら分からないじゃん。読み始めたはいいけど、それがどれだけ続くのかわからない。これが、すごく怖いんだよ。

かまど …なるほど。それが、洞窟の水たまりを潜っていく感覚に似てるってことか。

(P151-152より引用)

本書のなかでも、強く印象に残ったのが、この水たまりに潜るというお話し。一見すると読書には何も関係なさそうに感じるのですが、なんとなく言っていることが理解できます。

私は英語がからきしなので、英文を見ると途方もない気持ちになります。何が書いてあるのかも分からない。自分が読めるのか、それを解読できるのかすら分からない。その気持ちが一番近いのかな…なんて思いました。実際に真剣に読もうと思って一語一語辞書でひいてみると、案外大したことなかったりするんですよね。なんだぁ…ってなるんです。

みくのしん 本が読めなかった頃は、「洞窟の先に空気がある」って知らなかったんだと思う。だから、文章が分からなくなった瞬間に、不安になってすぐにやめちゃってたんじゃないかな。

かまど たしかに、昔のみくのしんは「分からない」にぶつかった途端に、読むことを諦めてたっけ。あれは呼吸もできないようなイメージだったのか。

みくのしん でも、今は何回も本を読んできたから、「とにかく『。』までたどり着けば息継ぎができる」って信じられるようになった気がする。だから、怖くなくなったのかもな~。

(P153より引用)

私も何回も読んで、慣れるくらい回数をこなせば、純文学やら英語やらを読めるようになるかなぁ…。

≪理由も分からずに押し付けられたものを大人しく受取って、理由も分からずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ。≫

みくのしん 本当にそう!!細かいこと一つ一つが全部そうだよね。学校も仕事もそう…。受け取ったもんを文句言わずにやっていくしかないし、それしかできないんだよな…。

かまど これって、こんなによく噛んで味わえる一文だったのか。俺は流し読みしちゃってたな。

みくのしん 李徴も、たった1行でこんなことよく言えたな。みんなが思ってるのに、上手く言葉にできていなかったモヤモヤを手早く調理してサッとお出しされたみたいだ。

かまど 文学ってそういう文章と出会えるから面白いよな。みくのしんにとっては、この一文がそんな存在だったんだね。

(P178より引用)

本を読んでいて、刺さる文章ってありますよね。私がこうしてブログに綴っているのも、要は自分に刺さったところを記録しておくためと言っても間違いじゃありません。映像作品でも勿論刺さることはあるんですけれど、やっぱり深くまで刺さるのは文学でなんですよね。マンガでも小説でも実用書でも、グサッって刺さる言葉があると嬉しくなります。

先にも触れましたが、私も『山月記』には触れたことがありましたが、こういった文章があったころを微塵も記憶に残しておりませんでした。ざっくりとしたストーリーは覚えていたんですけれどね。今ならこの言葉も刺さるのですけれどねぇ、ぼんやりと授業を聞いて、ぼんやりと本を読んでいたから覚えてなかったのかなぁ…。

≪その人間の心で、虎としての己の残虐な行のあとを見、己の運命をふりかえるときが、最も情なく、恐しく、憤ろしい。≫

みくのしん でも、トラも自分なんだよな。李徴にもそれは分かってると思うけど…。

かまど 酷なこと言うなあ。トラでいる間は李徴も意識がないんだよ?

みくのしん そうじゃなくてさ。これって誰かにトラにさせられたんじゃなくて、自分の中からトラが出てきたんでしょ?だからこそ、誰のせいにもできなくてしんどいんだよ。

かまど なるほど…。たしかに、李徴にしてみたら、そういうものかもしれないな。

≪しかし、その、人間にかえる数時間も、日を経るに従って次第に短くなって行く。≫

みくのしん どんどんトラに染まってる…。でも、そうだよなぁ…。トラでいる時間って苦しいようでいて、身を委ねていればいいから楽でもあるんだよ…。

かまど やけに共感してるね。俺はこのシーンをそこまで読み込んだことはなかったな。

みくのしん いやぁ…俺には他人事として読んでられないよ。ほら、俺も昔はトラだったからさ。

かまど 初耳なんだけど???

みくのしん ここでいうトラって本当の意味でのトラじゃないんでしょ?嫌な自分というか、めちゃくちゃな人間性というか…なりたくもない自分みたいな意味だと思う。

かまど そっか。みくのしんは、トラをそういったものの比喩として読んでるだね。

みくのしん もしそうだとしたら…無職だった頃の俺って、まさにトラだったと思うんだよ。動物みたいに自分勝手で、自分のクソの始末もできないようなやつだったし…。

かまど みくのしんが仕事を辞めて、好きなことして生活しようとしてた時期か。おれもその時期のみくのしんは知ってるけど…たしかに、李徴と重なるところはあるかもな。

みくのしん 腐っていく自分を「ダメだ」と叱りながらも、「これが自分自身でもある」って諦めるような気持ちもあって…。今思うと、まさに李徴みたいな状態だったんだよな。それでも友だちでいてくれたみんなのおかげで、今はなんとか人間やらせてもらってるけど、あのときの俺がもし一人ぼっちだったら、李徴みたいにどんどんトラになってたと思う。

かまど そんなこと考えてたのか。だから、みくのしんはトラ目線で共感しながら読めるんだね。

(P181-182)

『少年の日の思い出』で没頭しすぎて周囲が見られなくなり、本来のワガママな自分が現れてしまう話と少し通じるものがありますけれど。「貧すれば鈍する」という言葉がありますよね。困窮した状況に陥ると、人間は愚かな行動をとってしまうみたいな意味です。そんな状態がいわゆるトラの状態なのかもしれません。

私は李徴の虎を高慢すぎてなったものだと、今まで思っていましたが、読み返してみるとまた違った解釈になりました。

それにしても、みくのしんさんにトラだった時期があったなんてびっくりです。勝手なイメージですが、ずっとピュアな方という印象があったので。誰にも歴史があるものですね。

本の作者と話してみる

前作では『変な家』などで知られる雨穴さんが登場されましたが、本作ではお笑いコンビ「ラランド」のニシダさんが登場され、対談されたようです。なんでもニシダさんは小説も書かれているそうで、かまどさんに勧められてみくのしんさんも読んだそうですが、途中からは一人で読了されたそうな。すごいです。

対談のなかで、ニシダさんのイメージと著書のイメージの違いについて触れられました。ニシダさんのポップなイメージと、書かれた本の繊細なイメージがかまどさんにとっては意外だったようで、周囲からも同様のことを言われたそうです。でもご本人としては乖離していないのだそう。

ニシダ 僕が、今まで本の話を他人としてこなかったせいかもしれませんね。多分、本にまつわるパーソナリティって他人には伝わりづらいんですよ。ほら、本について人と話す機会ってあまりないじゃないですか。

みくのしん え?本の話ってあまりしないんですか?

ニシダ 少なくとも、僕は全くしないですし…他の人たちもそうなんじゃないかなぁ?例えば、読書好きが集まって最近読んだ本の話をしても、案外、話も弾まないですからね。僕は純文学が好きだけど、相手はミステリーが好きだったり、別の時代の文学が好きだったりして、同じ話題で盛り上がる機会って意外とないんですよ。

かまど あるあるですよね。読んだ本の話をしても「あれ、読みました?」「いや、それは知らない…」みたいなやり取りばっかりになっちゃうし、本の好みがぴったり合う人なんかめったに出会えない気がします。

(P236より引用)

ここで、こうして読んだ本について触れているので、私の本にまつわるパーソナリティはかなりオープンになっていると思います。ですからニシダさんの逆の状態ですよね。なので、もし、ここの私を知っている方が私と会ったとき、どのような乖離があるんだろう…?と考えると、ちょっとワクワクします。私って、ここで知り合って読んでくださっている方からすると、どういうイメージなんだろう?

私は平々凡々なつまらない人間ですが、私の本にまつわるパーソナリティかぁ…考えたことなかったなぁ。

高校「枕草子

ニシダさんとの対談から古典に興味を持ったみくのしんさん。そこで今度は清少納言の『枕草子』を読むことに。授業で全文覚えさせられたのが懐かしいなぁ…。『竹取物語』の冒頭と『枕草子』の「春はあけぼの…」は暗唱させられた世代です。今はどうなんでしょうね。

みくのしん ニシダさんもかまどもどうやってこれを読んだの?なんか裏技使った?

かまど 裏技ってほどじゃないけど…古典を読むときは、「平安地方の方言」みたいなもんだと思うと、とっつきやすくなる気がするな。あくまで個人的な感覚だけどね。

みくのしん 平安地方の方言?

かまど 大昔の言葉だと思うと途方もないけど、「同じ日本語だけど、平安地方の訛りが強い」くらいの気持ちで読むと、意味は分からなくても意外といけたりするんだよ。例えば、田舎のおばあちゃんと話してても、みくのしんは方言が分からないからって会話を投げ出したりしないでしょ。だからこそ、そういう読み方が向いてるんじゃないかな。

みくのしん そうか…大昔とはいえ、生きた人間が残した言葉であることに変わりはないもんな。そう思うと、不思議といけそうな気がするな…。

(P275より引用)

これは是非、参考にしたい考え方…!私も古典や純文学に興味こそあれど、言葉が分からないから…と苦手意識を強くもっていました。そっか、方言だと思えばいいのか。異国語のように文字すら分からない・・ってわけじゃないですもんね。同じ日本で、意味が今とは違えど、同じ日本語ですもんね。手がかりはいくらでもあるのか。

勿論、現代語訳してくれている文章であったり、注釈頼りにはなりそうですが、なんだか私もチャレンジしたらいけるんじゃ…?と思えてきました。かまどさん、ありがとうっ!!

かまどさんのあとがきより

子どものころ授業で「やまなし」を読み、”クラムボン”のかまどさんなりの解釈について発表するも、それは凡庸な答えにとられたそうです。そして別の子の答えらしい答えを「面白い」と、先生はおっしゃられました。

先生は、決して何が正解かを言わなかった。それでも僕の読み方を否定され、先生が正解だと思っているものに教室中が誘導されたことをたしかに感じた。そして、それがとても悔しかった。思えば、これが僕の国語の原体験になっている気がする。

学生時代の僕は、誰よりも国語が得意だった。けれど、同時に、誰よりも国語が嫌いだった。

人の読書に赤ペンを入れるような真似が許せなかったし、人が創った物語を教材にして、勝手に正解・不正解を後付けする学校に納得できないでいた。

(P314-315より引用)

いつだったか、国語の授業で戦争にまつわる物語を読みました。タイトルも覚えていない、いつだったのかも覚えていない、そんな朧気な記憶です。主人公は小学生くらいの男の子で、まだ小さな小さな弟がいます。お父さんは戦争に行ってしまい不在で、お母さんと3人暮らし。生活は困窮して、お母さんは家にある着物を1枚売ってはお金にして、それで何とか生活が回っている。けれど戦争が進みますます貧しくなり、おかゆはいつしか重湯になり、栄養失調からか弟は命を落としてしまうのでした。バスに乗って埋葬しにいく(確か遺体を抱っこしてたはず)も、周囲に怪訝な目で見られ、仕方なくバスを降り、主人公とお母さんは歩いて、埋葬しにいくことに。そしてその数日後、戦争を終えた…みたいな物語でした。

最後、「その〇日後に終戦を迎えた。」みたいな文章があったのですが、テストだったかで、これは時間をどのように捉えた文章か?といった問題文があったんですね。

私は、もっと早く時間が過ぎていたら、もっと早く終戦を迎えていたら、弟が死ぬことも、お母さんが大切な着物を売ることもなかったのに…と思ったので、時間がいかに進むのが遅いかと解釈したと答えました。でも、不正解だったんです。時間の早さを表した文章である、みたいな解説があり、納得がいかなかったのが今でもはっきりと覚えているんですよね。

それ以来、かまどさん同様、作者でもないのにどうしてそれが正解か、不正解かわかるんだ?と国語が好きではなくなってしまったように思います。自分の考えを、よくわからない定規ではかられるって、気持ちのいいものではないのですね。

この本を書いていてようやく気づいたけれど、きっと僕は、あの日の自分を慰めたかったんだと思う。泡粒説が否定され、机で俯いている幼い僕に、「君の読み方も面白いよ」「どんな読み方だっていいんだよ」と言ってあげたいのだろう。

正しいとされる読書を薙ぎ払うように、自由に本と遊ぶみくのしんを見ていると、僕はなにか憂さが晴れるような痛快さを覚える。それは多分、あのときの僕が「いけいけ、やれやれ」と拳を振り上げているからなのかもしれない。

(P316より引用)

私がみくのしんさんの読書を”羨ましい”と思うのは、同じ理由かもしれません。私の考えは☓をつけられたけれど、みくのしんさんはこんなに自由に解釈している。私のあの答えだって間違っていないかもしれない。もっと自由に読んで良いんだ。そう思えるから嬉しいのかもしれません。

そんなみくのしんと「枕草子」を読んだとき、「これは読書であって、国語じゃないから」と言う僕を振り払って、彼が正しい答えを求めて立ち止まる場面があっつあ。

正解なんてつまらないのに。そう思う僕を尻目に、彼は何気ない単語の意味を知ろうとしていた。その答えを得てもなお、長い時間をかけて、自分なりに理解しようとしていた。そして、その答えの奥に、僕が見たことのない景色を見出していた。

僕は驚いた。こんなことってあるんだ。

人の読書を矯正する国語が嫌いだった。だから、そいつが用意した答えの向こう側に、新しい読み方があるなんて考えもしなかった。「つきづきし」を訳した言葉の先に、大パノラマの景色が拡がっていることに気づきもしなかった。

この日の僕は、今までと違う痛快さを感じていたと思う。いじけて机から動こうともせず、国語を睨みつけていた少年が、また黒板に向かって歩き出せる気がした。

(P316-317より引用)

私もそろそろ過去の失敗に固執するのではなく、黒板なり、書物なりにに向かいたいと思う。正しい教養を身につけるため、そして、同時に自分なりの解釈を全力で楽しむために。なんて、思えたのは2人のおかげだと思う。読んでよかったです。

よもやま話

本書には収録されていませんが、この他にも みくのしん さんと、かまどさんが読書にチャレンジした作品があるそうです。そちらは、オモコロというサイトで今も読むことができるそうなのですが、その中に芥川龍之介の『トロッコ』という作品の記事があります。(こちら↓)

omocoro.jp

で、今、私の手元に芥川龍之介の『トロッコ』の書籍があるわけではないのですが、青空文庫様で読むことができる作品ですよね。(青空文庫の『トロッコ』はこちら↓)

www.aozora.gr.jp

ですので、私も今度『トロッコ』を1人でじっくり読んでみて、そのあと みくのしんさんの記事でもう一度 みくのしんさんの読書を追体験する…ということをやってみようかと思っています。『羅生門』とか『オツベルと象』とかもあるみたいなので、追々こちらもチャレンジしてみたいなぁ。

omocoro.jp

ありがたいことに、読書記事もまとめてくださっているみたいですので、ゆっくり読んでいきたいですね。

私は別段、読書家というわけではありません。年間〇〇冊も読んでる…!みたいなことを言えるほど読んでいないし、純文学や経済書など特別難しそうな本を読んでいるわけでもありません。楽しんで読める本をほどほどに読んで、ときどきちょっと背伸びして難しいものを読んでは挫折する…みたいな感じ。

ですので、純文学ってほとんど読んだことがないんです。太宰治とか、芥川龍之介とか、谷崎潤一郎とか、中島敦とか、永井荷風とか、読んでみたいな…と思う作家はたくさんいます。けれど、「でも、難しそうだし…学の無い私には無理だよね」と今まで諦めていました。

けど、みくのしん さんと かまどさんの2人の読書を見ていて、読書に正解なんてないと気づかされました。挫折してもいいんだと。私もまた読んでみたいな…と思えるよになりました。これは本当にお二人に感謝したいんですが、「そっか、読みたいと思った本を読めなくてもいいのか」と思えたのは大きな進歩だと思います。

これまでは読める本にばかり挑戦して、新しい世界を見ることはあまりなかったのですが、これからはちょっと読む世界の幅を広げてみてもいいかも…と思っております。2026年、何を読みましょうかね。

今回はこの辺で❀