東京駅の設計者である辰野金吾。彼の師匠であるジョサイア・コンドルは「日本の近代建築の父」と呼ばれる人です。明治時代にお雇い外国人として、イギリスから日本に招聘され、工部大学校の教授をしながら、かの有名な”鹿鳴館”をつくりました。そんな彼がどのような生涯をおくったのか。
前回に引き続き、『鹿鳴館を創った男』という本を拝読しましたので、勉強になったところなどを綴っていきたいと思います。
どんな本?
明治のイギリス人お雇い建築家で、日本建築界の育ての親とも言われながら、没後60余年もの間忘れ去られていたコンドル。彼はいったいどんな人物で、日本に何を残したのか。その生涯を多くの資料をもとに丁寧に解き明かす。
(Amazonより引用)
第二章 日本でのジョサイア・コンドル
明治十年(1877年)一月二十八日、イギリスから遠路はるばる日本の横浜港にやってきたジョサイア・コンドル。この日から、工部大学校造家学科教師 兼 工部省営繕局顧問となりました。そして、彼に日本政府が求めた仕事は主に三つでした。
一つは教育である。ジョサイアが赴任した工部省は、既に述べたように、鉱山、鉄道、電信、灯台、製鉄、造船など、富国強兵と殖産興業のための国策事業を経営を所管していた。これは、言い換えれば欧米列強に伍する近代国家たるための、インフラストラクチャーの整備を専門としていたということで、明治という特別な時代にだけ存在し得た特殊な官庁だった。
(中略)
伊藤が作った工学寮は、明治六年に開校し、明治十年一月に工部省改組により、工部大学校として工部省工作局に属することになったが、この工学教育機関で工部省が目指したのは、即戦力となる実践的知識を身に付けた工業技術者の養成だった。同じ高等教育機関であっても、そこに東京大学との大きな違いがあった。学問の府というよりも、実践的知識の習得と訓練の場だったのである。そこで教鞭をとるのは、当然ながら全員お雇い外国人だったが、工部省にはもちろん、外国人をいつまでも雇い続けるつもりはなかった。やがて卒業した日本人が、外国人に代わって教壇に立つのである。お雇い外国人によるインフラの整備、そして日本人による工学教育の開始。この二つが、工部省の使命だった。
(P76-77より引用)
ジョサイア・コンドルが来日するまでの日本は、言ってしまえば発展の途中段階でした。それまで整備されていなかったインフラを頑張って整えるぞー!の状態。というよりも、日本式のインフラを、欧米列強と同じ水準まで上げるぞー!と躍起になっていたと言った方がいいかもしれません。
異国の水準にあげるためには当然、異国の技術であったり知識が必要なわけで。それで日本政府はイギリスやフランス、ドイツなどの海外からお雇い外国人として技術者に来てもらって、その技術で新しいインフラを整備していきました。
でもお雇い外国人はいつまでも雇用し続けるというわけにはいきません。お雇い外国人の雇用するにも大金がかかりますし、インフラ整備にはもっとお金がかかります。
ならどうするか。日本人でも同じものを作れるようになればいいのです。そんなわけで、教育が重要と考えられたのですね。
残る二つは、営繕局顧問建築家としての仕事である。
工部省の建築部門として、政府の大型建設プロジェクトを一手に仕切る営繕局は、政府内でも特別な部門だった。それは新政府発足以来、営繕事業の所管庁が幾度となく変遷してきた経緯を見ても分かる。
(中略)
このように、営繕事業を所管する上級庁が大蔵省、内務省、工部省と強大な官庁ばかりであることからも分かるように、営繕事業は常に権力中枢のコントロールを受けていた。なぜそれほどまでに、当時の政府営繕事業が重要視されていたのか。それは、当時の政府営繕事業が、日本の最重要課題とも言うべき二つのプロジェクトを含んでいたからだった。皇居新宮殿の造営と、西洋諸都市に劣らぬ日本の帝都東京の建設である。営繕局顧問建築家に就任するジョサイアは、当然この二つのプロジェクトに参画するのである。
(P78より引用)
天皇様が京都から東京(江戸)に一時的にうつられることになられるのであれば、当然東京にもお住まいが必要です。
そして、海外からの要人が日本にやってきたときに、迎える建物だって必要ですよね。この当時の日本では、室内を靴を履いた状態で歩くなんてご法度でしたよね。ですが、逆に海外の方々からすると靴を脱ぐとか、畳(床)に座る…とかの方が難しいのです。海外の方の文化に合わせた施設。それもどうせ作るのであれば、相手が日本を舐めないようにそれなりに素晴らしいものでなければなりません。しかもこれを1つの建物ではなく、都市単位でやろうとしているのですから大変ですよねぇ。
まずジョサイア・コンドルの教授としての働きですが、彼は人格者であり、教育者としてとても秀でていたようです。
ジョサイアの造家学科には、実他科の五年生に今度新旧したばかりの曾禰達蔵、辰野金吾、片山東熊、佐立七次郎、宮伝次郎、専門家の四年に藤本藤吉、渡辺譲、三年に坂本復経…(中略)…らがいた。専門科や実他科の学生の年齢は、ジョサイアの同い年の曾禰を筆頭に、ほんの一、二歳しかジョサイアと違わなかった。ジョサイアには、年齢の割りに幼い顔に見えたが、彼らは官費で教育を受ける選ばれた若者達であり、日本工学界の期待の星だった。彼らこそ、しょうらい の日本の建築界を形成することになる若者たちだった。また彼らもそのことを十分に認識していて、建国の志に燃えていた。
しかし彼らは、建築を学ぶべき造家科にいながら、まだ建築学の講義を受けたことが無いという有様だった。ジョサイアが来るまで体系的に建築学を講義出来る者がおらず、在日中の建築家ないし建築技術者を講師として、図面の模写と建築現場の測量実習の指導を受けていただけだったのである。
(P82-83より引用)
技術者として優秀だからといって、教育者として優秀とは限りません。勿論、逆もしかりですけれど。また、その教育者が人格者とも限りません。ジョサイア・コンドルが教鞭をとる以前の教師は、その典型であり、そのうえ日本人蔑視もあったそうな。そんな状況でしたから、曾禰たちにとってジョサイア・コンドルはやっと来てくれたちゃんとした教師だったのでしょうね。
結果的に辰野金吾(首席で卒業)という素晴らしい建築家が生まれ、東京駅や日本銀行がつくられました。それは同時に、お雇い外国人の必要がなくなることでもあります。
辰野金吾が果たした役割は、多数の建築群を生み出した建築家というだけではなかった。それは、ジョサイアをはじめとするお雇い外国人時代の幕引き役である。それまでの国家的大建造物は、みなお雇い外国人が手掛けたものだった。その状況に終止符を打ったのが日銀本店だった。辰野は、維新後の日本の記念碑的大建築を建てたはじめての日本人になったのである。その意味でも、日本銀行は日本建築界の転換点の象徴だった。逆に、日本銀行以降、日本の国家的事業が外国人に任されるということはなくなった。ジョサイアは日本がその日を迎えるために雇われていたのである。
(P92-93より引用)
頑張って教育すればするほど、ジョサイア・コンドルからすると仕事がなくなる…というちょっと切ない状況ではありますけれど。彼の仕事はそれだけではありませんからね。
教壇に立ちつつ、同時に営繕局顧問として数多くの建築プロジェクトに参加することになります。
それは首都東京の建設ということであるが、しかし実際には、都市の建設というよりも、江戸の町を西洋建築で化粧すると言った方が正解だったかもしれない。
(P95より引用)
来日間もないジョサイアが、まず取りかかったのは、築地訓盲院、開拓使物産売捌所、そして上野の帝国博物館(のちに帝室博物館)だった。
ジョサイアは、日本でのデビュー三部作となるこれらの作品を、得意のヴィクトリアン・ゴシック様式を基調にまとめた。築地の盲人のための施設訓盲院は、ゴシック様式の前の中世建築様式であるロマネスク様式でデザインし、隅田川と新堀川の中州に敷地があった開拓使の建物は、イタリアの水の都ヴェネチアをイメージしたのであろう。日本初のヴェネチアン・ゴシック様式になっている。そしてなぜか窓周りにはイスラム様式が採用されていて、外壁の赤白まだらの煉瓦のアーチが美しかったという。
(P99より引用)
こうしてジョサイア・コンドルは自分の作品が世に出たわけですが、おおむね好評だったようで。なぜか上野帝室博物館もヴィクトリアン・ゴシック様式にイスラム様式を取り入れたものになっていたそう。いまとなってみると、ちょっと違和感がありそうですけれど。当時の人々からすると、銀座煉瓦街以外はほとんど知りませんし「なんか素晴らしい賞をとった人の建築でしょう?さすがよねぇ」くらいの感じで好評されたんじゃないでしょうか。
ただこのイスラム様式を取り入れるジョサイア・コンドルの手法は、日本政府からすると不要だったのではないでしょうか。日本政府は西洋建築を求めているのであって、東方趣味に味付けされたものを求めているのではないのですから。
ロマン主義時代の様式であるヴィクトリアン・ゴシック様式は、しばしば東方趣味、ヨーロッパにとっての東方であるインド・イスラム系の様式を取り入れる傾向があった。したがって、東方趣味のあるヴィクトリアン・ゴシック様式それ自体は、特に珍しいものではなかった。また彼らにとっての東方は、われわれ日本人にとっての西方になるが、その西方の国々インド・イスラム方面の文物は、かつては日本人にとっての異国趣味として馴染みがあったということを考えても、特にジョサイアのデザインに問題があるようには思われない。
問題は、ジョサイアが日本の建築にイスラム様式を取り入れた理由だった。日本でのデビュー作となるこれらの作品に、なぜジョサイアは、インド・イスラム系の味付けをしたのか。その理由について、ジョサイア本人の解説がある。
ジョサイアは、「他国の建築家」が「日本の如く一の国民的様式の連続」する国で「建築の造営に従事する」ときは、「まず、如何にしてこの国民的建築を永続せしめ得るやなる問題について腐心する」ものだと述べたうえで、次のよう言っている。
(P102より引用)
永く使うにはどうするかを考えた結果、日本に西洋建築を建てるのであれば、イスラム様式を入れるべきた的なことらしいのですけれど。
そして悩みぬいた末に、ヨーロッパと日本との地理的中間地点に当たるインド・イスラム様式を思い付くに至ったのである。
(P103より引用)
読みつつ「なんでやねん!」とつい呟いてしまったところ。すごくすごく考え抜いて、西洋建築と日本を融合するためには…と苦心してくれたのは理解できるのですが、やっぱり、ちょっと要らんお節介だと当時の日本政府が思ってしまったのも理解できると言いますか。熱心に仕事してくれた結果がこのすれ違いっていうのは、ちょっと切ないですね。
その後もジョサイア・コンドルは様々な建築に携わっていき、そのどれもを熱意をもってこなしていきます。けれど…
これらの仕事を通じて、双方の間に横たわる思惑、感覚、価値観、世界観の違いと言ったものが明らかになり、蜜月を過ごすはずだったジョサイアと日本政府は、お互いの信用を損ない、不信感を抱いてゆくとになった。その三つの仕事とは、皇居造営計画、外国人接待所、そして中央諸官庁集中配置計画である。
(P105-106より引用)
この皇居造営計画というのは、ジョサイア・コンドルにとってだけでなく、建築家そのものにとって大きな意味のある仕事でした。日本でトップの建築家として名をとどろかせるには、そして名を残すには、やはり関心を持たないではいられなかったでしょう。
地質調査などジョサイア・コンドルも皇居造営に関わることになり、彼は大きな業績を残します。そして皇居造営の洋風建築部分を担当できるか…と思いきや、西洋建築の新宮殿建設が中止されてしまったと言います。ジョサイア・コンドルがかなり地質調査を頑張ったというのに。ショックですよねぇ。その後も日本政府の言うことは二転三転。しかも、まぁ言ってしまえばお役所仕事みたいな感じで対応も遅いし…あれやこれやです。更に計画中止も伝えられず、一人蚊帳の外に放り出されたのですから。
この頃、ジョサイア・コンドルの任期である5年が満了するという時期でした。本来であれば解雇されるはずでしたが、そのまま延長される形となりました。けれど。
すでにジョサイアは自分に課せられた義務と責任を果たしていた。日本も、支払った高給に見合うだけの対価をジョサイアから吸収した。目的は達したのだ。ジョサイアはロンドンへ、祖国イギリスへ帰る。そして日本近代建築の黎明期「お雇い外国人建築家の時代」は、皇居造営計画の頓挫によって、幕を下ろすことになるかにみえていた。
(P128より引用)
そんなときにやってきたのが”鹿鳴館”だったのですね。ジョサイア・コンドルの作品で一番有名な建築がこの鹿鳴館と言っていいのではないでしょうか。明治十六年十一月二十八日に開会式を迎え、その後4年間ほどの煌びやかな時代「鹿鳴館時代」が始まったのです。
そもそも鹿鳴館とは何か。Wikipediaさんによりますと…
鹿鳴館は1883年(明治16年)に日本の外務卿・井上馨による欧化政策の一環として建設された西洋館である。
国賓や外交の外交官を接待するため、外国との社交場として使用された。鹿鳴館を中心にした外交政策を「鹿鳴館外交」、欧化主義が広まった明治10年代後半を「鹿鳴館時代」と呼ぶ。欧米諸国との間の不平等条約を改正する目的があったが、1887年に条約改正の失敗で井上が辞職したことで、1890年からは華族会館として使用されるようになった。1940年(昭和15年)に取り壊された。
(Wikiより引用)
どうしても鹿鳴館と聞くと、日本人が西洋人の夜会を真似して建てたという印象があります。猿真似なんて言われていたくらいですから。でも実際は外国人接待所として建てられたので、宿泊や接待のための施設なんだそう。パーティーとか結婚式してるだけじゃなかったんですね。
ただこの鹿鳴館も他の建築同様、インド・イスラム様式が用いられ、それが奇妙に見え、あまり評価の高いものではなかったようです。
建築界で、鹿鳴館が建築作品として高い評価を受けていないことは明白である。そしてそのために、弟子たちはコンドルの作品について口を閉ざさざるを得ず、話題に上することを避けてきた。それが、建築界でジョサイアが永い間忘れ去られ、ほとんど無視されることになった理由である。
さらには鹿鳴館が、明治二十年代の国粋主義運動の高まりとともに、眉をひそめて「国辱」的と語られるようになったある時期のシンボルだったために、それに触れることがタブー視されたせいでもあるだろう。
(P145より引用)
その後も、日本政府とジョサイア・コンドルの間にある溝は深まっていく一方でした。工部大の教え子も卒業し、明治十六年からは辰野金吾が教団に立ち、ジョサイア・コンドルは十八年まで兼任していましたが、それももう必要ないところまできました。もう、イギリスに帰るタイミングがきたのです。
しかし、イギリスからしてみれば極東(日本)で仕事をしてきただけの建築家。現在イギリスの最前線ではない、ここ数年の新しい情報をアップグレードされていない人物に価値があると思うでしょうか。ちょっと微妙そうだなぁ…というのがイメージできますよね。
けれど日本であれば、ジョサイア・コンドルの名前は有名でしたでしょうから、日本政府ではないにしろ、他の財閥であったりから仕事をもらうこともできるわけで。結局のところ、ジョサイア・コンドルはイギリスに一時帰国することはあれど、最期のそのときまで日本で過ごすことになります。そして、日本政府から離れることで数多くの素晴らしい作品を残すことになるのでした。また日本文化にも強い興味を持ち日本画の巨匠・河鍋暁斎に弟子入りすることにもなるのでした。
以前拝読した『英国一家、日本を食べる』でも思ったことなのですけれど。今も昔も、日本人は海外のものを求めるのに対して、海外からきた外国人の方が日本の素晴らしさを理解している、ということがあります。こういった不思議な構図が存在するんですよね。そしてこれは、ジョサイア・コンドルにも当てはまったようです。
日本の文化は、鎖国によって戸口を封じられたまま、燗熟した。合理化されることがなかったからこそ、日本の文化特異な様式を持ったのではないか。そういうことを、暁斎の絵は考えさせるのである。江戸から続く狩野派の正統を受け継いだ、絵師暁斎の技であったからこそ、ジョサイアに見えてくる日本文化の一面があったのである。暁斎との出会いはジョサイアの日本文化とのかかわり方の岐路となった。
西洋の近代建築を日本にもたらすために来日したジョサイアは、自分が仕事をすればするほど日本という東洋の国の固有の文化を歪めることになるという、大きな矛盾を抱えていた。日本の近代化は、ロマン主義の幻滅にほかならなかった。ロマン主義が内包するノスタルジーは、滅びゆくものへのノスタルジーなのであり、拡大再生産を至上の目的とする西洋文明から見れば、日本固有の文化が滅びてゆくのは歴史的櫃是だったのである。
(P186より引用)
ところで。日本で永住することに決めたジョサイア・コンドルは、その六十七年の生涯で八十の作品を残したそうです。私がお邪魔してみたいなぁと思っている旧岩崎邸もその一つ。
大正も半ばを過ぎると、もうジョサイアを鹿鳴館の建築家と呼ぶものは、ほとんどいない。それは時代の移ろいとともに、鹿鳴館時代が遠くなったせいでもあったが、それ以上に三菱一号館、岩崎邸、三井倶楽部などの名作の作者として知られるようになったからだった。
(P205より引用)
ジョサイア・コンドルは日本人の妻くめとともに、そして晩年は孫と共に暮らし、享年六十七歳でこの世を去ったと言います。そして東京護国寺の墓地に埋葬され、今もそこで眠っているそうです。
ちなみに、文京区指定史跡なんだそうな。「コンドル墓」として登録されており、案内板も建てられています。
感想
ノンフィクション作品あるあるなのですけれど。ジョサイア・コンドルの生涯を知るというだけであれば、正直に申し上げるとWikipediaを読めば済むだけの話です。実際、本書を読む前にサラっとですが、一読しました。しかし、Wikipediaはやはりデータの集合体でしかありません。それはそれで便利なものですけれど。
一冊の本として読みこんでいくことで、やはりより深まると言えばいいでしょうか。情景が浮かんでくるんです。データの奥に、彼がこの時 どのように感じたのだろうか。苦悩があったのだろうか。そういった人物としての存在を感じることができ、興味深い1冊でした。読んでよかった❀
それに彼の人生だけでなく、当時の時代背景や必要な項目がすべて細かく解説されていたので、とても読みやすかったです。こういう時代だったのか、こういうものが合ったのか…と学びが詰まってました。
今もジョサイア・コンドルの作品で残っているものもあるので、見てみたいですねぇ。せめて旧岩崎邸だけでも行きたい…ビリヤード室見たいです!あと本書をきっかけに、更に辰野金吾に興味が湧いたので、彼に関する本も読んでみたいなぁと思います。
よもやま話
感想の①でも触れたと思いますが、ページとしてはそこまで厚くないのですが、普段軽い本しか読まない私にはなかなかな情報量でして。ブログにするのに随分とかかってしまいました。いぁあ、書ききれてよかったです。
ところで、今回少しだけ触れた河鍋暁斎。少し前にサントリー美術館で展示をしていましたね。タイミングが合わずにいけなかったのですけれど。7月11日から9月23日は神戸、10月10日から12月6日は静岡で展示されるのだそう。今回は見送るつもりなのですが、追々暁斎の作品も見てみたいなぁと思っています。長澤蘆雪の展示も面白かったし、暁斎もきっと面白いんだろうなあ❀日本画って、狭き門で自分には程遠い存在だと思っていましたが、意外と間口は広いのかも。
建築に絵画に読書に…。あぁ、学びたいものって泉のように湧いてとまりませんね。何から手をつけようかしらね。
